うさるの厨二病な読書日記

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【ドラマ感想】宮部みゆき原作「楽園」のここが気になる。

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宮部みゆき原作、仲間由紀恵主演「楽園」を見た。 

第1話
 

 

あらすじ

住宅街で発生した火事によって焼け出された土井崎夫妻は「16年前、中学生だった娘を殺害し、床下に埋めて生活していた」と告白した。

殺人は時効を迎えたため土井崎夫妻は釈放されたが、土井崎夫婦と殺害された茜の妹・誠子は、世間の好奇の目にさらされる。

土井崎夫妻の告白から数日後、フリーライターの前畑滋子の下に、萩谷敏子という女性が訪れる。萩谷は、彼女の息子が描いたという土井崎家が燃える様子を描いた絵を持ってきた。

萩谷の息子・等は、火災の数日前に絵を描いていた。敏子によると、等には人の心を読み取る不思議な能力があるという。

等の能力を信じた滋子は協力を約束するが、その数日後、等は交通事故で死んでしまう。

 

ネタバレ感想

いっきに見てしまうくらい面白かった。

謎の見せ方や興味の引きつけかた、テンポなど話の構成がうまい。少しずつ情報を小出しにしてそれがどこにつながるのか、つながった先でさらに謎が深まるところなど吸引力がすさまじい。

一話一時間全6話というコンパクトさもいい。全10話くらいだと謎が多くても、見ているほうも集中力が切れたり、だれてきたりする。息もつかせぬ展開がギュッと凝縮されていて、見始めたら見終わるまであっと言う間だった。

連ドラでミステリーを連話で取り扱うのはけっこう難しいと思っていたけれど、こんなにうまくできるんだと感心してしまった。

映像化の出来がいいと、原作も読みたくなる。

「空いた時間に、面白いミステリードラマが見たい」というテンションで見たので、十分以上に満足だ。

 

恐らくドラマではなく原作の問題だろうところで、引っかかる部分がある。

三和明夫が善悪以前に「一人の人格」として支離滅裂なところだ。

宮部みゆきは、悪人よりも善人を書くほうが圧倒的にうまい。

「市井に生きる普通の善良な人」は、老若男女すべてにおいて生き生きと描かれている。例えば「理由」では、子供が何人か登場するが、どの子も賢いいい子だがそれぞれ考え方も性格もまったく違う。

「模倣犯」は犯人よりも、彼と対峙する犠牲者の祖父である有馬義男のほうが印象に残っている。

「悪」は印象的に描けても「いい人」や「普通の人」はテンプレっぽい人間しか出てこない作品が多い中で、宮部みゆきが描く「善良さ」や「真っ当さ」のバラエティの多さやリアリティはすごいと思う。

 

その一方で「理由」や今回の「楽園」に出てきた三和明夫のように、「残酷で悪いことをとにかく色々とやらせれば、すごい悪になるだろう」という発想で作られた人物が「すごい悪人」として出てくる。ところが、その「悪行」の内容が支離滅裂なので生きた人間に見えない。

吉田修一の「怒り」の犯人のように、「悪という概念」と考えたほうがいいのかな、とも思った。

ただ「楽園」の場合は話の流れ上、三和明夫を「悪という概念」と考えてしまうと、彼を庇ったり彼の側に立つ人間、または彼の側に立った茜に寄り添う姿勢を見せる人間たち全員が、芋づる式に「自覚のない「悪」に見えてしまうという、なかなか怖い状態になっている。

 

三和明夫については少し考えただけでもハチャメチャな設定なので、人間として考えると頭が混乱する。

知能犯的要素と突発犯的要素が混在しているからだ。そしてその要素がどこで分けられているかが、さっぱりわからない。

彼の主要な行動原理は「支配欲を満たすため」ということになっている。

監禁や恐喝など長い時間捕まえて相手をいたぶるのが好きな割には、暴行などすぐに犯行が露見しそうなことをして実際に露見して捕まっている。

金川が「何度言い聞かせてもダメだった」と言っているので、何回も犯行を繰り返しているのだと思う。しかし、そういった衝動性は、16年も土井崎夫妻を生かさず殺さず恐喝していた支配欲と矛盾してみえる。

土井崎夫妻のケースは、自分も弱みがあるからじわじわいたぶっていた、ということになっていたが、土井崎夫妻に対してはそういう計算ができるのに、金川や監禁していた女性に対しては自分に逆らった?という理由で、突発的に殺している。

