十七、八のころ、一度だけ読んでずっと心に残っていた物語。
作者の雨森零は二十四歳のときに「首飾り」で第31回文藝賞をとり、その二年後に本作を書いた。
そしてそれ以後、表舞台では何も書いていない。
この作品を最後に、どこかに消えてしまった。
この物語は大部分がメタファーでできており、一読しただけでは意味がとりにくい部分が多い。
物語全体の解釈や分析も含めて、感想を語りたい。
ここに書かれているのは、自分独自の解釈であり、これが唯一絶対の正しいものというわけではない。物語というのは、読み手の数だけ解釈があると思う。
- 「月の裏まで走っていけた」あらすじ
- 「月の裏まで走っていけた」の構造と分析
- 「月の裏まで走っていけた」は、どういう物語なのか?
- この社会にどうコミットして生きていくか。
- グレゴール・ザムザ氏は人間に戻れたのか?
「月の裏まで走っていけた」あらすじ
禅一郎にはアメリカで、絵描きを目指して自由気ままに暮らしている異母兄Rがいる。
Rは容姿端麗で頭脳明晰、誰にでも愛想がよく友人も多く、禅一郎にとっては自慢の兄だった。
Rには同じように絵描きを目指しているQという友人がおり、アメリカでも行動を共にしていた。
QはRとは正反対に、頑固で人付き合いが悪く、容姿も冴えない貧相な男だった。しかし、RがQのことを心の底からすごい男だと認めており、禅一郎への手紙の中でも、Qのことをよく語っていた。
しかし、アメリカで知りあったPという女性を巡り、QとRは仲たがいをする。
禅一郎は、兄からQへの伝言を託され、アメリカまでQに会いに行く。
そのころ、禅一郎は、頻繁に同じ夢を見るようになる。
その夢で禅一郎はポストになり、大嫌いな豚と共に銀のピラミッドを目指して旅をしていた。
「月の裏まで走っていけた」の構造と分析
「月の裏まで走っていけた」の構造
この物語は、四つの章からできている。
①「兄からの手紙」(Rから禅一郎への手紙で、Rの主観でアメリカで起こった出来事が書かれている。)
②Qの主観で、現実世界のできごとが書かれている章
③「銀のピラミッド」(QがRに会うために、銀のピラミッドを目指してポストと一緒に旅する。)
④「禅一郎」(Rの弟である禅一郎の主観で、現実世界の出来事が書かれている)
なぜ、Q、R、Pはアルファベットで表記されるのか?
この物語の主要登場人物である、Q、P、Rの三人はアルファベットで表記されている。アルファベットで表記されている三人は、「一人の人間の対社会における可能性」を表しているのだ、と思う。
Q=社会性を獲得しないまま(社会の価値観に迎合しないで)、生きていく可能性
R=社会に適合して、社会でうまく生きていく可能性
P=社会に適合できず、社会に押しつぶされ敗残する可能性
アルファベットで表記されていることにより、この三人には物語外の次元では同じ人間であり、他の登場人物とは区別されている。
ピラミッドとは何なのか??
Qが正三角形として積み上げていき、頂上に最後の石をのせることを夢見るピラミッド、
Rが逆三角形に積み上げていき、土台はひとつだが、果てしなく広がっていくピラミッド、
ピラミッドは、生き方そのものを表している。
自分の目標だけを目指して突き進むQと、多様な価値観を取り入れてどこまでも広がっていくRを対比させている。
ジェナの兄が描いた砂漠の絵の中に、Qだけが「ピラミッドが描いてある」というのは何故なのか??
ピラミッド=自分の価値観にだけ従う、自分独自の生き方だから、周りの風や波を受け入れて生きるRやPには見えない。
「モネが描いたあの絵は、コルク張りの部屋で書かれたに違いない。たとえ、事実は違っても」
そういう人間だけが、描かれてもいないピラミッドを見ることができる。
なぜ、QはRに「オレにPを押しつけた」と言ったのか?
