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うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

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ネガコメの中身を徹底分析して、ブログ運営に役立てたい。

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前回の記事の続き。

 

www.saiusaruzzz.com

 

この問題を考えるときに気になるのは、「ネガコメがきた!イヤだ!」という部分から一歩も話が出ないケースが多いことだ。

仮にネガコメを「全面的肯定以外のすべての意見」と定義するならば、その内容は相当多岐に渡るはずだ。

内容が違えば対応や対策も違うものになる。

なので、今回はネガコメの内容分析とその対応について考えていきたい。

 

くっそ長いので、時間があるときに興味のある項目だけどうぞ。(*約11000文字)

 

読みたいことだけを読むための早見チャート(随時更新)

「暴言に暴言を返すのはダメなのか?」→「人格批判とは何なのか」

「批判は大事だと思うけれど、言い方がきつすぎる」→「内容批判の言い方問題」

「内容批判の内容が妥当かどうかの判断は、どう考えればいいか?」→「内容批判の内容の妥当性は、どう判断すればいいか」

「考え方は人それぞれだと思う」→「価値観と意見と主張は違う」

「常識の範囲内のことを書いているのに、なぜ批判されるのかがわからない」→「どんな記事も、誰かにとってはネガコメ」

「批判してくる人が怖い。どういうつもりなのか」→「批判者は永遠に批判者ではない」

「言いことはわかったけれど、批判はされたくない」→「ネガコメへの対策を、目的別に考えてみる」

「結論は?」→「まとめ:なぜネガコメアレルギーが起こるのか、考えてみた」

「長い」→すみません。

 

人格批判と内容批判について

「人格批判」とは何か。

批判するときに行ってはならいと言われる「誹謗中傷、暴言、人格批判」と「内容批判」をどう分けるのか、という話から始めたい。

 

どんな条件であれ「誹謗中傷、暴言、人格批判」というのはしてはいけない。

「どんな条件であれ」というのは、「自分が言われたから言い返した」などでもだ。

「誹謗中傷、暴言、人格批判」をやってはいけないというのは、「自分がやられたら嫌だから他人にやらない」という理由ではない。

これは人が人に対して決してやってはいけないことだ思う。

特に人格批判は、その人間の核、「その人をその人たらしめているもの」を傷つける行為だ。「その人をその人たらしめるもの(と本人が感じているもの)」つまりアイデンティティだ。

人種、民族、性別、出身、経歴、職業、年齢、身体的特徴、性格そういったものが入ってくる。

その人の発言の根拠をその人のアイデンティティに帰して、そのアイデンティティを攻撃したり批判する行為が「人格批判」だ。

例としては

「こんな馬鹿な発言をするなんて、あんた、男(女)だろ」

「あの地区の生まれか。どうりでそんな発言をすると思った」

「どうせ正社員になれない派遣のたわごとだろ」

これらはすべて人格批判である。

 

人格批判は意外と線引きが難しく、無自覚にやってしまうこともある。自分も記事やコメントを書いていて、これは人格批判にあたるのかと悩むケースも多い。

本当に発言相手の人格を疑いたくなるようなときも、実際にはある。

倫理観を疑うような内容については言いたくなるときもあるが、そういう場合は違法性があるケースが多いので黙って通報でいいと思う。

 

たまに暴言に暴言を返す人を見るのだが、それでは「暴言、誹謗中傷、人格批判も条件付きならばやってもいい」と認めることになる。

その条件を「暴言を吐かれたと本人が感じたならば」とすれば、どんな言葉でもその人が「暴言と感じた」と主張すれば、暴言・誹謗中傷を言っていいということになってしまう。

気持ちは分からなくもないが、「自分の中で、やってはいけないこと」は他人の言動は関係ないと思う。

第三者の立場で見ていても、気分がよくない。

このブログではそういった類のものは、スルーか通報するようにしている。

 

内容批判で反応がしようのないもの。

「人格批判が決してしてはいけないもの」という前提に立つならば、「内容批判」は基本的にはどんな内容でもいいとなる。

発言は自由なのだが、以下のものは返事のしようがないので、基本テンプレのような返事になってしまう。

 

