「ヘッセが東洋思想の話を書いているのか」と興味を持ち、読んでみた。
シッダールタは若い時に、「悟りを開いた高僧」ゴーダマに出会い、その偉大さをひと目で見抜いて心を打たれる。
しかし、その場でゴーダマに弟子入りした親友のゴーヴィンダとは違い、シッダールタはゴーダマに弟子入りせず、遍歴の旅に出る。
修行をするのかと思いきや、シッダールタは都へ行き、そこで裕福な商人の客人になり、高級娼婦の愛人になる。
最初は享楽的な生活を送りながらもそれを軽蔑していたシッダールタだが、長年同じ生活を送るうちにすっかり贅沢に馴染んでしまう。
初老に差し掛かったころ、ようやくこれは自分の本来の生活ではないと思い、再び旅に出る。
若いころはゴーダマの偉大さを即座に見抜くような直観に優れていたシッダールタが、あっさり贅沢な生活に馴染んで初老までその生活に染まっていく展開に驚いた。
その後、その生活をすべて捨てる時も特に大きな苦悩も挫折感も葛藤もなく、自分の身ひとつで再び遍歴の旅に出る。
旅に出たシッダールタは、川のほとりでヴァズデーヴァという渡し守に出会う。ヴァズデーヴァは、今までの人生のすべてをこの場所で渡し守として過ごしてきた人物である。
ヴァズデーヴァは(略)ただ黙ってシッダールタの話に耳を傾ける。
シッダールタは渡し守に自分の素性と生活を、きょう絶望したあのとき眼前に見たままを語った。深夜まで彼の話は続いた。
ヴァズデーヴァは注意深く耳を傾けた(略)
これはこの渡し守の美徳の中で最大の美徳のひとつだった。つまり彼は傾聴することを心得ている点でたぐいまれであった。
ヴァズデーヴァは一言も発しなかったけれど、話者は、相手が自分のことばを静かに胸を開いて待ちつつ摂取してくれるのを、一言も聞きもらさず、一言もせっかちに待ち受けることをせず、賛辞も非難もならべず、ただ傾聴するのを感じた。
(引用元:「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ/高橋健治訳 新潮社 p134/太字は引用者)
シッダールタはヴァズデーヴァの傾聴の姿勢に心を打たれてこう言う。
「(前略)傾聴することを心得ている人はまれだ。おん身のようにそれを心得ている人に会ったことがない」
(引用元:「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ/高橋健治訳 新潮社 p135)
「傾聴」とはそもそも何なのか。
それを知ることも難しい。
自分が学んだ限りでは、「傾聴」は一般的な人間にとっては後天的に身につける技術である。
しきりに関心するシッダールタの言葉に、ヴァズデーヴァはこう答える。
「おん身はそれを学ぶだろう。だが、私からではない。傾聴することを川が私に教えてくれた。おん身もそれを川から学ぶだろう。川は何でも知っている。人は川から何でも学ぶことができる」
(引用元:「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ/高橋健治訳 新潮社 p136/太字は引用者)
シッダールタはヴァズデーヴァに弟子入りして渡し守になり、川からすべてを学ぶ。
「おん身も川から、時間は存在しないという秘密を学んだか」(略)
「シッダールタよ(略)おん身の言おうとすることはこうだ。川は至るところにおいて(略)同時に存在する。川にとっては現在だけが存在する。過去という形も、未来という影も存在しない」
「それを学び知ったとき、私は自分の生活を眺めた。すると、これも川であった(略)少年シッダールタは、壮年シッダールタと老年シッダールタから、現実的なものによってではなく、影によって隔てられているにすぎなかった。
シッダールタの前世も過去ではなかった。彼の死と、梵への復帰も未来ではなかった。何物も存在しなかった。何物も存在しないだろう。すべては存在する。すべては本質と現在を持っている」
(引用元:「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ/高橋健治訳 新潮社 p138/太字は引用者)
シッダールタが「川から時間は存在せず、すべては川に存在する」と学んだあと、ヴァステーヴァは渡し守をやめ、森へ帰っていく。
「私はこの時を待っていたのだ。友よ、その時が来たので私は行かせてもらおう(略)長い間、私は渡し守ヴァステーヴァであった。もう十分だ(後略)私は森の中に入る。統一の中に入る」
(引用元:「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ/高橋健治訳 新潮社 p175/太字は引用者)
「長い間、私は渡し守ヴァステーヴァであった。もう十分だ」という言い方がいい。
「自分が自分という『個』であったのは、便宜上(見せかけ上)のことにすぎない」
一元論の世界観では、区切りは便宜上のものにすぎない。時間も自他もすべてが「影」なのだ。
ヴァステーヴァが去り、一人になったシッダールタの下に再びゴーヴィンダが現れる。ゴーヴィンダはシッダールタと道を違えてからずっと、ゴーダマの弟子として研鑽を積んできた。
