Amazonプライムビデオで是枝裕和監督「DISTACE」を観た。2001年の作品で、監督作品としては三作目。
(あらすじ)
三年前、都内で新興宗教の教団「真理の箱舟」が、都内の貯水槽に毒物を混入するという無差別殺人を起こす。
事件を起こした四人の実行犯は教団によって殺され、湖に遺灰をばらまかれる。事件後「真理の箱舟」の教祖は自殺し、教団は解体した。
実行犯四人それぞれの元夫・建設会社に勤める実、元妻・教師のきよか、弟で学生の勝、花屋に勤める敦は、毎年四人の命日に湖に集まる。
四人が慰霊のために湖を訪れたあと、近くに止めていたはずの車が消えている。
四人は同じように立ち往生していた、元信者で事件の実行直前に教団から逃げ出した坂田の案内で、実行犯五人が共同生活をしていたコテージで一夜を過ごすことになる。
合う合わないがはっきりしている「沼」のような映画
個人的にはおススメしたいが、「どうにもこうにもまったく面白くないし、興味もわかない」という人がいるのもわかる。
この作品はまさに「沼」のような作品で、ハマった人はすさまじく深いところまで引きずり込まれるが、まったくハマらない人には、波ひとつ立たないただの殺風景な茶色い水たまりにしか見えない。
各所のレビューもかなり評価が分かれているし、読んでいると「何の意味があるのか」と戸惑いを感じている人も多いようだ。
・音楽なし。若干の手ブレあり。
・俳優たちはボソボソ話すことが多く、たまに聞き取れない。
・話に特に落ちはない。意味がはっきりわからない回想シーンと現在の会話で話が進み、起承転結がよくわからないまま終わる。
よくある「ドキュメンタリー風映画」だ。エンターテイメント性は皆無なので、合わない人はまったく合わないと思う。
自分は基本的には自分がいいと思ったものは、「よければぜひ見てくれ」と言いたいタイプだが、これについては合わない人は見るのが退屈で苦痛でしかないだろうなと思うので、上の説明を見て「合わない」と思った人は見ないほうがいいと思う。
でもちょっとでも何か引っかかった人は、試しにぜひ見て欲しい。
2時間12分とまあまあ長い映画で、特に何ということが起こるわけでもない会話劇だが、自分は四人が湖を訪れたあたりから目が離せなくなった。せっかちで長い映画は余り好きではないのだが、この映画は長いとはまったく感じなかった。
感想
この映画を作った意図にもつながると思うけれど、自分はオウムや連合赤軍のような事件が何故起こるのか……ということは何となくわかっても、それを実際にやった人の気持ちがわかるようでわからない。
「マインドコントロールされていた」「心理学的にはこうだ」「洗脳の条件がそろえば、人は認知機能が低下して」とか理屈としてはそうなんだろうな、と思う。
でもどうしても「なぜ、地下鉄に乗ったときに『これはおかしい。やめよう』と思えなかったのか」「なぜ、長い時間を一緒に過ごした仲間に死ぬほど暴行を加えることがおかしいと思えなかったのか」わからない。
もちろん、「逆らえば自分が粛清される」という理由もあったと思う。
だがこの二つの事件について、犯人などが書いた本を読むと、そこで「加害者」となった人たちは多かれ少なかれ、「その瞬間はその理屈が正しい」と思って事件を起こしている。
なぜそんな理屈を信じてしまったのか、善悪以前に理解ができない。
ところが同時にこうも思っている。
こんなにも「わからない」と思っているのに、恐らく自分がもし彼らと同じ立場に立たされたら同じように実行してしまうのではないか。そういう感覚が確かにある。
何故なのだろう?
