うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【漫画感想】 漫画史上、一番のもったいない漫画 樹なつみ「獣王星」

 

「もったいない漫画」

というのは、何かと言いますと、最初のほうはすごく面白いのに、もしくは設定や世界観がとても魅力的なのに、後半で面白さが大失速する漫画のことです。

 

「最初からつまらない」のならば、読むことをやめて忘れておしまいなのですが、この「もったいない漫画」に出会ってしまうと、もったいなくてもったいなくて、作者のもとに出向いて、襟首をつかんでガクガク揺さぶりたくなります。

 

「あんなに面白かったものをどうしてこんな風にしてしまったんだ」

 

誰しもそういう漫画にひとつやふたつ出会ったことはあると思います。

自分の中で、今まで読んだ中で一番もったいなくて歯噛みをしたのはこの漫画です。

獣王星 完全版 1 (花とゆめコミックス)

獣王星 完全版 1 (花とゆめコミックス)

 

 漫画は少年漫画、青年漫画、少女漫画問わず色々と読みましたが、これが「もったいない漫画」ぶっちぎりで1位です。

 

深夜アニメになって、主人公とメインキャラの声優を堂本光一と小栗旬がつとめたので、世間の認知度はあるのでしょうか? 

少女漫画なので、男性は知らない人が多いかもしれません。

 

「獣王星」はジャンルがSFで、設定がとてもうまくできています。

 

主人公は、バルカン星系の中でも特権階級のみが住めるコロニー「ユノ」に住んでいる、少年・トールです。

 

トールは両親と双子の弟・ラーイと、何不自由なく暮らしていました。

しかしある日、「ユノ」のトップであるオーディンに両親を殺されてしまいます。

そして、ある人物の手によって、ラーイとともにバルカン星系では極秘の存在であった、「キマエラ」という惑星に送られます。

この「キマエラ」は環境が苛酷であり、死刑制度がないバルカン星系では「キマエラ」に送られることが事実上の死刑を意味します。

 

通称「獣王星」と呼ばれる、「キマエラ」の設定がとてもよくできています。

 

1年が181日あり、181日灼熱の昼が続きその後181日極寒の夜が続く。

それぞれ昼と夜の間の「夜明け」と「夕暮れ」にはビッグストーム(大嵐)が吹き荒れる。

そのため2年で1日たつ。

 

公転周期が自転周期の三分の二だから~~うんちゃらかんちゃら(ここは超うろ覚えなので、絶対に間違っています)という設定があり、そのために、50度の灼熱の昼が181日続き、「夕暮れ」に大嵐がきて、零下40度くらいの極寒の「夜」が181日続き、「夜明け」にまた、大嵐が吹き荒れるという星です。

この「夜」がとても苛酷で、住民の三分の一以上がここで命を落とします。

 

ブリザードが吹きすさぶ極寒の「夜」を乗り切るためには、それぞれの人種ごとに作られている組織「輪(リング)」に入れてもらい、砦に住まわせてもらわなければなりません。

この「輪」が四つあり、それぞれ肌の色で、「茶倫(オークル・リング)」「白輪(ブラン・リング)」「黄輪(サン・リング)」「黒輪(ナイト・リング)」と分かれています。

 この四つの「輪(リング)」のトップが決闘を行い、「キマエラ」の事実上の王である獣王を決めます。

 

キマエラの生態系は異常であり、生態系のトップに君臨するのが植物です。

自発的に人間を襲ってくる危険な植物も多く、人間は片隅でひっそりと生きています。

 

この設定だけで、ごはん五杯はいけます。 

苛酷な環境の中で、純粋培養で育った少年がどう生き残るのか、一体、どんな凶悪な植物が出てくるのか、「輪(リング)」同士で、どんな駆け引きと争いが行われるのか、

 

「夜は、砦の中の環境は閉鎖的で最悪になる」とはどんな状況になるのか。

少女漫画にあるまじき、疑心暗鬼での殺し合いなんていう、陰惨な展開もありうるのか。

胸をときめかせながら、夢中で読みました。

 

主人公のトールの少年期は、神展開です。

主人公のトールが成長して、青年期に入ります。

 

おおっ、立派に成長して……。

と思ったのも、つかの間、このあとの展開がとにかくひどい…orz。

 

途中でカリムという名前の美女が出てきますが、トールがあっという間にこの娘のことを好きになり、あっという間にくっつき、あっという間にカリムが死にます。

その勢い余って、トールが「白輪(ブラン・リング)」のトップであるザギを倒し、あっという間に獣王になります。

あれよあれよという間に、というか言う暇もなく、獣王になって恩赦となり、「ヘカテ」という惑星に向かいます。

 

このあとの展開も色々とひどいです。

とにかく何もかもがあっという間すぎて、謎の男・サードの正体とか、地球は実は大昔に滅んでいたとか、恩赦されたあとの歴代の獣王たちの末路はどうだったのかとか、主人公のトールの驚異的な強さは、何故なのかとか、色々と謎解きがされるのですが、

ただもう「へえ、そうなんだ」としか思えません。

 

割と初期に双子の弟のラーイが谷から落ちて死ぬのですが、これはラーイがラスボスになってトールの前に現れる伏線に違いないと信じていました。

最初は、そういう設定だったんじゃないかと、今でも疑っています。面倒くさくなって、やめたに違いない。

 

あんなに練られて、面白くなりそうな要素が満載な「キマエラ」という惑星の設定が、なにひとつ生かされず、結局は「選ばれし子供」である主人公の遺伝子を鍛えるため??の計画でした、で終わります。

 

なんじゃ、こりゃΣ(;゚Д゚)?!

