うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

NHK大河ドラマ「光る君へ」第六話まで見た忌憚のない感想・その恋愛描写は必要なのか。

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*前回。

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これまで「自分は宮廷の権力闘争に興味はないし、藤原家の行く末もなるようになればいい」と距離を取っていた道長がいよいよ後に最高権力者になる片りんを見せ始めた。

痣だらけの顔の道兼と対峙した時、今まで通り気圧されるのかと思いきや「兄上には汚れ役になってもらわねば」と言った時には「おお、いよいよか」と気持ちが盛り上がった。

結婚や妊娠、恋愛、女子サロンの歌会、舞や漢詩の催しというめでたいもの、優雅なもののすべてが権力の構図に結びついている。

吐く言葉ひとつ、指先の動きひとつがすべてが政治的な文脈を帯び、解釈される。

「誰が誰を好きになるのか」

「どれほど気に入っているのか」

「どの宴に招かれるのか」

「何の歌を詠むのか」

遊びも恋愛も日常も家庭もすべてが権力の構造に取り込まれ、だから誰も逃れらないところがこの時代の怖さ、面白さだ。

 

この時代に書かれた「源氏物語」ではそれが当たり前という空気感がある。

なので「(時には陰惨さもあるが)優雅で華やかな政治」という雰囲気が話の背景に流れている。

「光る君へ」は現代の価値観の視点も入っているため「生活全般、人生のすべてが政治の文脈につながる」ことが、どこから何が出てくるかわからない緊張感、異様さにつながっている。

これまで良識人ぽく見えていた道隆が「女御さまに御子は生まれない」と当たり前のように口にする。

こういうさりげないところに、この時代の怖さが表れているところがいい。

 

道長が権力者への階段を上る道筋が見えてきて面白くなってきたと思うが、どうも道長とまひろの恋愛描写が話の他の要素から浮き上がって見えてしまう。

「道長さまのお名前はない」「道長さまにはもう近づかないようにしなければ」と言われても、いるに決まっているだろというツッコミしか出てこない。

大河ドラマに恋愛描写は邪魔、というわけではなく、道長とまひろの恋愛描写が余りに「恋愛メインすぎる」「恋愛しかなさすぎる」のが気になる。

「本来は恋愛も結婚もすべて権力構造に含まれている、政治的文脈を帯びるからこそそうではない関係が特別なのだ」ということなのだとは思うが、今のところ(権力の構図に巻き込まれない)浮世離れした恋愛だからこそ美しいと思うよりも、単に浮かれているだけのように見えてしまう。

 

直秀もまひろに対して恋愛感情があるように匂わせる描写があるが、これはむしろ面白い。

直秀とまひろの間では、恋愛以外の要素である「身分差」や「世間に対する認識のずれ」が二人の対立軸として機能している。

直秀が何となくまひろを気にして距離を縮めたと思ったら、対立する要素によってまた遠ざかるという関係の揺れがある。

まひろが提案した五節の舞姫の話を、直秀が「庶民っていうのは日常が辛いから面白い話が聞きたいんだ」と怒る。

直秀を良く知る仲間が、すぐに「あの子に惚れているのか」と突っ込んだように、直球の恋愛描写ではなく、「普段は『ふーん(興味なし)』で済ませることを怒る」ということを以て、直秀はまひろのことが気になっているとわかる。

遠ざける(怒る)ことによってその人が気になっているとわかる、というようなアンビバレンツが恋愛モノの醍醐味だ。

会った瞬間に好きになって、何があってもずっと同じテンションで好きで、会ったらド直球の恋文を読む。

感情の揺れがなくずっと一定だと、恋愛モノの面白みが余り感じられない。

そんなに呑気なことをしていて大丈夫か、と思ってしまう。

道長の兄である道兼がまひろの母親も殺したことも、(今のところ)二人の恋愛には障害として大して機能していない。

道兼の弟とわかっても普通にまひろは道長を好きなままだ。

史実に基づいた話なので仕方がないが、道長とまひろが婚約者同士でそこに直秀が絡むのような王道の三角関係のほうが恋愛モノとしては面白そうだ。

 

道兼の「藤原家の生贄設定」は面白い。

道兼の行く末を調べると、史実では兄・道隆の跡を継いだ直後に病没したらしい。

「光る君へ」では、道兼の死は単なる病没で終わりそうにない雰囲気なので楽しみにしている。

兄弟間の確執と闘争が面白くなりそうなので、そちらに比重を置いた展開だといいな。