うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【読書感想】「チャイルド・オブ・ゴッド」 「ジョーカー」や「アンチマン」よりもラディカルな「社会から孤立し疎外される男の物語」

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主人公のレスターの動向を終始追っている話なので、マッカーシーの小説にしては読みやすい。

 

マッカーシーの小説の特徴は

①叙景と叙事で成り立っていて叙情がほぼない

②引用符を使わず、読点がほぼない

③必要なことだけが端的に書かれているので、時系列が追いにくい

無味乾燥で取り付く島がないという印象なので、読みにくい、合わないという人もいると思う。

「ザ・ロード」はマッカーシーの小説の中では主人公親子のキャラが立っていてストーリーが追いやすい、情緒的な部分があり「優しい世界」なので読みやすいけれど、自分の中では「マッカーシーらしさ」が薄味な気がする。

「チャイルド・オブ・ゴッド」は中編でサクッと読めるので、「何から読んだらいいかわからない」という人は踏み絵的に読んでみるといいのではと思う。

 

自分の中でマッカーシーの小説を読むのは「フロムのゲームを周回する感覚」に似ている。

「内容を読みたい、ゲームをプレイしたい」というよりも、「この世界にいたい」という気持ちになる。

面白い創作は他にもあるし、面白いゲームは他にもある。

だが「読んで(プレイして)面白い」という感覚とは違い、ずっとこの世界を歩いていたい、もっと言うなら「この世界に帰って来た」みたいな感覚になるのだ。

なので「この世界に生まれた人はそこで生まれたことを思い出して」*1どっぷりハマるんじゃないかなと思う。

 

「チャイルド・オブ・ゴッド」は、「ジョーカー」や最近話題になった漫画「アンチマン」の系譜に連なる、「社会から無視され疎外された男の物語」だが、内容は「ジョーカー」や「アンチマン」よりもずっと冷徹だ。

主人公のレスター・バラードは、幼い頃母親が失踪し、十歳の時に父親を自殺で亡くす。

首を吊った父親の遺体を下ろしてもらうように、大人に頼みにいかなければならなかったという事実から、元々バラード親子は社会とのつながりが希薄だったのだろうと推測できる。(バラードの内面や背景の説明はほぼなく、淡々と語られる状況からそれを推測する作りになっている)

物語の開始時点でバラードは二十七歳だが、定職につかず(恐らくついたこともなく)、住んでいた家は不注意から火事で失ってしまう。

極寒の中に放り出され、山奥の洞窟に住みつき、強盗をし、殺した人間の遺体を家に飾り一緒に住む。

バラードは街の人間とまったくつながりがないわけではなく、顔見知りが幾人かいる。だからなぜそんな残虐な行為をするようになったのか疑問がわく。

だがよくよく状況をつなぎ合わせていくと、いかにバラードが社会から孤立し、そのために社会という枠組みを理解することが難しかったかがわかる。

 

相手は自分が悪いことをしていると考えて咎めている。相手が「こいつは悪いことをした」と考えていると、自分は捕まる。

この理屈は経験からわかる。

だがその背後の、相手が自分のしたことの何が悪いと思っているのか、悪いことをしたと判断されたらなぜ、どんな法則に則って捕まるのか。それはわからない。

バラードは社会のルールを僅かなつながりから経験則として学ぶしかなかった。

それでいながら言葉が通じ、一見普通に生活できているように見えるためにほっとかれていた。

 

理解できず、理解する機会も与えられなかったルールで構成された社会でバラードは一人で何とか生きようとする。だが、その生きる場所は次々と奪われていく。

心の中には人とつながれない寂しさだけが降り積もっていく。

「チャイルド・オブ・ゴッド」は、社会の輪の中に入れず、孤独に生きているバラードにまったく寄り添わず、ただ事実だけを鋼鉄の眼差しで描写している。

そのためにかえってバラードの心情が際立つときがある。

祭りの夜に花火を見上げるシーンと洞窟が浸水する中でぬいぐるみは持っていくシーンは、バラードの寂しさが伝わってくるようで読んでいて泣きそうになった。

花火を見上げるシーンも前後の描写を合わせると、ぬいぐるみで女の子を釣ろうとしているようにしか読めない。

だがそれは性欲であると共に、バラードの孤独と寂しさも含まれている。

noteの記事で書いたが、それが性欲であるか孤独からくる寂しさであるかは本人にとっては判然としないもので、それを分類することは社会(他人)にとってしか意味がない。

女性向けの恋愛モノと男向けの恋愛モノは文脈がまったく違う。むしろ男向けのバトル漫画と女性向けの恋愛モノのほうが内実は近い。|うさる

 

ぬいぐるみを並べるように、人を殺してその遺体を並べることは社会にとっては許されない行為だ。

それを禁忌としている「社会の枠組み」を、人は成長する過程で学ぶ。そうして社会を守ることで、社会から守られて生きていく。

だがバラードは、そもそもその社会から生まれた時から疎外されていた。

ぬいぐるみと遺体の何が違うのかを誰からも教えられなかった。(“父親が首を吊ったことを「雨が降り出したよ」と知らせるくらいの感覚で知らせた”(P25)ので、死生観を学んでいないという推測もできる)

 

バラードの元々の性格は、それほどひどかったわけではない。*2

普通に優しさもあり、その優しさを年老いた娼婦に発揮したがそれもはねつけられ八つ当たり的に陥れられた。

自分が理不尽な目に遭ったということを説明し訴える力がなく、周りからは理解されずに放置されて終わる。

社会はバラードを受け入れようとせず、率先して輪の外へと疎外したためにバラードは社会の論理を逸脱し、自分の内部の理にのみ従った、ということが分かる。

 

社会から疎外され社会性を失った人間は、追い詰められれば獣になってしまう。

社会を守るためにこういう人たちをどうすればいいか、どう社会の中に包摂するかということは現実でも考えられ、創作のテーマとしても数多く語られている。

 

「チャイルド・オブ・ゴッド」は社会からの逸脱のしかたのすさまじさと、情緒を排して淡々と事実のみを追う冷徹な眼差しで、バラードへの安易な同情を拒否している。

通りすがりのカップルを殺害し、女性の遺体を犯し、その頭皮をはいだ鬘や衣服をまとって生活するという行為は、社会で生きている人間からすれば、いかなる背景や事情も以てしても許せず、嫌悪しかわかない。

しかしこの「嫌悪というブレーキ」は、自分の中に生来備わっているものではなく、社会という枠組みの中で幸運にも与えられたものなのかもしれない。

マッカーシーはそう考えたのではないか。

巻末の訳者・黒原敏行の解説によると、マッカーシーはバラードの生きざまをマッカーシー自身も含めたすべての人間の本質に通じていると考えたために、「あなたによく似た神の子だ」というタイトルをつけたのでは、と語っている。

 

「社会」という人の輪から外れ、その恩恵を受けられていないと感じた時、いかなる倫理も食い破る自分の中の獣とどう戦うか。

それはまずは自分自身の問題として考えなければなあと思うのだ。

 

*結末はだいぶやや残念だったけれど、「君が獣になる前に」はこのテーマを扱った作品として面白かった。

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note.com

 

*1:厨二病的言い方。

*2:小学生のころの暴力的な描写は出てくるが、これが強調されていること自体はミスリードではないかと思う。