 

この漫画の作者樹なつみは、こういう傾向の作品が多いです。

設定や始まりはとても魅力的なのに、最後は尻すぼみで終わります。

大風呂敷をたためないタイプではなく、見えないくらい小さくたたんでしまうタイプです。

壮大な設定を、個人レベルに収斂して終わらせてしまうというパターンが非常に多いです。

同じパターンだった「花咲ける青少年」も「デーモン聖典」も、それなりに楽しく読めます。

「獣王星」ほどやっつけ感が溢れる漫画は、初めてです。

 

同じ設定で、誰かに一から書き直して欲しい。

輪間の争いや内部闘争がメインの物語なら、絶対に読みます。

 トールの少年期までは、「神漫画」と思っていたのに……。

獣王星 完全版 全3巻 完結セット(花とゆめコミックス)

獣王星 完全版 全3巻 完結セット(花とゆめコミックス)

 

 

【漫画】人間のすべてを描く現代の聖書 西原理恵子「ぼくんち」

 

 西原理恵子の最高傑作にして、現代の聖書とも言われている漫画「ぼくんち」の紹介です。

 

自分が今まで読んだ中で一番好きな漫画は、福本伸行の「銀と金」です。

「銀と金」を読むまで、ずっとベスト1だった漫画が西原理恵子の「ぼくんち」です。

 

このふたつは、未だに甲乙つけがたいです。

エンターテイメントとしても完成されているぶん、長いこと「銀と金」に軍配をあげていたのですが、「ぼくんち」を久しぶりに読んだら、心の揺さぶられ方が半端なかったです。

 

「ぼくんち」を初めて読んだのは、高校生のときだったと思います。

そのとき、とてもいい話だな、と思いました。

でもそれから長い年月がたったいま読むと、高校生のころの自分は何も分かっていなかったと思います。

この漫画は、長く生きれば生きるほど、人生を歩めば歩むほど、心に響く漫画です。

 

有名な漫画なので、読んでいる方も多いと思います。

読んでいない方は、今すぐ買うか借りるかして読んでくれといいたいところですが、とりあえず、紹介したいと思います。

 

「ぼくんち」あらすじ

「ぼくの住んでいるところは、山と海しかない静かな町で、はしに行くとどんどん貧乏になる」

「その一番はしっこがぼくんちだ」

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

 

 主人公は、一太と二太の兄弟。

生まれたときから父親は分からず、母親にも捨てられ、ピンサロ嬢のお姉ちゃん・かのこに育てられています。

 

一太と二太の周りの人たちは、「社会の底辺」と言われるような人たちばかりです。

一太の兄貴分になる、こういちくん。

 

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

 町で一番の不良で、トルエンとシンナーを売って生計を立てています。

 

 

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

 河原にボロ小屋を建てて暮らしている鉄じい。

鉄や銅線を売り買いしてくらいしているので、鉄じいと呼ばれています。

本名は誰も知りません。

 

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

二太の幼馴染で初恋の相手である、さおりちゃんのお父さん。

「さおりちゃんのとうちゃんはヤクザだ。でも、幹部でも構成員でもなくて、準構成員でもなくて、その下のチンピラでもなくて、時給二千円のパートのヤクザ」

「シャブをうったらやさしいけれど、酒を飲んだらあばれて、金のないときには、クズのチンピラにまでペコペコする」そんな人。

 

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

ニ太と仲良しのオリンピックの安藤くん。

刑務所に出たり入ったりしていて、四年にいっぺんくらいしかシャバに出てこないから、このあだ名がつけられました。

  

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子 小学館)

 競艇の日に、トロ箱を一回10円で人に貸すことで生計を立てている、トロちゃん。

全財産であるトロ箱に囲まれて、空き地で暮らしています。めちゃくちゃ魚臭いので、よくネコに襲われて泣きます。

 

他にも出てくるのは、風俗嬢やシャブ中のおじさんやら、どんどん子供を産んで育てないで捨ててしまうおばあちゃん。

そんな人たちばかりです。

その人たちは強くも優しくもなく、自分よりも弱い人間には平気で当たり散らしたり、子供を捨てても何の良心の呵責も感じなかったり、それどころか自分の子供から暴れてお金を奪う、卑しく弱い人たちです。

 

人間の弱さや醜さ、卑しさに対する赦し

弱く醜く、卑しいそんな人々に対する西原理恵子の眼差しは、限りなく穏やかです。

責めるでもなく、かばうわけでもなく、ただ淡々と彼らの日常が描かれています。

 

 心弱き普通の人たちが生きていく過程で、家族とは何なのか、人を愛するとはどういうことなのか、人間とはいったい何なのか、生きるとはいったいどういうことなのか、という生きていくうえで知らなければならないことのすべてが描かれています。

 

西原理恵子がこれを三十すぎで書いた、という事実に驚愕します。

 

自分は八十歳になっても、これだけのことを考えられるか自信がありません。

西原理恵子はすごい人だと思っていますが、それでも恐らく「ぼくんち」以上の作品は描けないだろうと思っています。

 

 大人になればなるほど、自分が歩んできた道筋と重ね合わせて涙します。

 

読んでいるほうがたじろぐほど深いことが書かれているのですが、ごらんのとおりのほのぼのタッチの絵柄と、シニカルなギャグが織り交ざっているので、読むときは割とあっさり読めます。

 

教科書に載せて、ぜひ多くの子供たちに読んで欲しい、そんな漫画です。 

 

*この記事は、2016年6月6日に投稿した記事を、再編集したものです。

ぼくんち【上中下 合本版】 (角川文庫)

ぼくんち【上中下 合本版】 (角川文庫)

 

 

【漫画】 男性にもおすすめの少女漫画 「青空エール」の魅力を語る。

 

「俺物語」の原作者でも有名な河原和音著「青空エール」が、全19巻で完結しました。映画化もされるようなので、これを期に「青空エール」の魅力を語りたいと思います。

「青空エール」粗筋

吹奏楽野球の名門校として名高い北海道札幌市立白翔(しらと)高校[3]に入学したつばさ。いつかトランペット甲子園のスタンドに立って野球部を応援するのがつばさの夢だった。

トランペット初心者のつばさは何かとくじけることが多いが、同級生で野球部員の山田大介に励まされながら、共に甲子園を目指す。

(Wikipediaより引用)

 

吹奏楽の超名門校に入学した主人公が、まったくの初心者にも拘わらず仲間たちと全国大会金賞を目指すという話です。

 

粗筋だけを聞くと、少年漫画のスポーツものとよく似た構造です。

バスケ漫画の名作「SLAMDUNK」を彷彿させます。

ただ「青空エール」は、これらの漫画とも一線を画します。

 

「青空エール」のすごいところ

「青空エール」のすごいところは、他の漫画とは違い、主人公に吹奏楽の才能が、まったく無いということです。

最初のころは、周りからまったく期待も理解もされません。

「スラムダンク」のように誰かが眠っていた才能を認めてくれ、その才能を努力によって開花させる話ではないということです。

 

そこだけをみれば、「青空エール」は恐ろしいほどリアルな話です。

困難、挫折、困難、挫折の連続です。

この漫画のすごいところは、このリアルさと漫画的な非現実さが絶妙のバランスをとっているところです。

 

あと少しでもリアルに傾けば、読むのが辛いだけの話だったでしょうし、あと少しでも非現実的なほうに傾けば似たような凡百の漫画と同じような話になっていたと思います。

このリアルとファンタジーのバランスの絶妙さが、「青空エール」という漫画をこれほど面白くしているのだと思います。

 

「青空エール」のリアル

「青空エール」のリアルさは、恐ろしいです。

過去にこれほど、「主人公の才能のなさ」を真正面から描いた作品があったでしょうか? 

