「シュヴァルツェスマーケン」を読んでいるのだが、主人公テオドールの言動にだいぶイライラしている。
何かに似ているなと思ったら、「破妖の剣」にそっくりだ。
「シュヴァルツェスマーケン」の主人公テオドールの周囲で起こった現象と、「破妖の剣」の主人公ラスの周囲で起こった現象は同じものだと思った。
・主人公が行き当たりばったりのその場しのぎの言動をするので、言っていることがコロコロ変わる。
・その理由を本人は「誰も傷つけたくない」とか「誰も失いたくない」「みんな守る」とか綺麗で抽象的な言葉でまとめる。
・その行動は、「ただ単に何も考えずその場しのぎの判断」「優柔不断で誰にでもいい顔がしたいだけ」にしか見えないのだが、何故か主人公の周りの人間は「テオドールは優しいから」「ラスは優しいから」(←驚くくらいそっくりだ)と解釈する。
・利害が対立する人間すべてを守りきることなどできないので、当然のごとく周りが被害を受ける。
・周りの人間は殺されたり、拷問されたり、さらわれたりさんざんな目に合うが、誰も主人公を責めず、何故か「自分が一番ショックを受けています」みたいな顔をしている主人公に同情する。
この現象は、「周りのキャラが信者化している」と言われることが多いので「主人公教」と名付ける。
周りの人間たちが全員、主人公の信者のごとく、主人公のどんな行動も肯定し、主人公の判断や行動が原因でひどい目にあっても「それは主人公のせいではない」と勝手に色々と他の理由を考えてくれる現象のことだ。
この現象について、「なぜそれが物語において害悪なのか」を語りたい。
この現象が起きる場合、主人公周りのキャラは主人公のことを常に最優先にして思考しているか、ひどいときは主人公との関わりしかアイデンティティを持たない。
「破妖の剣」の場合、ラスの信者たちは一部をのぞいてお互い同士で関わりを持たないし、お互い同士がどう思っているか分からない。
「シュヴァルツェスマーケン」の場合、例えばカティアやアネットとヴァルダーは、同じ部隊にいるのに会話をしているシーンはおろか、絡んでいるシーンすらほとんどない。
5卷でヴァルダーが撃墜され置き去りにしなければならない場面で、カティアやアネットが何の反応も示さないのは不自然を通り越して怖い。主要登場人物が他のキャラに、例え生死が関わる場面でも興味を示さない(主人公との関わりしかキャラとしての機能を持たないため、人間味が欠落して見える)も「破妖の剣」にそっくりだ。
この「主人公教」という現象は、今まで女性作家による女性向けの創作でしか見たことがなかったので(少女漫画に多い)「シュヴァルツェスマーケン」で起こったのはかなり意外だった。
「主人公教」は、いわゆる「俺つえええ」や「ハーレムもの」とは違う。
あくまで自分の観測範囲の話だが、男性向けの作品というのは「自分に何らかの能力・魅力=強さがあり」その強さ(チートと呼ばれるものだとしても)を認められることによって、自己実現を果たすことが多い。
「主人公教」は逆で、自分のダメさや弱さを何故か周りが勝手に好意的に解釈して、叱りも批判もせず受け入れてくれる現象だ。つまり「甘やかされている」「言動の評価を手加減される」という発想が根底にあるので、男性向けの創作のメンタリティには合わないのではと思っていた。
周りのキャラが全て主人公の言動の動機をいい方向に解釈するため、主人公の言動が矛盾していても、主人公を肯定する以外の価値観や考えが物語内で存在しなくなる。(もしくは存在していも、物語の流れ的に正しいように見えない)
そのため、主人公の言動を肯定できない価値観を持ったり判断をする読者が、作品の批判者になることが多い。
最近だと朝ドラ「半分、青い」では、「鈴愛教」と周りのキャラたちの言動を揶揄する感想が見られ、主人公の鈴愛の言動や作品そのものを批判する声が多かった。
「シュヴァルツェスマーケン」では、主人公のテオドールが義妹のリィズと関係を持つシーンから、この「主人公教」現象が加速される。
「シュヴァルツェスマーケン」のテオドールとリィズの関係と、「破妖の剣」のラスと乱華の関係はよく似ている。
性的関係を持つか持たないかで、男性と女性の欲望の違いが見れるのも面白いといえば面白い……ような気もするが、それ以上にうんざりする。
義妹に裸で迫られて、好きな人に盗聴されている中で関係を持つって……どんな性癖だよ…。突っ込みが止まらない。
ということを抜きにしても、どう考えても関係を持つほうが事態がややこしくなるのは目に見えているのに(実際なった)色々と理由をつけてやってしまうことに脱力する。