①記事の主旨を誤解しており、その誤解を前提に批判を展開している。

②論拠を示さない批判(ただの感想)

③揚げ足とり

④言葉の定義争い

 

①は「そもそもそんなことは言っていない」としか言いようがない。

もう一回くらいは「この記事の主旨はそうではなく、自分はこういうことを書きました」と言い方を変えて伝えてみることもある。自分の伝え方が悪かったのかもしれない、と思うので。分かってもらえることもある。もらえないこともあるし、返事がないこともある。

②は、「あなたはそう思うのですね」としか答えようがない。「論拠を示さない批判は、批判ではなくただの悪口」と思うけれど、「相手がそう感じた」という事実だけを理解すればいいと思う。

③は、相手もこちらと分かり合う意思はないと思うので、基本スルー。

④はリアルならば付き合うけれど、ネットだとタイムラグがあって難しいので基本はやらない。相手が論旨を攪乱したいのではなく、本当に「どうかな?」と思っていると感じるときは自分の意見を返している。

 

ぜんぶに付き合っている人をたまに見るけれど、すごいと思う。自分はそういうエネルギーはないので、一応目は通すけれど、対応はテンプレ的になることが多い。

内容批判は自由だけれど、それに対する反応も自由だと思う。

 

「内容批判の言い方」問題

次に問題になるのが、この辺りだと思う。

「キツイ言い方だな」と思うときが多々あるので、気持ちは分かる。

ただ「言い方」というのは、基本的には個人の自由だと思う。その人の性格があるので、他人が決められるものではない。

発信者側も、「そのノリがおかしい」「そのキャラがおかしい」「そのチャラチャラした文章はなんだ。敬体で書け」と言われても困ると思う。コメントの言い方も、それと同じだ。

性格には合う合わないがあるから、合わないと思ったら関わらないのが一番だ。

「そんな言い方じゃ、伝わるものも伝わらないよ」という意見もあれば、「言い方で、意見の正当性や妥当性を判断するんだ」という意見もある。

この辺りはお互い、自分の立場での一方的な主張合戦にすぎない。分かり合いたければ話し合えばいいし、別に赤の他人だからいいかと思えば「へえ」で済ませればいいと思う。

 

内容批判の内容の妥当性は、どう判断すればいいか。

「その批判が妥当なものなのかどうか」というのは、自分の感覚で判断するしかないが、多少別の見方ができるかもしれない、と思える方法について話したい。

「この人は、なぜこんなことを言うんだろう」「なぜ、こんな言い方をするのだろう」と思ったときは、その人の他のコメントを確認してみる。

 

その結果が「何もかもに否定的な意見を述べる人ではない。きちんと考えて、自分がいいと思えば肯定的な発言もする人だ」「他の記事に対する批判に、妥当性がある」と思うのならば、やはりその人の意見は客観的なものとして受けとめたほうがいいのではないか、と感じる。

自分がもらった意見がどう読んでも不当に思え、誰も彼も批判していたり、誰に対しても不当な意見ばかり言う人ならば(たまにいる)、スルーで良いのではないかと思う。

 

その人の側に思考の傾向、以前の記事に書いた「認知の歪み」が、ある特定のジャンルに表れやすい場合もある。

他のジャンルならば比較的、冷静に意見を述べていても、特定のジャンルがその人の地雷である場合がある。そういうこともコメントを眺めていると何となく分かる。

「その人がどういう人で、なぜ、こういう発言をするのか」ということを推測するために、コメントの傾向は非常に参考になる。

 

この方法は、他にも「やってみるといいよ」という人がいたので、意外と多くの人がやっているのかもしれない。やったことがない人は、迷ったときの判断材料のひとつとしてやってみてもいいかもしれない。

 

「価値観」と「意見」と「主張」は違う。

「価値観は人それぞれ」「人の価値観を否定するのか」という意見をみる。

「価値観」と「意見」を混同すると大変なことになる。

厳密な言葉の定義はあやふやなので難しい部分もあるが、自分の考えを説明したい。

 

