前回の「紅蓮館の殺人」の感想の続き。ネタバレがあるので注意。
「犯人の行動(犯行を含む)の根拠に犯人の性格を持ってきているけれど、それは根拠にならないのでは」ということを書いた。
タイムリーな記事を読んだので、補足的に考える。
「主張には根拠が必要だ」なんて、当たり前すぎて、なにを今さらと感じるかもしれない。確かにその通りだろう。だが、実際に、事実のフリをした意見や、根拠レスの主張に出会ったとき、即座に見抜けるだろうか。
たとえば、この主張なんてどうだろう。
聖書に神は存在すると書かれているから、神は存在する
聖書は神が書かれたのだから、正しい
これは、結論が前提に含まれた有名な例で、何も言っていないに等しい。通常は、一文目と二文目の間に、様々なレトリックが散りばめられ、分かりにくくなっている。だが、「前提→結論」の形にすると、論点先取はすぐ見抜ける。
(太字は引用者)
久我島の例で見ると「久我島がこういう行動をしたのは、こういう性格だからだ」→「なぜそういう性格だとわかるかと言うと、久我島がこういう行動を取っているからだ」→「だからこういう性格の久我島が、こういう行動をした」となっていて、根拠と結論がループになっている。
だからおかしく感じたのか、ということに引用記事を読んで気づいた。
元の本をあとで読んでみようと思う。
既に入荷待ちになっている。がーん。
「創作では、その人物の性格や人物造形の根拠は物語内で描かれているものだけ」なのはそうだ。それを描写の積み重ねで読者とのあいだにいかに「認識や評価の一致」を試みるかが、「創作の面白さ」や「キャラの魅力」につながる。
前回触れた「アカギ」も、周りのキャラが持ち上げ要員だらけだけど、「読み手の感覚が対象人物をすごいと思うのではなく、「すごい」という評価を下す人物の能力や見識を疑うほうに傾」かないのは、「周りのキャラの言葉ではなく、赤木の言動の描写で読み手が赤木のすごさに納得するから」だ。
読み手の感覚とコンセンサスを取る試みがなく、「このキャラはこういうキャラだから、こういう行動を取った」「こういうこともあるんです」と言われても、「はあ」としか思えない。
創作で批判されるパターンとして、書き手と読み手の「物語内の事象への認識と評価の不一致」があると思う。
読み手の感覚が対象人物をすごいと思うのではなく、「すごい」という評価を下す人物の能力や見識を疑うほうに傾くからだ。
「物語内と読者の評価や価値観の乖離」がはなはだしいと、読み手は「物語自体がおかしい」という結論を出してしまい、作品批判や主人公のアンチ化が起こってしまう。
「半分、青い」がそんな感じだった。
「半分、青い」は根本で描かれていることは面白いと思うけれど、見せ方が下手というか「これはこうとしか見えないはず」という作者の視点が強すぎたのでは(だから視聴者とのあいだで、認識や評価の不一致が起きたのでは)というのが個人的な意見だ。もうちょっと視点を遠くしたら、否定的な評価が減ったのではと思っている。(朝ドラ向きではないだろうが。)
この例は、「書き手とキャラの距離が近ければ近いほど起こりやすい」と思っている。
書き手とキャラの距離が遠いと、書き手の客観評価と読み手の評価が一致しやすくなるのでは、ということをいま思いついた。
「書き手と登場人物の距離が遠ければ遠いほどいい」というわけではなく、ゼロ距離でも面白い創作はたくさんある。ただ「書き手と読み手の『物語内の事象への認識と評価の不一致』」は避けやすいのでは、とは思う。
創作であれば何であれ取り入れるのも自由だと思うし、それがむしろ面白さにつながる場合もある。
今回は自分の中で面白さに昇華されるのではなく、引っかかりになったので考えてみた。
ただ「紅蓮館の殺人」はそういう引っかかりがあっても面白かったので、興味がわいた人はぜひ読んでみて欲しい。