中国の三大教のひとつである道教の概略を↑の本で学んだので、そのまとめ。
世界史リブレットはその分野の全体像が簡略にわかりやすくまとめられている。約800円と値段も内容のわりにお手頃だ。
気になった人は直接読んでみて欲しい。
道教は老子の思想を元にして、太平道と五斗米道を起源としている。
道教は詳細はかなり複雑だけれど、発展の流れは比較的わかりやすい。
「道」というように、道教の大元には老子の思想がある。
だが「老子(+荘子)」の老荘思想そのものを信奉するのではなく、そこを大元に様々な考えやその考えを具現化する方法が発展していき、その総体が「道教」である。
思弁的な要素が強い「老荘」に対して、神仙術を信奉する「黄老」という思想も生まれた。「黄老」は前漢の半ばの武帝の時代、儒学者の董仲舒が現れるまでは政治的イデオロギーとして流行る。
この黄老思想を宗教として確立したのが、漢末期に現れた太平道である。太平道の信者たちが黄巾の乱を起こすことで漢の時代は終わる。
その少しあとに生まれた五斗米道は、蜀に宗教国家を建設する。
有名な「三国志」にも出てくる、太平道と五斗米道が道教の起源である。
「三洞四輔」という分類法によってまとめられる。
黄巾の乱は鎮圧されて太平道は壊滅するが、五斗米道は魏の曹操によって中原に移され、そこで発展していく。
三国時代のあと、五胡の侵入や八王の乱の時にその一部が江南に逃れ、以後、道教は北と南で別々に発展していく。
北方では北魏の太武帝に心酔された。
南方では宋の明帝によって陸修静という道士が招かれ、バラバラだった道教系経典が「三洞」という分類法によってまとめられる。
このあとに三洞を補足する形で生まれた「四輔」を合わせた「三洞四輔」が、その後も道教の分類方法の基本になる。
・三洞とは。
・洞真教(上清教)
・洞玄教(霊宝教)
・洞神教(三皇教)
の三つである。
上清教は、精神をとぎすまして体内神を思念する存思法の修錬などにより、有限で汚濁した人間界を超越し、このうえなく清らかで美しい天上の神仙にいたることを説くもので、現世利益的な性格の強い他の道教系経典より高尚な雰囲気をもつ(後略)
(引用元:「世界史リブレット96 中国道教の展開」横手裕 山川出版社 P33)
「人生は死ぬまでの修行(贖罪)期間であり、死後のために今を過ごせ」という考え方は、「グノーシス主義」や「エジプト神話」に似ている。
この時代だと東西で思想を共有できるほどの交流などもなかったので、世界各地で似たような考え方が生まれる素地があるのかなと思った。どの地域だろうと生きることが過酷な時代だったからだと思うけれど。
上清教における二大経典は「大洞真教」と「黄庭教」であり、「大洞真教」を一万回読むと仙人になれるらしい。
以前、「老子」を三十年間かけて一万回読んだという人の話を聞いたが、もしかしたらこの辺りと何かつながりがあるのかもしれない。
霊宝派の起源は(略)「霊宝五符」という呪符であり、この符を中心とした呪術を行い、それにより邪鬼を退け、個人的な昇仙をとげようというものであった。
(引用元:「世界史リブレット96 中国道教の展開」横手裕 山川出版社 P34)
これだけ読むと完全に漫画の世界だ。
漫画のほうがこういうことをベースにしているんだろうけれど。
(引用元:「鬼滅の刃」20巻 吾峠呼世晴 集英社)
「鬼滅の刃」に出てくるこれは呪符かな。
霊宝教は仏教の大乗思想の影響を強く受けている。
道教の最高神である元始天尊を生み出したのも霊宝教であり、元始天尊が説法する様子が描かれた「度人経」は、霊宝教に留まらず道教経典を代表するもののひとつである。
三皇経は悪鬼魍魎を退けたり鬼神を使役したりすることを説いていたが、唐の時代に弾圧され、現代にはほとんど残っていない。
隋の時代には仏教が重視されたが、そのあとの唐王朝は道教を大きく重んじる崇道王朝だった。
道教は特に仏教とのあいだで抗争がさかんだったが、これまでの内容を見てもわかる通り、思想や学問の体系としては仏教には及ばなかった。そのためこうした対立、論争を通して、道教は仏教の思想を吸収し理論的な進化を目指した。
さらに先に行った北宋の時代、張君房が唐代までの道教教理をまとめた「雲笈七籖」120巻を作成した。
道教の教理を語る上での基本形となる「雲笈七籖」流通したことで、一般の人間にも教義が広く知られるようになった。
宋の時代、文化が発展し庶民にも道教が広まる。