 

「平凡」なだけならば、まだいいです。自分の実力を知ろうとして、傷つくことはないから。

でも「青空エール」の主人公つばさにはかなえたい夢があります。周り全員から「とても無理だ」と言われる夢が。

才能が無いのにその夢を追うがゆえに、主人公のつばさは何度も何度も打ちのめされます。自分の才能の無さを、いやというほど思い知られます。

 

「わたしには才能が無いから、わたしがトランペットを止めるって言っても誰も止めないじゃん。だから、あきらめないでやるしかないじゃん」

                    (引用元:「青空エール」河原和音 集英社)

十一巻でつばさが、後輩の瀬名に言ったセリフです。

つばさの場合は謙遜でも、努力漫画の主人公特有の「本人だけは、自分の眠っている才能に気づいていない」がゆえの思い込みでも何でもなく、これが事実そのものです。

 

最初のころなんて、「やめたほうがいいんじゃないか」とか「やめてくれ」とか言われます。

周りがひどい人間だからとかそうではなく、むしろ周りが正常な感覚で、つばさが一人で勝手に無謀なことをやろうとしている、この漫画はそういう環境から物語がスタートします。

 

顧問の杉村先生からは

「やる気だけはあるけど、これが才能のある子だったら」と言われ、

慕っていた先輩からは

「本気で夢見て、ずっと馬鹿じゃないかと思っていた」と言われ、

挙句の果てに才能のある同級生の水島からは

「本気だとしてもやめて。他の部員の迷惑になる」と言われます。

みんな後から謝るのですが、言っていることは全部事実なんです。(「本音だった」と言われますし。)

つばさ本人が認めているように、みんな意地悪で言っているわけではない。

 

これが連載開始時点で、主人公つばさを取り巻く現実です。

誰一人として、つばさの夢、やろうとしていることを認めてくれない。

じゃあ、何故、そんな環境で、つばさがあきらめずに頑張れるのか? 

それが、この漫画の面白さのもう一端であるファンタジー部分なのです。

 

「青空エール」はピグマリオン効果教の聖典

「ピグマリオン効果」という言葉をご存じでしょうか?

 

「自分ではない誰かが自分を信じてくれることで、結果を出すことができる」

 

これが「ピグマリオン効果」ですが、「青空エール」はこのピグマリオン効果への信仰が全編を通して貫かれています。

大介とつばさの関係が代表的ですが、

 自分ではない誰かが自分のことを信じ応援してくれることで、とてつもない力を発揮できる、

 「青空エール」その力を描いた話です。

 

主人公のつばさが恋をする野球部員の山田大介は、その「ピグマリオン効果教」への信仰を具現化した存在だと思っています。

つばさの驚異的な努力は、その神様=大介への信仰の力なのだと思いました。

つばさが苦しさの余り生み出した幻覚だった、というオチで最終回を迎えるんじゃないかとどきどきしていましたが、結局、最終回まで生身の人間のままでした

 

「青空エール」は登場人物がすごい

「学校一のモテ男」「どエス王子」で、行動原理が「主人公との恋愛」という一点しかないペラペラの紙人形みたいな登場人物は一人も出てきません。

 主人公つばさが恋をする山田大介は、「学校一のモテ男」とか「高校生のくせに俺様」などとはまた別の意味で、非現実的なキャラクターです。

 

山田は一見すると少女漫画の登場人物とは思えないほど、リアルなキャラクターに見えます。

野球部でキャッチャーで坊主頭、内面的な恰好よさがあるいい男ですが、少女漫画に出てくるモテ男たちとはほど遠いキャラクターです。

 ただ、内面は恐ろしいほど非現実的です。

強くて明るくて優しくて、友達の悪いところを真面目に指摘できる、面倒見がよく後輩からは慕われ、先輩からは信頼され、かわいがられる。

責任感が強くて、努力家。野球にすべてをかけているストイックな性格。

 

水島に厳しいことを言われたと、つばさに相談されたときの大介の答えが、素晴らしいです。

 

「その人、きっと真剣にやってきた人だと思うんだよね。真剣になると、どうしても周りとぶつかるから」

                  (引用元:「青空エール」河原和音 集英社)

お前、本当に高校生か?と言いたくなるような答えです。

自分は、とっくに高校を卒業しましたが、未だにこんな答えを言える自信がありません。

この答えだけでも、大介は人間ではなく、ピグマリオン教の神に違いないと思います。

 

才能のない自分、そして、その事実をイヤというほど突きつけてくる環境、そんな現実の中で、大介という神様への信仰だけを糧にして、

ひたすら絵空事としか思えない目標に向かってつき進んでいく、「青空エール」はそんな話です。

 

大人になった今でも「学校って、何の意味があるんだろう?」と思っている自分にですら、「高校生に戻って、部活に三年間全部賭けるのも楽しそうだな」と思わせる漫画です。

青空エール リマスター版 1 (マーガレットコミックスDIGITAL)

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青空エール リマスター版 19 (マーガレットコミックスDIGITAL)

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  春日先輩と杉村先生が好きです。

 

【漫画】 「北斗の拳」から学ぶ、男性の愛情表現

 

「北斗の拳」懐かしい…。

家に全巻そろっているので、たまに読み返している。名作というのは、大人になっても面白い。

 

読み返して驚いたのは、

①意外に、展開がはやい。

レイとかアインとか、けっこう出ている期間が短い。それなのに、こんなに印象深いキャラなのがすごい

 