「いったい、自分は何を優先すべきなのか。最期を迎えるそのときまで、どう生きていくべきなのか。きっとそれは、自身の心で決めなければならないのだろう。誰かに責任を押し付けるのではなく、自分の意思として」
(引用元:「シュヴァルツェスマーケン」 原作:吉田鋼紀 文:内田弘樹 ㈱エンターブレイン)
こんなに大げさに言うまでもなく、ある程度成長すればごく当たり前のことなのだが、「主人公教」の主人公たちはこれができない。
「この状況で最悪のことが起こった場合、責任など取れっこないのだから、早めに決断をしなければならない」ことが何故か分からない。
「誰かに責任を押し付けることなく」などと言っているが、その最悪のケースが起こった場合、そのツケや責任を支払わされるのは、物語上、主人公以外の人間であることが多い。
「シュヴァルツェスマーケン」の場合は、そのことをシルヴィアが再三再四指摘しているのだが、テオドールは馬鹿のひとつ覚えのようにリィズへの対処の決断をせず、かばい続ける。
自分のやったことに対する責任を他人に引き受けさせておいて、傷ついた被害者面をしているうえに、周りが誰もそのことを責めない。
周りのキャラたちの言動は、自分が拷問されようが殺されようが、主人公が傷つかないように罪悪感を持たないように、ただその一点だけに集約される。
主人公のために生き、主人公のために死んでいく。物語全体が主人公を甘やかすためだけに存在しているので、キャラが生きた人間に見えなくなる。
主人公ばかりか周りのキャラまでおかしくなったのか、という錯覚が起きるのが、「主人公教」の恐ろしいところだ。
「主人公教」という病を、ハイヴに習ってフェイズで表すと
フェイズ1「主要キャラの誰か一人が感染」→「そのキャラが信者化しておかしくなる」
フェイズ2「他のキャラに伝染」→「主要キャラほぼ全員が信者化」
フェイズ3「物語内で、主人公の価値観に対立する思想が消滅」
フェイズ4「主人公を肯定し、賛美する思想の一元化による世界」
フェイズ5「物語世界が赤子化した主人公のゆりかごと化す」
フェイズ6「ゆりかご化による物語の主筋の破綻」
という風に進んでいく。
主要キャラたちが赤子化した主人公をあやすだけの末期状態は、予定調和的に話が進むことが多く、ただただ退屈なだけだ。
周りから無力な存在として甘やかされ、愛されるだけの主人公に自分を投影できる読み手以外にとっては、苛立たせられるだけの退屈で苦痛な読み物になる。
シルヴィアが強くテオドールを批判し、アネット、テオドール教最右翼のカティアも少しは批判を行う中で、テオドールのほとんどバカになったとしか思えない優柔不断さのために事態がどんどん悪化し、そのツケを支払ってみんなが捕まりシルヴィアが拷問されファムが殺され、しかもそのことで誰もテオドールを責めない。
どころか何故かひどい目に合っている人間のほうがテオドールの心境ばかりを気遣う展開には、主人公教、物語ゆりかご化の真骨頂を見るようでイライラさせられっぱなしだ。
「言わんこっちゃねえ」と思う人が多いと思うが、物語内の主要登場人物は誰もそのことを指摘しない。
「主人公教」はシュタージなんかよりも、よっぽど強力にキャラを洗脳している。
ちなみに「主人公を肯定しているだけではない」というエクスキューズとしてモブによる批判が行われることがあるが、この批判はほぼ攻撃力を持たない。攻撃力を持たないことがメタ視点では分かっているのに、「主人公に都合がいいだけの世界ではない」という言い訳のように描写すること、それに対して信者が騒ぎたてることに余計に苛立だせられる。
「主人公教」がひどすぎて、周りのキャラの設定まで初期から変わってしまった「破妖」よりはずっとマシだが、テオドールにリィズを処刑させたことをカティアが「シュタージと同じ」と批判するなど、読んでいてうんざりする描写が多い。
それが間違っていると思うならば、誰に何をどういう風に思われようと、テオドール自身が断るか批判すればいい。
その考えがどうこうと言うより、主人公が責任をもって自分で決断したことを、他のキャラに庇わせたり、反論させたりする構図が醜悪なのだ。
周りのキャラが全員母親と化したかのような、主人公への甘やかしっぷりが「主人公教」の真骨頂だ。
「破妖の剣」に対して、「ラスは相手役の闇主に、自分を無条件で、見返りなく受け入れてくれる父親的存在であることを求めている」という感想を読んだが、まったくその通りだと思う。(何から何まで似ている)
少女漫画では、この「ゆりかご」を原型とする「自分が否定されない、自分が唯一のプリンセスである小世界」を作ることを目的としている漫画をよく見る。
この作りの話自体は悪いわけではない。(この作りで好きな作品もたくさんある)