「P=社会で生きていく中で、社会に押しつぶされ敗残する可能性」のため、RはPを愛しているのにそばにいることができず、Qに押しつけた。
自分と違い、社会の価値観を気にしないQならPのそばにいられるのではないか、という思いと、「P=社会に敗残する可能性」を知ったQがどうなるのか見てみたい、その両方の気持ちがあったと思う。
結果は、Qは社会に敗残する可能性を目にして恐怖し、今までの生き方を貫けなくなり、もろくも堕落していった。
「生きているみたいに死んでいる」メタリック・イエロー・ロンリー・ピッグとは、何なのか?
「社会性を獲得したQ」のこと。
だからQは、Rに会い謝罪するために、「豚にしてくれ」と叫ぶ。
「社会性を獲得して、Rに謝罪し、Rの友人として同じ社会で生きたい」ということを意味している。
この物語はカフカの「変身」のオマージュなのか?
社会(含む家族)と自分の関係性の苦しみを描いた「変身」への、作者なりのひとつの解答。詳しくは後述。
Qは偽札(ニセモノ)なのか?
物語内では、Qに才能があるのかどうかははっきりは書かれていないが、
Rが
「Qはね、偽札さ。ほとんど本物と違わないくらい精巧にできた偽札なんだ。ジョージ・ワシントンの表情さえ微妙に変えられる」
と語っているので、真の意味での才能はないのだと思う。
この物語の最も優れている点はここだと思う。
もしQが絵描きとして優れた才能を持っているのであれば、「才能のために社会性を犠牲にする」という、これまでに何度となく書かれた物語・・・例えば「月と六ペンス」などの劣化版になってしまう。
それはもう今までに何度も語りつくされた、非常に分かりやすい物語だ。
この物語の最も独創的で大事な点は、「Qには才能がない」ということだ。
「才能がなく、社会性を捨てることによって、この社会に何ひとつ寄与することがない人間でも、社会性を獲得しないで生きていくということはできるのか? 許されるのか?」
「才能のためにだけ生きる、というエクスキューズなしでも、平凡な人間でも社会を無視した自分だけの生き方を貫けるのか」
この物語で語られているテーマは、これではないかと思う。
「月の裏まで走っていけた」は、どういう物語なのか?
社会性を獲得せず、社会に順応せず、自分の価値観にだけ従って生きたいという思いと、社会の価値観に順応して生きていく、いわゆる「大人の生き方」のはざまで揺れ動く物語。
「社会性を無視した個人的な生き方」を貫くQを、「社会性を獲得して、世間に順応して生きている」Rは、ある種の憧れをもって見ている。
しかし「社会という強い力に押しつぶされた者の姿」であるPに会い、当たり前のように持っていた「自分の可能性への確信」がQの中で揺らぎ、「社会に迎合しないことによって、押しつぶされる可能性がある」ことを知ってしまう。
「自分の生き方を貫こうとすれば、社会という強い力の前につぶされる可能性がある」その事実に恐怖し、Qは急速に堕落していく。
Rは一度は「社会によって押しつぶされる可能性」であるPをQに押しつけたが、その後、ドラッグによって廃人になったPを愛し結婚することで、その可能性を引き受けながら、それでも社会の中で生きていくことを選ぶ。
自分で思っていたほど強くなかったQは、Rに謝るために砂漠を旅し、Rを探す。
「Rに謝り、同じ世界で共に生きていくこと」=「社会に順応して生きていくこと」を受け入れてもいいと思い、ピラミッドの前で「豚にしてくれ」と叫ぶ。
しかしRは、Qに別れを告げる。
バスケットシューズを渡し、今まで夢見ていた通り、月の裏まで走り、自分だけの銀のピラミッドを作り続けろと告げる。
違う生き方を選び、二度と会うことはないが、たった一人でも自分の生き方を貫けと告げられ、Qは自分ひとりで月の裏まで走ることを決意する。
この社会にどうコミットして生きていくか。
社会に出て「社会性を獲得する=大人になる」にあたって、「ごく個人的だった自分」から「社会的な自分」になるのは、多かれ少なかれ誰にでも葛藤はあると思う。
そしていざ社会に出ると、そこにすんなりコミットできる人間と、どうしても居心地が悪くうまく順応できない人間にさらに分かれると思う。
今の社会のシステムや価値観に、違和感や疑問を感じる、それでもこの社会で生きるしかないとすれば、どう生きればいいのか。