②愛について、めちゃくちゃ語っている。

少年漫画でこんなに愛について語っている漫画はないんじゃないかと思うくらい、「北斗の拳」は、様々な愛について語られている。

 

ラオウ「ユリアも、俺の野望のひとつ」

トキ「ラオウ、それは野望ではない。愛だ

 

すごい会話だな。とても素面で喋っているとは思えない。

 

というように(?)「北斗の拳」は、愛の物語でもある。

少年漫画なので、特に男性から女性への愛の形が語られている。

今回は、女性にとっては今いちピンとこない男性の愛情表現を、「北斗の拳」から学びたい。

男性の愛情表現というのは、女性には今いちピンときていないことが多い

それは何故か??? という理由が、この記事を読んでもらうと分かるかも……しれない。

 

「北斗の拳」で愛に生きた登場人物といえば、真っ先に思い浮かぶのが南斗水鳥拳のレイだ。

余命いくばくもない身で愛するマミヤのためにユダと戦い、死んでいく。

ユダ戦からレイの死までの展開は、いつ読んでも泣ける。

 

でも冷静に考えたとき、なんか変だなと思う。

なぜ、ユダを倒すことがマミヤのためになるのだろう?

 

ユダが死んだことでマミヤは死兆星が見えなくなったので、結果的にはマミヤのためになったけれどそれはあくまで結果的に、だ。

 ユダと戦った時点で、レイは「ユダが死ねば、マミヤが死兆星が見えなくなる」ということを知らなかった。

「マミヤには、死兆星が見えている」という事実すら、ユダと戦う直前に、ユダに教えてもらったくらいだ。

 

じゃあ、なぜユダを倒すことがマミヤのためになるのか???

なぜ、レイはそう思ったのか???

 

マミヤは、昔ユダにさらわれたことが心の傷になっている。

ユダという存在を消せば、心置きなく幸せになれるんじゃないか。

理屈はそうなんだろうけれど、この理屈、今いちピンとこない。

相手が死んだからって、心の傷って消えるか??

それよりも、傷を負った自分のそばにいてくれたほうが心の傷って癒えないか??

レイは確かに余命がない身だが、それでもマミヤのそばにいて見守っていてあげたほうが心の傷は癒えるような気がする。

それに余命が少ないなら、好きな人のそばにいたいものじゃないのか???

というのが、女性の発想だ。

 

たぶん、男は違う。

とにかく何か行動がしたい。

とにかく何かすることを与えてくれ。

 

よくよく読み返してみると、レイはマミヤの過去の話を聞いたとたん、誰も頼んでいないしユダは何もしていないのに、ユダを倒しにいっている

完全にただの辻斬りだ。

ユダはむしろ喜んでいたので、まあいいんだろうけれど。←え?

 

愛する女のために、自分ができることを作り出す。無理やりにでも。

これが男性の愛情なんだろうな。

相手の女性のために自分ができることが何もなくなったとき、もしくは何もできることがないと思ってしまったとき、男性は例え、その相手が好きでも一緒にいられないのではと思う。

「ただ、一緒にいる」ことは、男性にとっては愛の表現にはならない。

 

ただそばにいて、話を聞いてくれるだけでいいんだよ。

という女性に対して、

君のために何もすることがない、なんていう状態は耐えられない。

という男性。

女性がよく言う「ただ話を聞いてくれるだけでいいのに、男はどうして余計なアドバイスとかするの?」というのは、たぶんこれじゃないかと思っている。

 

逆に言えば彼女がピンチでも何でもなく、日常をつつがなく過ごせている場合は、彼女のことはそれほど気にしていない、という男性はけっこう多いのではないだろうか。

それに対して「気にしていない」(連絡をくれない)ということは、もう愛情がないのではないだろうか? と考えてしまうのが女性。

 

女性は「つながりの積み重ねが好意や愛情」と感じやすい。

この辺の根本的な考え方の違いを、お互いに分かっていないのでは、と思う相談事や事象をたまに見かける。

 

日常では、「彼女の存在なんて忘れているんじゃ??」というくらいほったらかしでも、(実際、忘れている。)彼女がピンチのときや必要としているときに、突然、いろいろやり出すのが男性の愛情表現なのだと思う。

 

トキも普段はユリアを見守っているだけなのに、いざ、ユリアがラオウにさらわれそうになったときは、別に自分の彼女でも何でもないのに、ラオウと戦おうとする。

「北斗の拳」は、すごく分かりにくい男の愛情表現がすごく分かりやすく描かれている。

別に頼んでもいないし何の役に立つかもよく分からないのに、ユダを倒しに行くレイのように斜め上45度の愛情表現に突っ走られた場合、それはそれでうまく受け取りつつ「自分はこんな風にしてくれたほうが嬉しいな」と誘導してあげるのが愛情の受け取り力の見せどころかもしれない。

ここでそんなことされても、ちっとも嬉しくないけど??などどいう、本当のことだけを言うと話がややこしい方向へいく。基本的にはまあ好意からやってくれている、ということは忘れないほうがお互いのためになる。

 

「北斗の拳」を読むと、男性の愛情は(男女間に限らず)シンプルでいながら深いものだなあと感じる。

 愛する人のためには、命をかけて戦う。

 「北斗の拳」は、そんな男性の愛情を語った物語でもある。

 

 

【漫画考察】「ドラゴンクエスト ダイの大冒険」 ポップ、マァム、ヒュンケルの三角関係について考えてみた。(ヒュンケル編)

 

「ドラゴンクエスト ダイの大冒険」の三角関係について考えて見ました。

 前回(マァム編)からの続きです。

saiusaru.hatenablog.com

 

次は、当然のようにヒュンケルはマァムのことが好きなんだろうか? という疑問がわきます。

作中では、マァムがヒュンケルのことを好きかどうかはたびたび言及されるのですが、ヒュンケルがマァムのことを好きなのかどうかは、誰も言及しません。(絡み辛いから???)

