映画化もされたコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」を読んだ。
- 作者: コーマック・マッカーシー,黒原敏行
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/05/30
- メディア: 文庫
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「ザ・ロード」はこんな人におすすめしたい。
すごい本だったので、読んでいない人には全力でおススメしたい。
と言いたいところだけれど、たぶんこの本は好みがかなり分かれる。
「ザ・ロード」のあらすじはシンプルだ。
何らかの理由で太陽の光が届かなくなり寒冷化し、ほとんどの生物が死に絶え、人間が殺し合い食い合う世界を、父親と息子が南に向かってひたすら歩き続ける。
一人でマラソンや登山をしたり、山にこもる修行や考え事をすることが好きな人はおそらく好きだと思う。好きというか、のめりこんでしまう可能性がある。
ゲームだとソウルシリーズや「ワンダと巨像」が好きな人は好きだと思う。
「ワンダと巨像」が「自分が始めた物語をたった一人で戦い続ける話」なら、「ザ・ロード」は「道を歩き続けることで、自分が生きる意味(物語)を作り出す話」だ。
「ザ・ロード」はすごい話だ。
なぜそう思ったのかを個人的な解釈とともに話したい。
「ザ・ロード」はディストピア小説ではない。
自分にとって、「ザ・ロード」はディストピア小説ではない。
「ザ・ロード」で「世界がなぜこうなったのか」という理由や設定が語られないのは、手落ちでも手抜きでもない。
「語られない」「情報がない」ことが重要なのだ。
「ザ・ロード」は、情報を徹底的にそぎ落している。
「世界がなぜこうなったのか」はおろか、登場人物の名前も地名も何ひとつ出てこない。(出てきたのは「イーライ」のみだ。嘘だ、と言っているが)
主人公とその息子にも名前がない。
名前がないうえに、息子が生まれる前の世界はどういう風だったか、その世界で主人公がどう生きていたどういう人物だったのか、世界が崩壊して息子が生まれたあと、彼らはどうやって生き延びてきたのか、こういった情報が一切書き込まれていない。
何故、これほど情報がそぎ落とされているのか。
この物語内で「情報」とは何なのかを、イーライが「名前」を例示に話している。
名前は教えられない。それで何かされると厭だからね。(略)
そりゃわしのことを話題にはできるだろう。でもそれがわしのことだとはわからない。誰のことであってもおかしくはないからな。
こういうご時世には話題にされることは少なければ少ないほどいいとわしは思っている。
(引用元:「ザ・ロード」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 P199 早川書房/太字は引用者)
この物語の中で「神なき世界の預言者」であるイーライの言葉は、唯一「本物らしくみえる情報」だ。
「本物らしくみえる情報」は何か?
それは「情報は真偽がわからず、それどころかその意味さえ一瞬で変質するもの」ということだ。
この世界では、「情報」は人に害をもたらすもの(何かされる原因になるもの)でしかない。
これは情報化社会である現代との対比に読める。
この世界は「情報があればあるほどいい、情報にあふれている現代社会とは違う」とはっきり言っている。真偽が分からない、意味がない、それゆえに害にしかならないものなのだ。
イーライはそれを証明するように、「イーライ」と名乗ったあと、「名前は本当に『イーライ』なのか?」と聞かれると「いいや」と否定している。
この一点でも、「なぜこういう世界になったのかわからないこと」(設定があやふやなこと)で、「ザ・ロード」を批判するのはそうとう筋が悪いと思う。
「そんなことは何の意味もないこと」であり、仮にそれが書かれてたとしてもその真偽をどう確かめるのか、なぜそれを正しいと判断し満足するのか、そういうことをイーライが本書の中で語っている。
「ザ・ロード」は寓話である。
「ロング・グッドバイ」の後書きの中で、「チャンドラーが考える物語の性質」について書かれた箇所がある。
「もしあなたが、朝起きたときに腕が三本になっていた人間の物語を書くとすれば、その物語は腕が一本増えたためにどんなことが起こったか、というものでなくてはならない。腕が増えたことを正当化する必要はあなたにはない。それはすでに前提としてあるものだ」と。
つまり腕が一本増えたために主人公がとる行為と、その行為が招聘するであろう別の行為との相関性の中に、腕が増えた理由も(自発的に)暗示されていくべきだというのが、チャンドラーの考え方なのである。
(引用元「ロング・グッドバイ」レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳 P543 太字は引用者)
「ザ・ロード」の設定は、「なぜ、世界が滅んだのか」に限らず、アラが目立つ。ご都合主義の連続だ。
主人公が息子を守るために殺した男は、主人公にとって「あの男は少年を除けばこの一年以上のあいだに初めて言葉を交わした相手だった」(P87)が、このあとの展開で、二人は何人かの人と出会い、言葉を交わす。
物語が始まったとたん、突然、いろいろな人がタイミングよく主人公たちの前に姿を現す。
また人々は食人行為を行うほど食べるものがなくなっているが、そのわりには主人公たちの行く手には手つかずのシェルターが現れたり、それなりに食料が見つかったりする。
イーライのような老人が一人で旅を続けられるのはなぜなのか、少年は世界が崩壊したあとに生まれたようだが、どうやってここまで育ったのか、など現実的に考えると疑問が山のように出てくる。
そういったご都合主義の最たるものがラストシーンである。
父親が死んだとたん、少年の前に彼を保護する「善き人々」が姿を現す。
「ザ・ロード」は、ストーリーだけを見れば「ご都合主義の出来レース」だ。
作者はそれを特に隠そうとしていない。なぜなら「予定調和的なご都合主義」は、この物語の「前提」だからだ。
「善き人々」が出てきたのは、偶然ではない。
彼らは父親が死んだあと、都合よく少年に会ったのではなく、「父親が死んだから」登場したのだ。
父親が死んだら、「火=息子」を「次の善き人」が受け継がなくてはならない。受け継がなくてはならないから、出てきたのだ。
「ザ・ロード」は寓話である。
寓話なので設定自体は、語りたい何かを語るためのテンプレートに過ぎない。
「滅んだあとの意味のない世界を、火=息子を守りながら旅を続け、それを別の誰かに受け渡す」
これはテンプレートに過ぎないので、なぜ世界が滅んでいるのか、なぜ滅んだあとの世界がこうなのか、なぜ一年以上も人に会わなかったのに都合よく人がどんどん出てくるのか、ということを考えても意味がない。
それらは、そういう世界で主人公がとった行動にどんな意味があるのかということを考えることで、おのずと浮かび上がってくるものだ。
そして「主人公がこの世界でとった行動の意味」は、ラストシーンで浮かび上がってくる。
意味がわかったことによって、主人公の人生は「情報のない無意味の集積」から「意味のある物語」になるのだ。
「ザ・ロード」が徹底しているのは、「世界の意味」「生きる意味」どころか、「自分自身という意味」すらそぎ落とされているところだ。情報がなく、自分自身にも何の意味も付与できない。
おれたちは追いはぎじゃない。
老人は片方の耳をこちらへ向けた。え?