だがここに至っても、自分が悟りの境地……というより、何かを学び得たという実感がない。
そのため自分とは違う道を歩んだことによって得たものを、シッダールタに教えてくれと頼む。
シッダールタは、自分がこれまでの人生から得たこと、なぜゴーダマに弟子入りすることをせずゴーヴィンダと別の道を歩んだのか、なぜ世俗の享楽を体験したのか、渡し守になることで何を得たのかを語り出す。
「(前略)知識は伝えることができるが、知恵は伝えることはできない(略)それこそ私がすでに青年のころからほのかに感じていたこと、私を師から遠ざけたものだ(略)
思想でもって考えられ、ことばでもって言われうることは、すべて一面的で半分だ(略)崇高なゴーダマが世界について説教したとき、彼はそれを輪廻と涅槃に、迷いと真、悩みと解脱に分けなければならなかった(略)教えようと欲するものにとっては、ほかに道がないのだ。だが、世界そのものは、われわれの周囲と内部に存在するものは、決して一面的ではない(略)
そう見えるのは、時間が実在するものだという迷いにとらわれているからだ。時間は実在しない(略)
時間が実在ではないとすれば、世界と永遠、悩みと幸福、悪と善の間に存在するように見えるわずかな隔たりもひとつの迷いに過ぎないのだ」
(引用元:「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ/高橋健治訳 新潮社 p181‐P182/太字は引用者)
自分もさほど詳しいわけではないけれど、これは「頓悟と漸悟の違い」を語っているのだと思う。
「石はおそらく一定の時間のうちに土となるだろう(略)
『この石は単なる石にすぎない。無価値で、迷いの世界に属している。だが、意思は変化の循環の間に人間や精神になれるかもしれないから、そのゆえにこれにも価値を与える』以前ならたぶん私はそう言っただろう。
今日では私はこう考える。この石は石である。動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある。私がこれをたっとび愛するのは、これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ(略)
一つの(動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある)石を私は愛することができる。だが、ことばを愛することはできない。だから教えは私には無縁だ(略)
たぶんおん身が平和を見出すことを妨げているのは、それだ。たぶんことばの多いことだ。解脱も徳も、輪廻も涅槃も単なることばにすぎないからだ。ゴーヴィンダよ、涅槃であるような物は存在しない。涅槃ということばが存在するばかりだ」
(引用元:「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ/高橋健治訳 新潮社 p184‐P186/太字は引用者)
これは言葉には意味がない、という意味ではない。
言葉に振り回され実体を見ていないという意味だ。
ゴーヴィンダは必死にゴーダマから知識と思想を学び、修行をし、輪廻を脱出して涅槃に至る道を模索してきた。
だからシッダールタに会った時も、言われるまでシッダールタであることが気付かなかった。自分の頭の中の幻影(思想や概念、言葉のみで構成されたもの)のみを追いかけ続けその中で生き続け、目の前のものを見ていなかった。
シッダールタは世俗にまみれ、人を愛し、享楽に溺れて、川から様々なものを学んだあとでさえ、我が子を自分の手元に置きたいというエゴに支配され苦しんだ。
その経験の果てに「自分自身で知恵を得た」シッダールタになったのだ。
ヘッセは「車輪の下」と「デミアン」くらいしか読んだことがないが、牧師の家に生まれて神学校に入れられ、そこを脱走し、大人になってから神経症に苦しんだという経歴を見ても、そうとう人生に対して悩みが深かったのかなと感じる。
キルケゴールが有名だが、西洋の二元論的宗教観(世界観)に疑問を持ったり、その中で苦しんだ人が別の思想に活路を見出すケースは多い。
今だと欧米社会で東洋思想がオルタナティブなものとして機能するとよく聞くようにになったけれど、ヘッセの時代だとかなり稀だったんじゃないだろうか。
二元論的思考は、「自分と他のものに差異を見出しわける」ことが出発点になる。
「善と悪、神と悪魔、正しさと間違ったもの、上と下」という風に対象を二分していく判断をすればいいので、ある一定の段階までは楽ではある。生きる上での実感に即しているので、すんなりと受け入れやすい。
だが突き詰めれば、自分か他人(自分とは違うもの)を全否定するしかなくなる。
ヘッセのように、抑圧を感じて東洋思想の世界観に興味を持つ人が出てくるのはこれが理由ではないか、と感じる。
真剣にコミットするならともかく、日常を生きるにあたってはどちらか一方を(それこそ二項対立で)選ばなければいけないわけではない。
どちらも自分が生きるためのヒントや潤いになると思って知っていけばいいかな。
「シッダールタ」が面白かったので、続けて購入。