 ヒュンケルに告白したエイミですら、ヒュンケル自身に対して「マァムが好きなのか」と聞いたりしません。

 ヒュンケルは戦いの場以外ではほとんど自分の感情を口にしないため、周りの人間も今いち気持ちを把握できないようです。(というよりは、しようとすらしない。)

 ヒュンケルが独白などでマァムのことを思う描写があるので、これを基に検証を行いたいと思います。

 

ヒュンケルがマァムのことを思う描写を見ると、

「聖母だ(!)」と言ったり、「慈愛の天使(!!!)」

と言ったり、恋愛より,もっと崇高な感覚でマァムを見ている印象です。

 

もともとヒュンケルは5巻で倒されたときも、マァムの膝枕&涙で改心したような描写がありましたから、マァムに人生を変えられたと言っても過言ではないでしょう。

 感覚としては、宗教に近いのではないかと思います。

 

ただ、「ヒュンケルのマァムに対する気持ちは、女性に対するというよりは、崇高なものを崇拝する感情に近い」と考えとき、ちょっとひっかかるセリフがあります。

 バーンパレス突入後、ヒュンケルがマァムをポップのところへいかせたとき、前述の「慈愛の天使よ」から続く独白の最後で、ヒュンケルは「俺ではお前を幸せにできない」といいます。

 

マァムと違い、ヒュンケルは無私ではありません。

ここで「俺」がでてきます。

 「幸せにできない」というセリフを言うということは、「幸せにしたい」という気持ちが根底にあるということです。

「幸せにしたい」という気持ちが前提にあるからこそ、それを否定するために「幸せにできない」という言葉を言うわけです。

 ということは、否定する前の気持ちは「俺がお前を幸せにしたい」ということです。

 これは正に、男性が愛する女性に向かって言う言葉です。

 

ヒュンケルはマァムのことを女性として愛しているのですが、自分の過去の過ちがあったり、マァムが自分に向ける感情が自分がマァムに向ける感情とは違うものであることが分かっているので「自分自身のための愛を見つけてくれ」と言って、彼女の背中を押すのです。

 

この三角関係の真の姿は

「ポップとヒュンケルに愛されながら、まだ誰かを好きになったことのないマァム」

というもです。

 

3人の関係がその後、どうなるか最後まで書かれていません。

話の流れ的にはマァムはポップとくっつくのではないかと思います。

 心情的には、ヒュンケルとマァムに幸せになって欲しいのですが、(「俺ではお前を幸せにできない」というセリフは、グッときます。)マァムの心の流れを追っていくと成長したポップと一緒になるのが、自然ではないかと思います。

 

そして、ポップとマァムの間に生まれた子供に剣術を教えるヒュンケル。

そうなるのが自然かなという気がします。

 

改めて書いていると、「ダイの大冒険」って大人な話だよなあ。

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 ごめん、メルルの存在を忘れていた(・∀・)

 

【漫画考察】「ドラゴンクエスト ダイの大冒険」 ポップ、マァム、ヒュンケルの三角関係について考えてみた。(マァム編)

 

 「ドラゴンクエスト ダイの大冒険」の有名な三角関係について考えてみました。 

 

この漫画が大好きでした。

最後のバーンとの戦闘は、ポップの覚醒やら、(「オレの一番の友達」で号泣)ゴメちゃんとのエピソードやら(「僕の友達になってよ」で号泣)で涙腺が崩壊しっぱなしでした。

 

アバンの蘇りとバランの親バカには、最後まで納得がいかなかったものの、子供だった自分の一、二を争うお気に入りの漫画でした。

終わり方もジャンプの人気漫画にしては、珍しくすっきり終わりましたし、今でも大好きです。

 

当時、子供だったわたしは、ポップの告白後に、マァムが返事として伝える「私にチャンスをちょうだい。」から始まる言葉にただただポカーンとしました。

えっ? あなた、ヒュンケルが好きだったんじゃないの?

 

考えてみれば、この3人の関係を三角関係というのは、疑問がわいてきます。

作中ではっきりと好意の矢印が分かるのは、「ポップ⇒マァム」だけだからです。

本来であれば別に三角関係など成り立ってない関係なのですが、作中で再三再四この三人は三角関係であるように書かれているし、読者も、そのように認識している人が多いように思います。

 

何故なのでしょう?

 

自分も子供のころ読んだときは、マァムはヒュンケルのことが好きなんだと思っていました。なので、ポップの告白後の、マァムの返事の意味がよく分かりませんでした。

 

この関係性の真実を知るために、いくつかヒントがありましたので、それを手掛かりに検証していきたいと思います。

 

エイミがみんなの前でヒュンケルへの想いを告白したあと、ダイがこう言います。

 「第一、マァムが本当は誰が好きかなんて言い出したら、ポップも黙っちゃいないだろうし」

このセリフは3人の関係が外からどう見えるかを考えるとき、非常に重要です。

何故ならこのセリフは、ダイも「マァムはヒュンケルが好き」と考えていることが分かるからです。「恋愛は苦手」と認めているダイですら、です。

 

そのダイの言葉に対するレオナの反応も、レオナもマァムがヒュンケルに何らかの気持ちがあると考えているようなものでした。

エイミはもっとはっきりしていて、マァムに

「マァム、いいでしょう? わたしが渡しても?」

と聞いてきます。(このときのエイミは、子供心に、めっちゃ怖かった。(´Д`))

ポップは8巻の時点で既に、「あいつ(マァム)にはもう好きな奴がいるんだよ」と言っています。(好きな奴に、クロコダインを想定しているという可能性もありますが)

 

つまりマァムの周囲にいる人間のほとんどが、「マァムはヒュンケルが好き」と思っているわけです。

にも関わらず、マァム本人は

「ヒュンケルを男性として見ているのか分からない」

と、よくわからないことを言い出します。

 

何故、このような認識の差異が表れるのでしょう?

 

周りの人たちの観察が正しくて、マァム本人だけが「自分の気持ちに気づかない鈍感」ということなのでしょうか? 普通であれば、そう考えるのが妥当です。

 

でも、逆だったら?

周囲の方こそ、マァムの行動を見て「マァムはヒュンケルのことが好き」と勘違いしているにすぎないとしたらどうでしょう。

 そう考えると、マァムのその後の行動の意味や、ヒュンケルが、なぜマァムをポップの下に行かせたのかが分かってきます。

 

マァムの気持ちが誤解された原因は、マァムのヒュンケルに対する態度があげられます。

7巻のヒュンケル対ハドラー戦でも、後に残したヒュンケルのことを過度に心配する描写が見られたり、8巻の祝勝会のあと、クロコダインと鬼岩城を探しに旅立つヒュンケルと意味深に見つめ合ったり(クロコダインも呼び止めてあげてよ~)16巻でミストバーンに落とされたヒュンケルを身を挺して受け止めたりとヒュンケルのことを気にかける描写満載です。

 

ただこれをよくよくみると、恋愛感情というより別の何かに見えてきませんか? 

