山火事に巻き込まれて逃げ込んだ館で起こった、吊り天井による殺人事件。館が燃え落ちるまでの残り35時間で、殺人事件を解決し、館から脱出することができるか。
「タイムリミット」「クローズド・サークル」「吊り天井」このあたりのワードで興奮した人は、すぐに買って読んで大丈夫。綾辻行人の「館シリーズ」の最新刊と勘違いして買った人も大丈夫。
面白かった。
以下ネタバレ感想なので注意。
細かい点は色々と言いたいことがある。
例えば「貴之、文男、つばさ」が本物ではない、などの描写のしかたや伏線の張り方が従来パターン化されている通りなので、勘のいい人だと出てきた瞬間に気づいて、雄山の日記の記述などで「ああやっぱりそうだろう」となると思う。
それ自体はいいのだけれど、本書は館に閉じ込められた(雄山とつばさを除く)7人のうち、飛鳥井と葛城が真相に気づいており、小出も語り手の田所よりは色々なことに気づいている。
登場人物のうち三人も気づいており、読者も何となく気づいてしまうと、探偵たちがすごいのではなく、彼らが何かいうたびに驚く田所が間抜けに見えてしまう。
「物語内と読者の評価の一致」というのは、すごく難しい部分だと思うのだけれど、特に「登場人物の誰かをすごく見せたい」場合は、これが一致していないとそうとう厳しいことになる。
読み手の感覚が対象人物をすごいと思うのではなく、「すごい」という評価を下す人物の能力や見識を疑うほうに傾くからだ。
「物語内と読者の評価や価値観の乖離」がはなはだしいと、読み手は「物語自体がおかしい」という結論を出してしまい、作品批判や主人公のアンチ化が起こってしまう。
もうひとつは推理の根拠に人物の性格を持ってくることが多いのだが、久我島の性格が矛盾して聞こえてその根拠にまったく納得できなかったところだ。
①つかまるかもしれないという怯えから、十年間犯罪を犯すことを抑制していた。
②火事に巻き込まれることに動転して、年下の女性に依存するほど弱い性格
③その火事に巻き込まれて死ぬ可能性がある中で殺人をする。
④自分が犯した殺人だと気づいて、構って欲しい。
久我島の行動の根拠として、時には①、時には②、時には③④と性格を出してくるのだけれど、全部並べると無茶苦茶矛盾している。
「矛盾しているのが人間なんです」という話ではない。他人にとっては矛盾でも、「本人の中では一貫している」のが「人格」だということは何回か書いている。
この「人格」が見えないときに、それは物語の都合では、と言いたくなる。
「ものすごい悪党はとにかくその瞬間その瞬間の一番すごい悪を働き続ける存在で、全体を通してみたら行動が支離滅裂でも構わない」それを説明づけるために、「子供だから」で片づけるのは勘弁してほしい。
「子供のまま人格形成が止まっている」ならば、そういうことを解決までに描いておいて欲しい。
こういう「矛盾」が出てくると「その行動の根拠にその性格があるのではなく、その行動をさせたいから、無理やりそういう性格だと説明しているのでは」と思ってしまう。
「楽園」の記事でも書いたけれど、そういうキャラは善人とか悪人とか関係なく、「作者がスイッチを押すと働く装置」にしか見えなくなる。「人格」が見えないと人物として面白い面白くない、魅力がどうの以前の問題になる。
「紅蓮館の殺人」の中でクリスティーに触れられているけれど、クリスティーはこの「殺人にはその人(被害者にせよ、加害者にせよ)の人格が深くかかわっている」ということに、ものすごくこだわっている。(というより、個人的にはその考えにこだわりがあるからミステリーを書いているのではと思っている)
「その行動をさせたいから、無理やりそういう性格だと説明している」の逆で、「こういう性格の人が殺人をするとしたら、どういう殺人を犯すか」という発想で物語ができている。(「子供」が犯した殺人は、ああいう感じだった)
だから物語や人物がパターン化、テンプレ化しているように見えてもまったく飽きないし、再読に耐える。
特定の人物の性格を事件や推理の根拠に持ってくるのであれば、「その犯罪を犯すための人間」を描くのではなく、「その人間が犯した犯罪」を描かないと根拠にならないのでは、と思う。
「あなたは殺人者であってもおかしくないが、あなたが殺人者だったらそんな殺し方は絶対しない」
「他人は騙せても自分は騙せない。人は何から逃げられても、自分自身の固有の性格(とそこから生まれる思考や行動のパターン)からは、決して逃れない」
「春にして君を離れ」や「終わりなき夜に生まれつく」を読むと、悪党でも平凡な人間も、人は誰しも自分自身からは決して逃れられない、というのがどういうことかよくわかる。
それがクリスティーの作品が時代が変わっても面白く、怖いと思われる理由であると思う。
とこの二点が気になった。
ただ「紅蓮館の殺人」は一般書の作りだが、「講談社タイガ」というレーベルはライトノベルも発刊しているようなので、読者の年齢層を意識しているのかもしれない。
主人公二人が高校生だしね。
謎解きはちょっと期待はずれだったが、(ノックスの十戎の裏をかくのかと思っていた。)「紅蓮館の殺人」はそこを踏まえても面白かった。
わくわくしながら読んだし楽しめた。
「紅蓮館の殺人」で一番良かったのは、作者が読み手に対して誠実なところだ。
例えば探偵の葛城が「探偵とは職業ではなく、生き方だ。その生き方をなぜ捨てたのか」と飛鳥井を責めたあと、葛城を「探偵という生き方」を揺らがせるほど追い詰め内省させている。
「エンターテイメントに自意識は邪魔」という意見もあるかもしれないが、自分はこういう生真面目さが好きだ。
ミステリーは特に書き手に対して信頼感がないと楽しめない。
自分が学生のとき、同時代に出てきたこういう本でミステリーの面白さを教えてもらったら夢中になっただろうし、きっと幸せだろうなと思う。
余談
「人は自分自身の固有の性格(とそこから生まれる思考や行動のパターン)からは、決して逃れない」
ということは、赤木もほぼ同じことを喋っている。
初めて読んだとき「おおっ、ポアロと赤木が同じことを言っている」と一人で興奮した。
(引用元:「アカギ 闇に降り立った天才」6巻 福本伸行 竹書房)