うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【ザ・ノンフィクション】53歳の男性が地下アイドルに恋をした。「その後の中年純情物語」感想

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2017年4月2日(日)に放送された「ザ・ノンフィクション その後の中年純情物語」の感想です。

 

以前放送された「中年純情物語~地下アイドルに恋をして~」の続編です。

今回放送されたぶんの前半が、前回の「中年純情物語~地下アイドルに恋をして~」の総集編になっていました。

 

あらすじを簡単に紹介すると、

「カタモミ女子」という肩もみの店に勤務しながらアイドル活動も行うグループで、一番人気がなかった小泉りりあ(通称りあちゃん)。53歳のきよちゃんがりあちゃんの熱烈なファンになる。

しかしカタモミ女子は、メンバーたちの不満から解散してしまう。一人で地下アイドルを続けるりあちゃんのことをきよちゃんは応援し続ける。二人の距離感や、心の交流が描かれています。

 

「カタモミ女子」は普段は肩もみ店の店員です。

会いに来たファンが、一時間6995円で個室(扉はないので完全な個室ではない。)で肩をもんでもらえるシステムです。

番組で映されているとおり、本当に肩もみをする場合もあれば、会話を楽しんだり、プレゼントをし合ったり、二人の時間を過ごせるというシステムになっています。

週末にはカタモミ女子のライブが開催されます。

こういう形態の地下アイドルも多いんでしょうね。

 

深く考えれば思うところはたくさんあります。

「性」とまでは言わないにせよ、自分の実力以外の「若くて可愛い女の子」の部分を個別的に切り売りしてまで、鳴かず飛ばずのアイドルを続けたいのかとか、50代の男性が20歳そこそこの女の子に本気で入れ込んでいる姿は、頭では個人の自由だと思っていても、感覚的には受けつけない部分もあります。

人気があるアイドルではなく、ファンもいない子を選んだのは、その子が本当に好きというよりは、自分の価値が大きくなるからじゃないのか?とか、りあちゃんもたくさんのファンがいたらそこまできよちゃんに良くしないだろうなとか、意地の悪い目で見ればいくらでもそういう感想が思い浮かびます。

地下アイドルというものが、ビジネスモデルとしては相当えげつないものなのだろうな、ということがこれを見ただけで想像がつきますし。

 

ただこの放送を見ていて、そういう「そもそも地下アイドルは~」とか「もしこうだったら」とかそういうことを考えることに、どれほど意味があるのだろうと思いました。

 

例えば、りあちゃんがもっと人気アイドルだったら、きよちゃんのことなんて歯牙にもかけないだろうとか、きよちゃんがイケメンで金持ちだったら、今頃美人な奥さんでもいて、売れないアイドルに金を貢いでなんていないだろうとか、そもそもアイドルなんて商売なんだから、向こうだって商売だろうよとか、それはそうかもしれません。世界を白黒に分けて、言語化すれば、たぶんそういうことになるのでしょう。

 

恐らく本人たちも、そんなことは百も承知なんだと思います。

そんなことは分かったうえで、「ファンがたくさんいるアイドルではない」「イケメンでも金持ちでもないただのおじさん」そういう「もしも」のない世界で出会ったそのままの自分として、虚構だと知ったうえでその世界を生きているんだと思います。

 

だから番組できよちゃんは「いつか終わると分かっている」「いつまでも続くわけじゃないから」と繰り返しているのだと思います。

 

残酷な言い方をすれば「売れない地下アイドルじゃなければ、こんなおじさんなんて相手にしないだろう」「もっとカッコよく大金持ちに生まれていれば、もっと大勢の美人をはべらせていただろう」

お互いにその程度だと相手のことも自分のことも思っているんじゃないか?? そういう見方もできるのかもしれません。

 

でも、その「もしこうだったら」と「今の自分」を比べることにどれくらい意味があるんだろう??

「もしこうだったら、こうしなかった。だから今の気持ちは本物じゃない。本音は「もし」のほうでしょう? だから今のこれは嘘じゃないのか」

虚構だとしても嘘だとしても、それが「虚構であり嘘であるという事実」にどれほどの意味があるんだろう。

「中年純情物語」を見て、一番強く思ったのはそういうことでした。

 

この物語を「自分の視点で説明しろ」と言われば「独身の寂しいおじさんが会いに行けるアイドルにハマって、アイドルのほうもファンが少ないからうまく立ち回って相手を転がしている」という風にしか見えません。

 

恐らくそんなことは本人たちも百も承知で、相手が百も承知していることも分かっている。

でも実際に会うなかで「それだけでもない」何かも積みあがっていって、この物語はその「それだけではない何か」の美しさを描いているのではないかと思います。

 

その「何か」は現実には何の影響力もないもので、りあちゃんがきよちゃんのことをファン以上に思うこともあり得ないし、実際にはアイドルを辞めればきよちゃんとの縁も自然に切れるでしょう。

だからそんなものには何の意味もない、と言えるかもしれません。

ただ自分にはその「何か」が無意味だとは思えないし、仮にそう思ったとしてもその「何か」に現実救われている人に、それを言う気にはなりません。

 

どれほどそれが美しく自分が救われていても、実際には何の意味もないことはきよちゃん本人が一番よく分かっているんでしょう。

だから、最後に言うのが

「いつかは終わりがくるだろうけれど、本人が頑張っているうちは応援したい」

という言葉なんだと思います。

 

嘘かもしれない、虚構かもしれない、他人から見ればお笑い草かもしれない。

でも「売れない地下アイドル」「冴えないおじさん」として出会った二人が、虚構だと分かっていても、いつか必ず終わるその虚構を必死で大事にしている姿がとても美しかったです。

 

こういう人を「ファン」というのだろうな、と思いました。

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