そもそも社会で生きるということ自体に、非常に違和感を感じるときにどうすればいいのか。
いま思うと、それほどはっきりと意識していなかったが、二十歳ごろの自分は、こういうことに非常に悩んでいたのだと思う。
自分もQのように「酒が飲めない子供なのか」と揶揄されたときに、ワイルド・ターキー10杯を一気飲みするような人間だった。(*比喩です。)
「みんながイヤな思いをするだけで、誰も得をしないじゃないか」とRが述懐するが、本当にその通りだと思う。
でもそういう揶揄を言われたときに、笑顔で「そんなことないですよ。一緒に飲みましょう」と返すことが大人になるということならば、自分は一生大人になんてならなくても構わない、社会性なんて一生身につかなくて構わない、そう思っていたし、実は今もそう思う。
当たり前だが、そんなことでは社会ではやっていけない。
社会性を放棄しワイルド・ターキー10杯を一気飲みできる人間は、真の強さを持ったひと握りの人間だけなのだ。そうでなければ、社会で潰れていく。
そんなことは社会に出ればすぐに分かる。Pと出会ったQが、その可能性を知ったように。
自分は、QとRをきっちり分けることによって、その問題を解決した。
多くの人がやっていると思うが、自分はかなり意識的に「社会的な人格」というものを作り出し、社会でやっていく方法論のようなものを技術として身につけ、本当の自分が百の力を振り絞らなければできないことを、その仮想人格のようなものにやらせることにした。Qのままで生きていける強さを持たなかった自分は、そういう方法で社会の中で生きていくことにした。
出る幕のなくなったQが、このブログを中心にネットでせっせと銀のピラミッドを組み立てている「うさる」である。
時々、発作的にワイルド・ターキーを一気飲みし、死にそうな顔をしてゲロを吐くという訳の分からないことを繰り返しているので、見ている方には申し訳ないと思うこともある。
「酒を一気飲みして人前でゲロをまき散らすことに、何の意味があるんだ?」と思われて当然だと思うのだが、自分にはどうしても必要なことなのだ。
だからこの物語はいつまでも、自分の心の中に残っていたのだろう。
正直、びっくりするくらい「下手だな」と思う箇所もある。
例えば、ほとんどのことをメタファーで語っているのに、QがPと共に堕落する理由がドラッグというのは、余りに直接的すぎる。
全編が分かりにくく象徴的な構成なのに、そこだけいきなり直接的なものを持ち込むのはおかしいだろうと言いたくなる。
「自分というものを維持しながら、社会にどうコミットするのか」
このテーマなら、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のほうがずっと上手く語られている。
それでも、この物語にはこの物語にしかないものがある。
このゴツゴツした下手さがむしろいい。
これは作者が二十五、六のときに書かれた物語だが、これは二十五、六歳以上の人間には絶対書けないと思う。
これ以上の年になると、もう自分に対しても社会に対しても、これほど必死にはなれない。こんなに「自分という存在」に対しての苦しみは持てない。
自分は自分の考え方に、人よりもかなりこだわりを持っているほうだと思うが、それでもどんどん色々なものを諦めている。
あのころのように「それでも自分は自分なんだ」と、世界に向かって叫べない。
まさに「社会的な自分」を作ることに葛藤を覚えた、あのころの苦しみがリアルタイムに描かれている、そんな物語だ。
葛藤しながらも、社会に出てみたらそれほど違和感がなかった、何となくやって行けそうだ、そんな風に思う人にはそれほど意味がない小説かもしれない。
でも、この社会にどうしても適合できない、適合する方法が分からない、どうしても適合したくない、そんな風に感じるのは自分がおかしいのではないか。
それこそカフカのように、社会がおかしいのではなく、自分自身が虫のような人間だからなのではないか、そして虫ならば淘汰されて当然なのではないか。
いつの時代のどんな社会にも必ず存在する、そんな苦しみや悩みを抱えている人にとって、ひとつの救いであり励ましになる小説だと思う。
グレゴール・ザムザ氏は人間に戻れたのか?