「DISTANCE」は恐らく少なくない人がこういった事件が起こったときに感じる
・なぜ、あんなおかしい理屈を信じて無差別殺人まで起こすのか。
・その内容自体はバカバカしいと感じているのに、一方で「もしかしたら自分も」と思ってしまう。
この相反する二つの考えを抱く理由が描かれている。
伊勢谷友介演じる勝が、元信者の坂田に「坂田さんには(事件を)とめられなかったんですよね」と尋ねるシーンがある。
坂田は「ほんとにそれは俺はいろんな人に言われてきたことだし(略)でもあそこにいた人にしかわからないこともたくさんあるから」「ほんとにあそこにいなきゃわからないことがたくさんあるんですよ」と答える。
坂田にとっての「あそこ」がきよかの元夫にとっては「宮沢賢治の言いたいことがわかったこと」であり、夕子にとっては「サイレントブルー」だった。
坂田が語った「あそこ」は、実行犯たちにだけあるのではない。誰にでもある。
加害者家族たちはそれぞれ警察から、「犯人たちの変化に気づかなかったのか」「犯人たちがこういう事件を起こす、何か心あたりはないか」と聞かれる。
彼らは警察の質問に答えられない。もしくは「何もなかった」というしかない。
回想シーンを見ると、犯人たちは「変化している」し「こういう事件を起こす何か」は、観ている人間には伝わってくる。
しかしきよかが夫に「変わったのはお前のほう」と責められるように、本当にそれが「変化」なのか、本当にそれが「事件を起こす何か」なのか、その「何か」や「変化」は犯人たちに宿っていたのではなく、自分たちの関係性に宿っていたのか、それともそれを「何か」と感じる自分が間違っているのか。「変化」したのは、犯人たちが言うように自分のほうなのではないか。
この作品はそれぞれの登場人物の気持ちや関係性を、言葉ではなく距離で説明する。
例えば実が隠れ家での元妻の様子を坂田に聞くときは、坂田のことをよく思っていないにも関わらず、隣りに座るように促す。坂田は夕子に「逃げよう」と伝えるとき、靴を拾いながらすぐ近くに座る。
アイスを食べながら歩く勝と兄の距離は遠い。しかし勝が幼いころ、プールに突き落とされた兄を助けなかったにも関わらず、兄は後ろからくる車から勝を守るためにとっさに抱き寄せている。
だが逆に物理的な距離が心理的な距離と相反している場合もある。きよかと夫がベランダで話すシーンは、距離は近いが心はどうしようもなく離れている。「話し合おう」という夫に対して、きよかは「話しても無駄だ」と感じている。その絶望が伝わってくる。
上記の勝と兄の別れのシーンも、握手をしているにも関わらず、その手はアイスでベタベタになっていて、二人の断絶の深さを感じる。
その絶望や断絶、「変化」や「何か心あたり」は、「あそこにいたとき」の距離でしかわからない。だからそれを思い出しても、当事者である加害者遺族は「わからない」というしかない。
それは坂田がいう「あそこにいた人にしかわからない=他の人には説明しようがない」と重なる。
家族として近くにいた彼らは、実行犯たちの「事件を起こした気持ち」がわからないのではない。そもそも事件を起こす前から、実行犯たちのことを何ひとつわかっていなかった。
正確には言葉ではなく距離で表された「あそこにいなきゃわからないこと」は「あそこ」から離れた瞬間、当の本人でさえわからなくなる。
だからここに至っても、実行犯たちの気持ちがわからないし、その実行犯たちを自分がどう思っているか、事件について自分がどう感じているのか、自分自身のこともわからない。
坂田は、きよかの元夫のことを「教師らしく、しっかりとした立派な人だった」ときよかに語る。しかし続く回想シーンでは、きよかの夫に対して不信と不満をもらしている。そしてそこで夕子に対して親愛の情を見せ、「潜伏生活が楽しい」と言っていたにも関わらず、警察に捕まったときは「理解できないよく知らない人たちだ。裏切り者と言われるのは心外だ」という供述をする。
どれが坂田の本音なのか、と考えるのは虚しい。そのときその瞬間の「あそこにいなきゃわからないこと」なのだ。
連続して見せられれば、坂田はその場しのぎで自分に都合がいいことばかりを本音として信じ込む、小心者のクソ野郎だ。
しかし恐らく人は、みんな坂田のようなものなのだ。
勝は兄と会ったとき、本能的に兄と向き合うことを避けた。
坂田には「坂田さんには(事件を)とめられなかったんですよね」と尋ねた勝自身も、兄を止めることはできなかった。そのときどうしてそれが「変化」や「何か」だと思わなかったのかは、もしくは思ったけれど警察では話さなかったのかは、勝として「あそこにいなきゃわからないこと」なのだ。
その「あそこ」と実行犯たちを接続した「あそこ」に、自分自身も何回も立ち会ったことが家族にもわからなかった。「あそこ」にいた瞬間、それが「変化」だったり「事件を起こす何か」だったり「とんでもないこと」であることは、誰にも分らない。
わからないから誰にもそれが止められず、「あそこ」が積み上げられた道筋をたどって「一番とんでもない場所」に誰かがたどり着いてしまう。
「DISTANCE」は「物語を存在させず」、見る人に勝手にこの「『あそこ』が積みあがった固有の物語」を見出させることで、「人がそれぞれが勝手に固有の物語を見出してしまうとはどういうことなのか」を浮かび上がらせようとしたのでは、というのが今のところの考えだ。それを「浮かびあがせようとすること」こそが、犯人たちを犯行に駆り立てたものだったのかもしれない。
そしてその「固有の物語」に対して、「一般的にまともであると考えられていること」がいかに無力かも、合わせて描かれている。