「価値観」というのは、対象に対して「何に価値があり、何に価値がないと判断するか」という、その人特有の物の捉え方の基準だ。

「何に対して価値を感じるか」ということなので、その人の主観であり感覚である。好き嫌いと言いかえてもいい。

 

感覚や主観(感情)は否定することはできない。その人が「高学歴の人に魅力を感じる(好き)」というのならば、自分がその価値観に共感するかどうかはともかく「その人がそう感じている」ということは否定できない。

 

これに対して「高学歴の人は高収入だから、魅力を感じる」と言った場合は、根拠と結論の因果を示した意見になる。反論が出たときに「高学歴の人=必ず高収入である」「低学歴の人=必ず収入が低い」という論を、発言者が証明する必要がある。

この因果関係を証明できなければ、「その因果は成り立ちませんよ」という主旨で批判される。(「高学歴でも収入が低い人はいる」など。)ここから様々な批判に拡大していくことが多い。

 

論拠を示した意見は、「自分はこう感じる」という価値観ではなく、他人に対して「こういう理由だがら、こうです」と示された主張になる。

主張というのは「他人に自説を認めてもらうために強く言い張ること」だが、上下関係でもない限り他人に自説を認めてもらうためには、主観や感覚以外に、第三者と共有できる根拠が必要になる。

「その根拠から、そうは解釈できません」「その因果は成り立ちません」と否定や批判がくることはありうる。

 

「価値観は人それぞれだから」という人の中には、この辺りを混同している人がいると感じる。

たいていの場合、価値観だけではなく「なぜ、そう考えるのか」と根拠まで話されていることが多い。それは価値観ではなく主張なので、価値観を否定しているのではなく、批判者は「論拠と結論の因果の解釈」を否定していることが多い。

 

(例)

「就職すると自由がなくなるからイヤだ」

この場合は「自由」という言葉で、人によって想起するイメージが違うことが論点になりやすい。

「自由=身体的拘束のない時間」「自由=金銭的余裕」「自由=人付き合いをしなくていい」「自由=心理的抑圧がない」「自由=自分の好きなことができる」「自由=法などにも縛られない」

 

となると「就職しているけど自由だよ」「フリーランスは、自分で仕事をとらなきゃいけない。むしろ大変」「専業主婦だけど、家事と育児に忙しくて自由なんてない」「就職して稼がなきゃ、むしろ不自由じゃないか?」「在宅勤務の会社を選んだら」「そもそも社会で生きている限り、人間は不自由だよ」

などの反論がとんでくる。

(就職する=自由がなくなる、就職しない=自由である、という論拠と結論の因果の解釈を否定している。もしくは疑問を呈している)

これらの言葉に対して、主張を続けるためには、自分の説の妥当性を証明しなければならない。

もしくは「自分の定義する自由はこういうものです」と前提を変えてもいいが、その場合、「最初からそう言って」という批判がくる可能性はある。

 

「就職したくない」

これが価値観。これに対して「就職しないのはダメだ」というのが、価値観の否定。

 

自分は価値観も頭ごなしに全否定するのは良くないけれど、「こういう考え方もできる」というのはいいと思っている。価値観がぶつかった場合は、話し合うしかないだろうと思うし。

なので「価値観は人それぞれ」という言葉は、前提としてはもちろんそうだと思うけれど、結論としてそれを言われると「?」と思うことが多い。

 

ネガコメをもらったときの考え方

批判者は永遠に批判者ではない。

キツい言い方のネガコメがくれば、とても落ち込むと思う。

だが、否定意見や批判というものの大半は「意見を否定している」だけであって、筆者を攻撃しているわけではない。

よほどの有名人でない限り、コメントをしている人は筆者本人には興味がない。そもそも知らないし、恐らく特に知る気持ちもない。目についた意見に対して、意見を表明しているに過ぎない。

自分も知らない人の記事にブコメを書くときは、こういう気持ちで書いている。

だから同じ人の記事でも、ある時はネガコメを書くし、ある時はポジコメ(肯定意見)を書く。(書いたあとにあの時のあの記事を書いた人か、と気づくこともある。)