主要登場人物がアルファベット一文字であることを見ても、物語の中で頻繁にQがグレゴール・ザムザのことを口にすることから見ても、この物語がカフカ、特に「変身」のオマージュであることは間違いないと思う。
本をいっさい読まないQが、「変身」だけは6ページだけ読んだ。
Qが「変身」を最後まで読まなかったのは、面白い仕掛けだと思う。
作者はこの本を書くことによって、虫になったグレゴール・ザムザ氏に「変身」以外の結末を与えた。
「変身」の主人公グレゴール・ザムザは、家族という本来、最も自分に身近で親密であるはずの社会にすら受け入れられず、そんな自分を人間ではなく虫だ、虫だから殺されて当然だと感じながら殺された。
「自分が社会に適合できないのだから、社会から淘汰されて当然なのだ」
「生きるためには、社会に適合して生きるのが当然なのに、それができない自分は虫みたいなものだ」
そんな風に感じている人が、この世の中にもたくさんいるかもしれない。
そんなQやザムザ氏のような人に対して、「社会に適応して、社会の一員として生きる」Rからバスケットシューズが渡される。
これが素晴らしいなと思う。
こういう二つの価値観が出てくる話は、どうしても「どちらの価値観が正しいのか?」という結論に飛びつきがちだからだ。
「どちらが正しい」ということではなく、
「社会の価値観を受け入れずに生きる人間も、社会の価値観を受け入れて生きる人間も、二度と会うことはないけれど、生き方を認め合って同じ世界で生きていく」
この物語はそういう話なのだと思う。
だから、Qのような生き方に憧れながら、社会の一員として生きていくことに決めたRのような人も、
Qのように生きることに、強い苦しみや葛藤を抱えている人も、
Pのように社会の価値観に適合できず、押しつぶされそうになっている人も、
社会の中で自分がどう生きていくか悩んでいる、すべての人間が励まされる物語なのだと思う。
社会そのものは顔が見えない強圧的なものだが、その社会の一員であるRは、ザムザ氏やQやPのような人間を、虫ではなく一人の人間として認め、その生き方や考えを尊重している、そういうメッセージなのだと思う。
なぜ、作者はこれ以降、著作を発表していないのか。
完全にただの推測だが、Qでもあり、Rでもあり、Pでもあった作者は、この物語を書いたことで、自分が励まされ、社会で生きていくことができるようになったのではないかと思う。
これ以上、何も書く必要がなくなったのかもしれない。
それくらい「社会の中でどう生きていくべきか」という問題に関して、温かく強いメッセージに満ちた物語だと思う。
ぜひ、再販して欲しい
現代は価値観がさらに多様化して、「個を保ったまま、社会で生きていくにはどうしたらいいのか」と悩む人がさらに多くなると思う。
そういう人にとって、大きな励ましとなる物語だと思う。
思うのだが、絶版になっている。
ぜひ、再販して欲しい。こういうものこそ、電子書籍化して欲しいのだが…。
社会が続く限り、普遍的なテーマだと思うので、後世に残してほしい。
その他のこと
文藝賞受賞作「首飾り」は未読。本作と対になった物語のようなので、近々読みたいと思う。読んだら、この本の感想も変わるかもしれない。
文藝賞受賞時に「カポーティを思わせる才能」と評されたようだが、確かに似ている気がする。
静かでシンプルなのに、心をすごく動かされる。文章自体に美しさがある。
澄んだ水や、湖面に反射した月の光みたいな文章。酒で言うと辛口の日本酒のような、余計なものをそぎ落としたピリッとしている文章。
たとえが下手で申し訳ないが、読んでいただければ、何となく言いたいことが分かると思う。
長い話ではなく180ページくらいの中編で、文章も読みやすくすぐに読み終わる。興味を持った方はぜひ読んで欲しいな、と思う。
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「自分の個別性を保ったまま、社会の中でどう生きていくのか」というのは、前期村上春樹の重要なテーマだったと思うが、そのテーマの最高到達点が「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だ。
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は、さらに「そもそも自分とは何なのか」ということまで語ろうとしている。
「社会と自分という個との関係性」というテーマで、おそらくこれ以上の傑作は出ないのではないかと思うが、「月の裏まで走っていけた」にはまた別の良さがあるので読んで欲しいなと思う。