ただこの作りの物語は、「主人公がプリンセスの世界」から追い出されたモブに読者が感情移入した場合批判を受けやすい、主人公のプリンセス具合を維持するために、主要キャラや主筋が破たんしやすいなどの難しさがある。
そういう都合のいい世界であるエクスキューズの配備の仕方と、プリンセス具合のバランスをとることが、作り手の腕の見せ所になっている。
河原和音「素敵な彼氏」の感想と、少女漫画の「王道」について考えたこと。
「君に届け」にみる女子のプリンセス願望と、女性にとっての自己実現。
前述したように男性向けの創作はこの真逆、「カイジ」における利根川のセリフ「世間はお前らの母親ではない」に代表されるような、ゆりかごの外に追い出され、自分の心身を攻撃してくる価値観と戦い、そういう社会(世間)でどう自分を打ち立てるかということを原型としている作品が多い。
例えば「銀と金」は、森田が尊敬し多大な影響を受けており、読み手にとっては「物語世界での正しさ」の指標となる銀二でさえ、森田の「優しさ」に理解を示さず批判している。
主要キャラが、主役の「優柔不断や甘さ」を「優しさ」と解釈してその行動を肯定する「シュヴァルツェスマーケン」や「破妖の剣」とは真逆だ。
「破妖の剣」と「シュヴァルツェスマーケン」は、自分の中で完全に同じ「主人公のゆりかご物語」というカテゴライズに収まったが、色々な理由で「シュヴァルツェスマーケン」のほうが物語のできはずっといい。
一番の理由は「シュバルツェスマーケン」では、本来主人公が背負うべき役割を、アイリスディーナとカティアが背負っているため、「テオドールが主人公」という事実を無視すれば、通常の面白い物語として読めるからだ。
アイリスディーナへの誤解が解けてからのテオドールは、一見、アイリスディーナの価値観や生き方を肯定しているように見えて、実はかなり強力な批判者である。(大義のために個人を捨て去るのは間違っている)
というよりも、部分的には肯定し賛美しているからこそ、アイリスディーナにとっては最も厄介な批判者という側面がある。(恋愛も絡んでいるのでさらにややこしい)
そしてこの部分に関しては、読み手はむしろテオドールの価値観に共感する。
またカティアの最初のころの未熟でいながら理想ばかり追い求める姿勢も、テオドールの言い分のほうが尤もに見える。
アイリスディーナやカティアは、そういったテオドールのように自分たちの価値観とは異なる価値観の中で、自分の理想を追求している。
グレーテルやシルヴィアもそうであり、リィズも悪役として尤もな説得力を持っている。スパイとして「シュバルツェスマーケン」に入り込んだリィズの、再生と贖罪の物語にしても良かったんじゃないか、とも思える。
余談だがこういう様々な属性をすべて女性キャラが背負っている「シュバルツェスマーケン」は、従来の物語内のジェンダーロールを打ち破っているという意味で、女性が読んでも十分面白い物語だ。
特にアイリスディーナの恰好良さは異常なので、萌え絵がよほど苦手、強化装備のデザインが嫌というのでなければむしろ女性におすすめしたい。
*「シュバルツェスマーケン」における萌え絵への意見はコチラ。
「シュヴァルツェスマーケン」を読んで、萌え絵は意外と扱いが難しいと思った。
どの角度から見ても面白い物語を、読み手を退屈にさせ、ときには不快にさせるだけの見世物にしてしまうところが「主人公教」は恐ろしさだ。
「主人公教」は周りのキャラも「主人公の信者」というだけのキャラにしてしまい、どれほど面白い物語でもつまらないものにしてしまう。
物語における伝染病のように恐ろしいものだ、と再確認した。
「破妖の剣」も最初は面白かったんだ…。
「主人公教」は日常のドラマだとよほどひどくない限り「主人公補正」で収まることが多いのだが、人の生き死にが関わる話だと信者キャラの人間味が欠落し、狂人に見えかねなくなる。
物語がかかる恐ろしい病だ。
ただ「海の闇、月の影」の場合は、「主人公教」にかかっているのが相手役の当麻だけなので、当麻がおかしなキャラに見えるだけで話自体には伝染していない。
フェイズ1にとどまっている。
「半分、青い」のように主人公を概念化する手法が、内面の声があるために(←またよくしゃべる。少し黙ってくれと言いたくなる)できないところが小説の辛いところ。
テオドールが主人公でなければ、本当に面白い話なんだが…。
「主人公教問題」を外した「シュヴァルツェスマーケン」全巻読み終わった感想はコチラ。
「主人公教」の話の続き。
よりによってこのテーマで主人公教をやるか、という作り手の神経を疑ったアニメ版「カオスヘッド」。