 

そう、母親の愛、母性です

 

マァムは、これほどヒュンケルを心配しているのにも関わらず、相手に対しては何も求めません。常に一方的な愛情を与え続けるだけです。恋人というよりは、息子に対する母親のようです。

 

マァムがヒュンケルに注いでいるのは母親としての愛情であるがために、「ヒュンケルに恋愛感情を抱いているのではないか」と問われたときに

「男として見ているのか分からない」(⇒そんなこと思いつきもしなかった)

という返答をしたのです。

 

作者のコメントで、「マァムはパーティーのお母さんである」という名前の由来に関する言及がありました。

正にその通りで、マァムはポップに対しても「弟みたいで放っておけない」と言っています。

 

ヒュンケルは、外見は冷静に見えても、「繊細でガラスのような心の持ち主」なので、マァムの庇護欲を一番かきたてるのでしょう。

ヒュンケルはマァムにとって、不器用なゆえに世渡り下手そうで心配な、愛息子なのではないでしょうか。

 そして、マァムの自分に対する感情がそういったものであることを、ヒュンケル自身が一番よく分かっているので、「自分自身のための愛を見つけてくれ」と言ってポップの下へ向かわせるのです。

 

続き。ヒュンケル編。 

saiusaru.hatenablog.com

【漫画感想】「進撃の巨人」19巻までの感想

あの……自慢をしてもいいですか??

 

主は、最初にマガジン本誌にリヴァイが主役の特別編が載ったときから、

「この漫画、すごく面白い」

と思っていました。

(連載じたいはもっと前からしていましたが、

本誌ではなかったので存在を知りませんでした。)

一巻から大ファンで、しばらくどハマリして、

ネットで他の方の解析とか読み漁りました。

 

ハマった理由はいろいろありますが、

一番は主が大好きな「世界の謎解明話」だから。

 

もうひとつは、普段から

「何故、謎を解明したいのか? それが何になるの?」

という質問に対して、

「解明することに理由なんてない。知りたいから知りたいんだよおお」

と思っている主の気持ちに、

主人公の気持ちがぴったりフィットしたから。

 

四巻第14話「原初的欲求」で、エレンが自分自身に問いかけている

「なんで外の世界に出なきゃいけないんだ?」

外には恐ろしい巨人が溢れているのに。

世界はこんなに残酷なのに。

わざわざ、外に出なくてもいいじゃん。

という当然の質問に対しての、

 

オレがこの世に生まれたからだ」

「それを見たものは、この世界で一番、自由を手に入れたものだ」

という答えに非常に共鳴したからです。

 

どんなに恐ろしくても、どんなに大変でも、

この世界に生まれたからには、この世界を知らなくてはならない、

世界のすべてをこの目で見なくてはならない、

そして、残酷だろうが何だろうが、その世界で生きなければならない

だって、この世界に生まれたんだから。

という思想が、「進撃の巨人」の根幹のテーマだと思うのですが、

今まで読んだどの漫画のテーマよりも、共感しています。

 

そのことを、友達のアルミンに教えてもらった、という設定がまたいいですねえ。

外見からはキワモノっぽい邪道に見えても、

進撃の巨人」の中身は王道の少年漫画です。

 

他の既存の少年漫画と違うところは、

一番大切な戦う理由が、誰かのためにということではなく、

「自分自身をこの世界に存在させるため。そして、この世界のすべてを知るため」

ということです。

存在意義をかけて戦う。

戦い方がちょっと違うだけで、現代社会と一緒ですね。

主はこの点が、この漫画の一番素晴らしいところだと思います。

 

↓↓↓  以下、19巻より先のネタバレが少しあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

最新話80話「名も無き兵士」で、

「どうやって死のうが意味なんてないですよね?」

という、名も無き一兵卒の

 

自分の死はまったく意味のない犬死で、

いったい自分は何のために生まれてきたのか??

 

という質問に対して、エルヴィンがこの漫画のテーマを熱く答えます。

 

「まったくもって無意味だ。どんなに夢や希望を持っていても、

幸福な人生を送ることができたとしても、岩に砕かれても、同じだ。

人はいずれ死ぬ。

ならば人生には意味がないのか?

そもそも生まれてきたことに意味はなかったのか?

死んだ仲間もそうなのか?

あの兵士たちの死も……無意味だったのか?」

 

「いや、違う!! あの兵士たちの死に意味を与えるのは我々だ!!(中略)

我々はここで死に、

次の生者に意味を託す!!」

 

全わたしが号泣。

 

人は自分自身の人生に意味を与えるためだけに、生きているのではないんです。

自分の人生をかけて、無意味に見えた誰かの人生に意味を与えることができる。

そういう風に誰かのために意味をつなげば、

自分の人生一個は無意味に見えても、

そのつながりの中で、他のたくさんの誰かが生きる歴史ができていくのだと思います。

 

無意味な犬死に見える仲間の人生に意義を与えるために戦い、

後世の人に存在意義を託して、今は無意味に死んでいく。

 

「苦しくても、その時代を生き抜いた人がいるから現在がある」

 

というのは、漫画「親なるもの 断崖」に出てきたセリフですが、

その意味をかみしめて、豊かで平和な現代を生きたいと思います。

 

歴史が続く限り、無意味な死などひとつもないと思います。

 

リヴァイがエルヴィンに巨人化の薬を渡した説もありましたが、

主はここまで言ったなら、

エルヴィンにはぜひ、他の人に自分の人生の価値を託して、

今は無意味に死んでほしいと思っています。

 

 

 

 

【漫画】「親なるもの 断崖」の感想

昭和初期、東北の貧しい農家から室蘭の遊郭に売られて、女郎になった少女たちの物語。

 

全女性必読の書だと思います。

 

女性として生まれて感じる悲しみ、強さ、幸福が凝縮されたような本。

 

女郎という職業は、今まで精神的にはもちろん苛酷な職業だと思っていましたが、

肉体的にも、これほど苛酷だとは思っていませんでした。

 