宋の時代になって道教が多くの人に広く知られるようになったのは
①政治的な混乱により貴族がそれまでの力を失い、経済力を持つ地主などが力を持つようになった。
②商業活動の拡大、生産技術の革新、物流網の全国拡大によって、文化に大きな質的変化が起こった。
③印刷出版技術が普及し、専門的な知識が広範囲に伝えられるようになった。
文化を担い手が貴族から富裕庶民層に映ったことが大きい。
社会が豊かになり印刷技術が生まれたことで、知識が一部の人間のものでなくなり、庶民を中心に新しい文化や考え方が生まれた。
日本の江戸期やヨーロッパでも同じことが起こっている。
宋に入ってから多くの階級に広まって発展した姿が、現代に伝わる道教の原型になっている。
南方の宋では「経簶三山」と呼ばれる三つの派が道教の中心になる。
・天師道(龍虎山)
・上清派(茅山)
・霊宝派(閣皂山)
このうち天師道が正一派(教)となり現代まで続く。
北方の金でも三つの宗派が広まる。
・太一教
・真大道教
・全真教
このうち全真教のみが現代まで続く。
明の時代以降は現代まで、正一教と全真教が道教の二大宗派として続いている。
まとめ:「宗教」「思想」「哲学」といった概念の枠組みで捉えらきれないところに、道教の特徴がある。
というのが「道教」の歴史的な変遷だが、本書によるとこれだけでは道教というものの輪郭をとらえたことにはならない。
「道教」は、輪郭がかなり曖昧なところに大きな特徴がある。
日本の道教研究において、これまで「道家」と「道教」の区別、あるいは「教団道教」と「民衆道教」を区別すべきだというような分析的な議論が起こったが、今日ではあまりその種の話は出てこなくなった。
それは決着がついたからというよりは、そのような区分け論は適切に機能しないと認識されるようになったからのようである(略)
道教の総体について枠をつけたり、あるいは分析を加えたりするのはじつはいまだに容易なことではない。
中国文化のさまざまな部分に複雑にからみつきまた入り込んでいる道教は、どうも本来的にすっきりとあつかわせてくれない性格をもっている(略)
道教の中心において考えるべきは、結局「滅惑論」から言われた老子、神仙、符簶あたりということになりそうであるが、その現在の外延の確定は困難である。
むしろこのようなあり方も道教のもつ性格として理解する必要があるのではないかと思われる。
(引用元:「世界史リブレット96 中国道教の展開」横手裕 山川出版社 P83‐87/太字は引用者)
道教は、色々な思想や伝承や呪いや健康法や民間信仰の集合体であり、むしろどこからどこまでが道教かといえないところに特徴がある。
まさに老子がいう「無為自然(発生的なもの)」「あるがままのもの」なのだ。
「宗教」はヨーロッパで成立し、近代に東アジアに入ってきた概念である(略)
「宗教」と「道教」は本来はおたがいを意識せず別個に出来上がったものであり、「宗教」なる概念の枠組みに元来の「道教」はぴったりとおさまりきらないと思われるところである。
別の土地で別の事情でできあがった概念の枠に、対象の本来の内容や性質を考慮せず、押し込めて理解しろというのは、無理が生じやすいのは道理だろう。
この点は儒教についてはかねてより議論されてきたが、本質的に同じ問題のはずの道教や仏教については今日ほとんどかえりみられなくなっている(さらにいえば、「イスラム教」にしても(略)現在はやはり「宗教」概念の枠で考えることが疑問視され、「イスラーム」と表現することが通例になっている)
(引用元:「世界史リブレット96 中国道教の展開」横手裕 山川出版社 P5‐8/太字は引用者)
現代だと「宗教」という語は「道教」などの上位分類語(概念)と思ってしまうが、本来はそうではない。宗教(と哲学)という概念の枠は西洋で生まれたものであり、そこに東洋や中東で生まれたものを無理にはめ込もうとしても理解しきれないのは当たり前だ。
日本でも墓参りや初詣などはどちらかと言えば習慣に近い(少なくとも自分にとっては)信仰とお盆に実家に帰る(親戚で集まる)ために習慣されたものがわかちがたく結びつき区分けすることは余り意味がないというのが実相に近いのではないか。
それを別の基準に当て込むために無理に区切るのではなく、「そういうものだ」と見なければ実相をとらえることができない、という言葉に「なるほど」と納得した。
というわけで老子を読んでいる。
※続き。というより余談。