楽しみにしていた今期の大河ドラマ「光る君へ」の第一話、第二話を見たのでその感想。
「面白かった。先が楽しみ」
「豪華で実力派の俳優陣の演技を見ているだけで楽しい」
全体的にはこういう感想だが、強いて言えば「個人のストーリー」と「(宮廷政治などの)社会構造的なストーリー」のつながりが気になった。
まだまひろが宮廷に関わっていないせいもあると思うが、接続のしかたが強引に感じた。
具体的には一話、二話でこのふたつの要素の接点になっている道兼の人物像だ。
一話の時点だと、兄との比較で苛立っていると分かるにせよ、それにしても理不尽なまでに粗暴すぎる。
弟にあそこまで理不尽に当たったりまひろの母親を衝動的に殺してしまうことも、そこまでする背景がわからなすぎて「人物」として見づらい。
倫理ゼロなのはいいにしても、損得勘定まで吹き飛んでいるので「キャラの成り立ちがまったくわからんな」という思いで眺めていた。
だが二話で道兼の人物像の仕掛けが明かされる。
父親の兼家によって、構造の中での「穢れ・悪の集積地」にさせられているのだ。
アダルトチルドレンの形態の中に、問題を起こして外に家族の問題や歪みを表そうとする「スケープゴート」という類型があるが、兼家は自分の息子のうちの一人を意識的に犠牲にすることで構造を安定させようとしている。
だから道兼はあんなにも理不尽な「人あらざる怪物」に見えるのだ。
天皇制は「内と外」を分けることで構造の内部を守る、そのために「外(穢れ)」をわざと作ることで安定させる、という話を何回か目にしたことがある*1が、兼家は構造を安定させてその支配者になるためにそういう方法をとっている。
段田安則の演技の説得力も相まって、「権力に執着する個人としての兼家」と「社会構造を体現した人間」が融合した兼家の人物像が、違和感なく伝わってきた。
「体制によって『化け物』にさせられている兼家」が、まひろや三郎といった個人に理不尽な怪物として襲い掛かってきて、それが宮廷のストーリーと個人のストーリーの接点になっている、という造りは良かった。
いいんだけれど、個人的には一話二話の時点では、「社会構造の安定のためなら息子を犠牲にすることも厭わない……どころかむしろ計算済み」な道兼(権力構造)の凄みと個人の物語がかなりアンバランスに感じた。
特にまひろと三郎は、「お互い記憶にあって気になっている程度」かと思いきや、はっきりと恋愛感情になっていることに驚いた。
源氏と紫の上の出会いになぞらえているのだとは思うけれど、二人の関係が余りにド直球の恋愛モノすぎて、見ていて妙な照れを感じてしまう。
恋愛モノを見るつもりならばこれくらいド直球でいいが、そうでない場合だとモードがうまく切り替わらない。(要領が悪い)
佐々木蔵之介演じる宣孝が好きなので、そちらに目がいってしまうのもあるのかもしれない。
いつもひょうひょうとしているのに「わからないなら黙っておれ」のところで、急に真顔で凄みを出すところが良かった。
どういう経緯で結婚するのか今から楽しみだ。
続き。6話までみた感想。
*1:先日読んだ立花隆の「日本共産党の研究」にもそういう話が出てきた。