この話のすごいところは、ここまで苛酷な境遇でも、

希望を持って生きられる女性の強さだと思います。

男性諸氏からは怒りを買うかもしれませんが、

男なら間違いなく死ぬと思う、これ。

 

武子が梅から託された手記を燃やしながら、

言うこのセリフが、この漫画の主題だと思います。

「生きると決めたからには、これからのお前の生きざまで人間に問え。

おなごの強さを、深さを見せつけてやれ」

いつ読んでも、格好いいな。

 

悲惨な境遇を生き抜くことで、梅や道子をはじめとするこの物語に出てくる女性たちは、

女性の強さや深さとは何なのか、

人間にとって、本当の幸福とは何なのかを、

人生を賭けて問いかけてきます。

 

第二部でばっちゃんが道生に言う、

「決して、母を不幸だとは思うな。お前を産んだんだ…。

世界一、幸せな母親よ」

という言葉が、その答えなのだと思います。

 

わたしはこの言葉を読んだとき、梅のことを一番理解していたのは、

ばっちゃんだったんじゃないかなと思いました。

立場は違くても、価値観は違くても、

同じ母というだけで相手のことを理解できるんだなあと。

 

損得ぬきでその人の幸福を願える相手がいる、

その相手が生きることで、自分も生きているような思いがする、

自分の中にある尊いものを手渡せた相手がいる、

他人から見て、どんなに不幸で悲惨な境遇だったとしても、

梅は幸せだったとわたしも思います。

 

逆に、他人から見て、どんなに恵まれているように見えても、

人生でそういう人に出会えなかった人は不幸だと思います。

 

そういう意味では、いろいろな人を受け入れて死んだ道子も、

最後は愛憎半ばした女将と生きていくことを決めた武子も、

幸せなんだろうなと思います。

 

女性の女性による女性のための物語なので、

男は今いち頼りない聡一さんと重世さん、

あとはげひげひ言っている奴しか出てきません。

直吉は格好いい。

 

ぜひ読んでください。

 

 

 

 

「うみねこのなく頃に」が、なぜ批判されたのかを考えてみた。各論

*漫画版を読んだ感想です。原作のゲーム、アニメ等は見ていません。

「ネタバレ」しています。「ひぐらしのなく頃に」のネタバレも含まれています。

注意してください。

 

概論からの続きです。

概論であげた批判の二つのポイント

 

?作品の見せ方の問題

?作者への批判

 

を、考えていきたいと思います。

 

うみねこのなく頃に」という物語の真の目的は、

「どういうルールに基づいて、この物語が作られているのか」

ということを読み解くことだというのが、わたしの見解です。

その物語内独自のルールが分かったときに、

この作品が、何を目的として作られているかが分かるという仕組みになっています。

 

ひぐらしのなく頃に」は梨花が気が遠くなるほどループを繰り返しながら、

自分の運命を縛る「ルールXYZ」を探し当てて、それを打破しましたが、

うみねこのなく頃に」は、それを読者がやっているのです。

 

ひぐらしのなく頃に」の梨花と同じで、

うみねこ」の読者は、物語の開始当初は、

うみねこ」の世界に、そもそも自分たちのいる世界とは異なる

「独自のルールがある」という事実すら知りません。

自分たちのいる現実と同じルールに則って動いている世界だと、信じています。

なので、読者はそもそもの物語の目的が分からない(もしくは誤解した)状態で、

物語を読み進めます。

 

エピソードが進むにつれて、ルールのヒントが与えられるので、

それによってじょじょに、この物語の世界の成り立ちが明かされていきます。

この構造自体は、すごくうまいなあと思います。

 

エピソード1のときの読者の状態は、

ひぐらし」の梨花が、ループを一回もしていない状態と一緒です。

「ルールXYZ」の存在はおろか、

それがあるということを、推測する手がかりさえ与えられていない状態です。

「アンフェアだ」、「意味が分からない」という批判は、ごく当然のものだと思います。

ルールが開示されていない状態で、公平なゲームができるはずはありませんから。

 

うみねこ」の最大の問題点は、

「作者が、自分しか知らない物語独自のルールを、何故か読者も知っていて当然と思っており、だからこの物語は、エピソード1の時点から公平な物語だと信じている」

というところだと思います。

ひぐらし」で例えると、梨花がループをしていない一回目から

「ルールXYZ」を打破して、生き残れることができるはずだと考えているということです。

(そんな、馬鹿なと思いますが……。)

 

わたしは「うみねこ」はルールを当てる物語であり、

作者もそのつもりで書いていると思っていたのですが、

作者の発言を読むと、その点に作者はまったく無自覚で、

偶然そうなったみたいです。

 

にわかには信じがたいですが、作者の発言を読むとそうとしか思えません。

なので、読者の「アンフェアだ」「意味が分からない」という批判に対して、

「皆さん、本格推理をよみなれていないのか」

という度肝を抜くような、責任転嫁の発言ができるのだと思います。

 

うみねこ」の各エピソードのトリックは、広義にはすべて叙述トリックを原型としています。

「探偵が見ていないものは、地の文であろうと真偽は保証されない」

という発想自体はいいと思うのですが、

その場合、古戸ヱリカの登場のときのように

 

「探偵とはっきり名乗らせる」

「探偵は見たものの事実を見誤らない→従って、探偵以外は誤認をする可能性がある」

 

という「探偵の定義」をしっかり読者に知らせないと、ゲームとしては著しく不公正です。

エピソード1のときの戦人は探偵とは名乗っていないし、

「探偵の定義」自体曖昧だったからです。

戦人を「探偵」と定義して推理を進めても、後から

「でも、戦人は探偵と名乗っていませんよね?」と

後出しジャンケンをされればおしまいです。

 

ただ、そのように最初から「探偵の定義」をはっきり知らせると、

うみねこ」という物語の面白さは、恐らく大幅に下がると思います。

読者がまったくルールが分からない状態で話が進むことが、「うみねこ」の醍醐味だからです。

うみねこ」という話の面白さは、このアンフェアさを楽しむことにあるからです

 

なぜ、それなのに作者が頑なに

うみねこは本格推理のルールに則って書かれている。それが分からないのは、激辛カレーであることを理解できない読者が悪い」

というのかが理解できないです。

 

うみねこ」の面白さって、

はやしライスだと思って食べたものが今まで食べたこともないような激辛カレーだった、

そこにびっくりしたと思わせるところじゃないの?