しかも昌子を誘拐したときのようなすぐに足がつく金川の別荘に連れ込むなど犯行が雑……というより、何も考えていないか、もしくはつかまりたいのか? と思うような行動もとる。

そんなに危険なことをしてまで自分の支配欲を満たしたいのか、と思いきや、昌子が「家に帰りたい」と言っただけで、監禁もせずに殺そうとしている。小学生なら、成人女性よりも監禁しやすいと思うのだが、何のために連れ去ったのか。

 

登場人物は三和がやばい、怖いと言うが、自分には余りそうは思えなかった。生きた人間に見えなかった。

三和は「残酷でやばい人間」というよりは、「とにかくその場で一番悪く見えそうなことをやる自動装置」にしか見えない。人物像として、余りに雑だ。

そういう「悪い奴が親族にいる」「家族がそういう奴に取り込まれる」という状況を作り出すためにいるのかなと思うので、ちっとも現実感がわかない。頭にはてなが浮かびっぱなしだった。

 

金川や土井崎夫妻の言い分も、三和や茜のやっていることが、例えば昌子のように盗みや喧嘩などの暴力沙汰なら納得できないことはない。

しかし内容が、拉致監禁暴行殺人だ。

「家族を見捨てろ、切り捨てろというのですか」「茜の罪を誠子に知られたくなかった」と言われても、まったく共感できない。

逆切れや開き直りにしか見えないことを、「家族たちの言い分は尤もだ」という文脈で語られる物語が怖く見えてくる。

極めつけが、昌子と茜を重ね合わせた結論だ。

茜のやったことが昌子と同じ素行不良程度、もしくは殺人でも誤って人を殺したという情状や状況に酌量の余地があることならば、土井崎夫妻の言い分も、昌子と茜を重ねることによる物語的な救済も納得できる。

しかし人をはねたうえ、もしかしたら生きていたかもしれない被害者を生き埋めにしたり友人を集団暴行した茜を、「子供が、親の手を離れて道を誤ってしまうこともある」と昌子と重ねたり、「誠子に茜の罪を知られたくなかったから」と黙っていることに共感するのはさすがに無理がある。

生き埋めにされた被害者は、結局どうなったんだ? 十六年間、行方不明のままなのだろうか…。

最後は、「三和明夫」という概念に狂わされて、登場人物が全員おかしくなっているようにしか見えなかった。

 

「主人公教」の亜流だが「主人公教」のようにイライラするのではなく、見ていて怖かった。

こういう「悪」という概念に「悪」を押しつけて、自分たちの言動を言い訳したり、正当化する「無自覚の悪」こそ、本当の悪である、ということを書きたかったのか? とも思ったが滋子が昌子と茜を重ね合わせて、土井崎夫妻をフォローしているので違うのだろう。

昌子もまさか、友人を集団暴行するひき逃げ生き埋め殺人犯と自分が同列に語られているとは夢にも思わないだろう……。

 

「悪」を描くにしても、もう少し整合性を取ってくれないと人間にすら見えない。

そういう人に振り回されているのは、そのほうが自分たちにとって都合のいい世界だからでは? と思ってしまう。

その都合のいい世界が「偽りの楽園」というのはわかるけれど、生き埋めにされた人や監禁暴行して殺された人のうえに築かれている「偽りの楽園」を、「人はそれでも楽園を求めてしまうのかもしれない」と言われても……。

それはこの物語の登場人物だけだと思う…。人を生き埋めにした、と言われたらさすがに警察にいくのでは、と思う自分がおかしいのか?……と混乱が深まる一方だ。

三和が人間に見えないので、そういう状況で金川や土井崎夫妻が主張することや、滋子が語る物語の総括がおかしく見えてしまう。

 

そんなおかしなことを主張する滋子たちのほうが怖かった、というのが最終的な感想だが、そういうことは余り考えなければ、面白いドラマだった。

楽園 上 (文春文庫)

楽園 上 (文春文庫)

 

原作はもう少し丁寧に描かれているのかもしれない。しかし「理由」もここまでひどくはないが、犯人の人格が支離滅裂だったので怪しい。

 

「火車」は、「状況に悪を行うところまで追いつめられる悪の描き方」のバランスが上手かった。「火車」があるから、期待値が高すぎるのか。

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