俺たちは追いはぎじゃないといったんだ。
するとあんたらはなんだね?
この問いには、なんとも答えようがなかった。
(引用元:「ザ・ロード」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P186/太字は引用者)
自分自身が何者であるかすら「答えようがない」。生きる意味も死ぬ意味も喪失している。
仮になにをしたらいいか知っていたとしてもなにをしていいかわからなかっただろう。それをやりたいかどうかわからなかったろう。(略)
じいさんはできれば死にたいと思っているのか。
いや。でももう死んでいればいいのにと思わなくもない。生きているといつもその問題が目の前にある。
あるいは生まれてこなければよかったと。(略)それは贅沢すぎる望みだと思っているわけだ。
起きちまったことはしかたない。とにかくこんな時代に贅沢をいうのは馬鹿げているよ。
(引用元:「ザ・ロード」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P196/太字は引用者)
「ザ・ロード」に不満があるとすれば、イーライが説明しすぎている、という点がある。この話が何なのか、はイーライの話を聞くとだいたいわかってしまう。
イーライの話自体はとても好きで、何度も繰り返し読んでいる。
だからこれを減らせ、というのも嫌なのだが、話全体を見渡すと説明しすぎだと思ってしまう。これこそ「贅沢すぎる望み」だな。
「物語とは何なのか」を語った物語。
「飢えている子供に文学は意味があるのか」という命題を聞いたことがある。
自分の意見は、過酷で絶望的な状況の中でこそ、「なぜ自分がこんな目に遭うのか」「なぜ、世界はこうなのか」「こんな人生に、こんな世界に何の意味があるのか」という物語(意味)が必要なのだと思う。
だから過酷な環境下で、人は宗教を生み出した。
しかし人がお互いに殺し合い食い合う世界では「人間」はいない。
イーライが言う通り、「人間たちがいないところでは、神さまたちも生きられない」
人がいない世界では、物語も意味も生み出されない。
イーライは物語も意味もない、神さまのいない世界の預言者だ。(あるいはイーライではない、偽物の預言者だ)
預言者であるイーライはかつての物語の残滓を語る。それはこの「神さまのいない(意味のない)世界で、『最後の神さま(意味)』と一緒にいるなんて恐ろしいこと」ということだ。
自分一人で「意味」というものは意味を持たない。他人とその意味を確認しあって、初めてその意味は具現化する。
しかし主人公は「意味」を分かち合う他人を持たない。他人がいないまま「意味」と二人で、道を進み続ける。
それは本来は、人間に耐えられることではない。イーライが言いたいのはそういうことだと思う。
この読み方で考えると、「ザ・ロード」は主人公の内的世界の話だ、と考えたほうがしっくりくる。
恐怖に耐えきれず、何もかもを捨てて死に逃げ込んだ妻も、他人をとらえ、殺し、食らうことで生き延びる人間も主人公の一部なのだ。
上げ蓋を上げて地下に降りたときに見た、食べられるためにとらえられた人々は、主人公が心の奥底に押さえつけている恐怖の象徴と見ることもできる。
主人公はそういったものから逃げ、捨てさりながら、人間性の象徴である火(=息子)を守り、そのことによって「善き人間」で在り続ける。
たった一人で「意味」を守る「善き人間」である主人公が力尽きたとき、「意味」は次の「善き人」に受け継がれた。「意味」が主人公と「他の善き人」によって共有されたことによって、主人公がこの絶望的な世界でたった一人で意味を守りぬいた道筋が、物語として浮かび上がったのだ。
「ザ・ロード」は、「物語とは何なのか」ということを語った物語だ。
「情報がない無意味の集積」という終わった世界の絶望の中で、人は生きていけるのか。何のために生きるのか。
無意味の集積の世界という絶望的な状況の中でも、人は意味を、物語を、神さまを生み出すことができる。神さまを、物語を、意味を生み出すことで、「人間として」生きることができるのだ。
すごい話だ。
もう一回すぐに読み直した。
主人公が火を守り歩んできた道筋の意味が浮かび上がり、灰色の世界が生物が生きる世界へと切り替わるラストは、何度読んでも美しい。
映画版も見ようと思うが、予告編を見たら、滅亡後の世界がテーマパークみたいで少し不安。