そのびっくりした顔を見たくて、この作品を書いたんじゃないの?

 

そうじゃなかったとしても、お店でお金を出して売っといて、

文句を言われたら「お前の味覚がおかしい」って言うなんて、

料理人として最低だと思います。

ベアト風に言うならば、

「どんな料理でも、ぼくの作っている料理なら

おいちいおいちいって言ってくれるママ相手だけに作っていろ」

っていう話ですよ。

 

わたしは「うみねこ」という作品が本当に大好きであり、

このような作品がもっと読んでみたいと思っています。

作者への批判は、尤もなものだとは思います。

でも、できれば作者への批判とは別に、

うみねこ」という作品の面白さはもっと世に広まって欲しいなと思っています。

 

 

 

「うみねこのなく頃に」が、なぜ批判されたのかを考えてみた。その概論

漫画版を読んだ感想です。原作のゲーム、アニメ等は見ていません。

「ネタバレ」しています。

 

完結した当初、非難轟々だった「うみねこのなく頃に」について考えてみました。

先に言っておきますと、わたしはこの「うみねこのなく頃に」という作品が、

大好きです。

 

じゃあ、この文章は「うみねこのなく頃に」という作品がいかに素晴らしいか、

批判している人たちがいかに何もわかっていないか、を語っているのかといえば、

そんなことはありません。

わたしは批判している人たちの批判は尤もだと思っていますし、

その気持ちもよくわかります。

 

なぜ、そんな矛盾したことを言っているのかと言えば、

うみねこのなく頃に」という作品は、

アイディアは素晴らしく、ストーリーもよくできているのに、

演出で大失敗しているという面白い作品です。

厳しい言い方をすれば、アマチュアとプロの違いがよく分かる作品です。

読者のことを考えず、

自分の好きなことだけを好きなように描くところは、まさにアマチュアです。

それを商業ベースにのせたのが、失敗だったと思っています。

 

しかも自分たちで商業ベースで発表したのに、作者が、

「この作品を理解できないのは、読者の受け取り方が悪い」

という主旨の発言をしているので、批判がさらに加速化しました。

 

当然だと思います。

対象を選ばずに広告出して、食べてね食べてねって言っておいて、

辛いと文句を言ったら、「うちは激辛の味の店なんですよ」ってどういうことですか?

文句言われるのが嫌だったら、

不特定多数の人に金を払って食べてもらう商売などやめて、

家で家族相手に激辛の食事を作ってりゃあいいんです。

わたしは漫画版で読みましたが、漫画の表紙や帯に

「この漫画は激辛味です」なんて一切書いてありませんでしたけれど???

 

わたしも作者の姿勢には、(特に発表後がひどい。)おおいに疑問を感じています。

ただ、「うみねこ」は批判されるポイントがいくつかあるのですが、

そのポイントが他の批判のポイントとごちゃまぜになっていることが多く、

作品や批判の本質が見えにくくなっています。

 

「みんなが悪く言うけれど、結局、何が一番悪かったのかわからない」

 

という状態だと思います。

 

なので、「うみねこのなく頃に」は、どごが悪くてこんなに批判されているのか、

そもそもこの物語の本質は何なのかということを考えていきたいと思います。

 

うみねこのなく頃に」の一番の批判される部分は、結末だと思います。

実際、ネットを見ると、「最初のほうは良かったのに、結末が最悪」という意見が多いです。

 

「結局、ぜんぶOSS前がう思うなら、うなんだろ)かよ」

 

結末が批判されるのは、この点だと思います。

確かに既存の推理小説を想定して読んだ人なら、この結末は批判したくなりますよね。

わたしはこの点を、多くの読者が誤解していると思います。

(誤解というと語弊がありますが。

作者が理解させられなかった、と言ったほうが、正しいと思います。)

 

うみねこのなく頃に」という物語は、誰が犯人かをあてる物語ではなく、

ファンタジーかミステリーかを争う物語でもなく、

ウィルが主張するように、犯行の動機をさがす物語でもなく、

それらすべてを通して、

この物語がどのようなルールで動いているか、主題は何なのか、

ということを見つけることが目的となっているのです。

 

既存の推理小説のように、犯人が誰かや、トリックや動機を当てることが目的ではなく、

それら全てを知ったうえで、この物語がどういう法則性で動いているのか、

物語内の黄金律を見つけることが目的なのです。

そして、その黄金律こそ、

「世の中というのは、OSSなんだ」

これなんです。

 

うみねこのなく頃に」という物語は、

実はこの事実に気づくための物語なのです。

 

推理小説は一般的に、世の中の(主に物理的な)法則性(ルール)がベースにあることを前提にして、謎解きをします。

つまりルールがすべて開示された状態で、

作者も読者もそのルールに則って推理を進めていきます。

 

うみねこのなく頃に」という作品は、この逆です。

提示された物語内の事象から、その世界を支配するルールを見つけ出すという、

逆転の発想で成り立っています。

しかもそこに、この物語は「ファンタジーなのか、ミステリーなのか」という風に、

読者をミスリードするパッケージまでかぶせられているので、

読者はまんまと普通のミステリーの謎解きの手法で、物語を解読しようとしてしまうのです。

 

この発想には、脱帽します。

わたしはこの仕組みに気づいたとき、本当にすごいなと思いました。

しかも、その仕組みをひとつの物語として破綻なくまとめている、

しかも読んでいてとても面白い、本当にすごい作品だと思っています。

 

ただ、この物語の性質上、どうしても後出しジャンケンのような話になってしまうこと、

しかも後出しジャンケンにも拘わらず

作者が絶対にそれを認めないこと、

さらにこの作品は公平なジャンケンで、

それを理解できないのは読者が悪いと言ってしまったこと、

 

この作者のありえない発言への批判が、作品への批判にまで波及してしまい、

作品の評価を著しく下げてしまいました。

なので、今回は「うみねこのなく頃に」という作品において、

大きな批判のポイントになっているだろうと思われる点、

 

?作品の見せ方の問題

?作者への批判

 

を分けて、それぞれ考えていきたいと思っています。

というわけで、各論に続きます。