きよかが元夫に正面から話した「まともなこと」も、勝が兄と向き合うことを避けながらも話した「人それぞれでいい」という言葉も、実行犯たちの中では「自分たちの固有の物語を引き留めるもの」としてまったく機能しなかった。
無差別殺人を行うほどの「固有の物語」に対抗できるものは何なのか、なぜそれを止める力を持つ「物語」が、現代の社会では家族の中にも「まともなこと」の中にも見出せないのか。
登場人物たちが近しい家族のことを聞かれても「わからない」と思い、「DISTANCE」を見た人間も結局わからないと思い、最後まで誰も「なぜ、こんな事件を起こしたのか」がわからないままで「固有の物語を見ること」を拒否することでしか、実行犯たちが勝手に見てしまった「固有の物語」を否定することはできないのか。
このあたりは自分の中でも結論が出ない。
ただとりあえず「DISTANCE」はそういうことを描いているように感じた。
「DISTANCE」の謎をいくつか考察。
「DISTANCE」の話の中で、いくつかよくわからない部分がある。
そもそもそこを「謎」と見て、「謎があるから、答えや意味がある」という「固有の物語」を見出してしまうことこそ犯人たちの心象ではないか、という話だと思うけれど、そういう矛盾を承知で少し考えてみたい。
(車とバイクはなぜなくなったのか)
作内で「なぜなくなったのか」については、特にヒントがないので考えても余り意味がない。誰かに盗まれたのか、レッカー移動されたのかそんなところだろうと思う。
メタ視点で見れば「なぜなくなったのか」は明確で、「五人をコテージに泊まらせるため」だ。
「DISTANCE」という物語が始まるためには、車とバイクがなくならなければならなかった。だから車とバイクはなくなったのだ。
逆の言い方をすれば、
「車とバイクがなくなったから、彼らはコテージに泊まらなければならなくなった」「車とバイクがなくなったから、『DISTANCE』が始まってしまった」
と言える。そして自分はこの「車とバイクがなくなったら、コテージに泊まるしかない」ということこそが、事件の実行犯たちが感じたことだったのでは、と思うのだ。
現実的に考えれば、あの状況で車とバイクがなくなる合理的な説明はつかない。だから現実に生きる自分たちは、「理由もなく車とバイクがなくなるはずがない」と思うし、「理由はわからないがなくなることもある」という作内の説明を受け付けない。
しかしよくわからない理由で「車とバイクがなくなる」というありえないことが起こったとき、人はもしかしたら誰でも「自分をコテージに泊まらせるために、このありえないことが起こったのではないか」と感じてしまう(「固有の物語」を見出してしまう)のではないだろうか。
何の伏線も解決も原因もなく「車とバイクがなくなる」というありえないことが起こったのは、そういう実行犯たちが持っていた現実とは違う感覚で作内を満たすためではないか、と感じた。
(敦は何者なのか)
余りはっきりした根拠は出てこなかったけれど、ラストで「お父さん」と言っているので、自殺した教祖の息子なのだろう。警察での聴取は、夕子のことではなく父親である教祖について聞かれているのではと思う。
「教団のシンボルになっていた百合の花とかはすごい好きでしたね。いつも玄関に飾っていました」
「あなたも花屋さんに勤めていますよね(略)影響を受けたと思う?」
夕子と敦の関係については
①教祖、夕子、敦が親子で家族で花屋を経営していた。夕子は教祖についていったが、敦はついていかなかった。だから夕子は「弟は自殺した」と坂田に言った。
②教祖と敦が親子で、実家が花屋。夕子は花屋を通じて二人と知り合い、教祖に心酔してしまった。もしくは敦は父親と接触する中で、信者だった夕子と知り合った。夕子の実の弟は自殺している。
どちらかではと考えた。
①の場合は、坂田が言う「敦が夕子と似ていない」「『弟は自殺した』という夕子の言ったことが嘘ならば、あんな言い方はしないのでは」というセリフの意味がなくなる。
②の場合は、父親との関係は隠すにせよ、「夕子の弟」という嘘をつく必要はないのではと思う。あと写真を見ると、敦に姉がいるのは本当っぽいので、その姉はどこに行ったのかという疑問がある。
とどちらも余りすっきりとした説明がつかない。
回想シーンでの夕子と敦の距離感が姉弟には見えない(坂田と夕子の距離感に近い)ので、②の方向性のほうが有力だとは思う。その場合、前述したように「敦がなぜ嘘をつくのか」という新たな謎が生まれる。
田辺さんは事件の犠牲者では、と思った。こういうことを描くのに、事件の被害者側がまったく出てこないのはバランスが悪い。夕子の父親では、とも考えたが、息子が生きているようなので夕子の父親ではなさそうだ。
購入した。読んだら感想も変わるかもしれない。
俳優について
この映画の出演をよく引き受けたな、というのが正直な感想だ。
沼を深くもぐり心の裏側まで届いてしまうような、怖い映画だ。ある意味、残虐シーンや犯罪シーンが出てくる映画よりも、危うく感じる。プロの俳優はそういうものからの距離の置き方も心得ているとは思うけれど。
主演の井浦新(公開時点ではARATA)がすごい。こんなに静かなのに、存在感を波及させられる役者はなかなかいないのでは、と思う。
井浦新以外の、寺島進も夏川結衣も伊勢谷友介も浅野忠信もみんなよかった。特に浅野忠信は、「普通の感覚」のまま流されるように教団に入り、流されるように仲間を裏切る坂田を、その「普通さ」にそこはかとない嫌悪感を感じるように演じていてすごいなと思った。
俳優陣の力演を見られただけでも、十分よかった。