筆者本人への感情や興味はほぼない読んだ記事に対して、自分がどう思うかが全てだ。

こういう心理を考えると、コメント欄で「この人」ではなく名前で呼ばれている人はすごいと思う。名前を覚えてもらわないことには、リピートされようがない。

 

「批判者の友達はみな批判者」なわけではない。

例えば批判者がTwitterやブコメなどで、ネガコメつきで拡散したとする。

興味を惹かれて記事を読んだ場合、ネガコメは余り心に残っていない。その記事内容をどう思うかは、自分で判断する人が多いと思う。

何百というネガコメならば影響を受けると思うが、たったひとつのコメントにそれほど影響を及ぼされるとは思えない。(これはポジコメでも同じ。)

ひとつのコメントの効果としては、「誰かの興味を惹く」これだけだと思う。

そのネガコメが「この記事面白い」「読んでよかった」と思う人に届くための拡散装置になりうるかもしれない。

そのネガコメを書いた人が、次の記事はいいと言ってくれるかもしれない。

一回のネガコメで相手を遮断するのは、ちょっともったいないと感じる。どうしてもイヤであれば、仕方ないけれど。

 

「スルーする」と決めたら、徹底的にスルーする。

刺激がないことというのは、強いエネルギーがなければ続けられないので、スルーというのは相手の行動をやめさせる最も効果的な方法だと思う。

しかし、このスルーというのは本当に難しい。人間にとって難しいことのひとつだと思う。

自分が刺激を受けた事象に対して、意思や感情という反応を押さえつけるのは難しい。

 

自分が「嫌なら見るな」という言葉が嫌いなのは、「スルーというのは本当に難しい」と思うからだ。そもそも「嫌なら見るな」と返した「嫌だった」という意見を「嫌なら見るな」じゃないか、と思う。

「嫌なら見るな」は事前に言わないとフェアじゃない。後述するが、タイトルにつけるのも一手じゃないかと思う。

 

「スルーする」と決めたら、そのことについては反応せずに忘れる。そう決めたほうがいい。

まったく何の反応(刺激)がなければ、相当強いエネルギーがなければ、行動というのは続かない。

 

粘着批判をしてくる三つの理由

中にはスルーしても、どんな記事を書いても、粘着して批判してくる人もいる。そういう人に悩まされている人もいると思う。

そういう人にはその批判を継続させる、何か強いエネルギー源がある。それは何なのか。

粘着批判をする理由は何なのか。見知らぬ相手の場合は、理由は三つ考えられる。

①その人の自尊心を知らずに傷つけた。

②記事内容が、その人の地雷を踏み続けている。

③筆者の存在が、その人の地雷を踏み続けている。

 

いずれも怒りがエネルギー源なのだが、スルーしても批判を続けられるのは過去に積みあがった怒りがエネルギー源だからだ。

法律違反規約違反などしていない限りは、粘着する側の問題である場合が多い。

①②の場合は、個人的に話し合ってお互いのことが分かると解消される場合もあると思う。その人の他の発言内容を加味して、それほどおかしな人ではなさそうだと思った場合は、話しかけてもいいかもしれない。直接話せば、案外、いい人だったということもある。(スルーでもいいと思うけど)

③は危険だと思う。記事の内容ではなく、自分という存在に執着されるのはとても怖い。理屈も通じないと思うので、無反応に徹したほうがいい。

暴言などを言われたら、むしろ通報の名分を得たくらいに思ったほうがいいと思う。

 

どんな記事でも、誰かにとってはネガコメ

ネットでモノを書くにあたって一番問題になるのは、自分が書いたものを読む人を想定できないということだと思う。

「想定できないと言っても、書いているのは常識の範囲内のことで、何かを悪く言ったりしていません」と思っている人が多いと思う。

なので、自分自身の経験をお話しする。

 

以前書いた本の紹介の記事で、その本の内容に関連するトラウマがあると言うかたから「読んだような気持ちになれる記事だった」という感想をいただいたことがあった。

返信に、締めの挨拶のような気軽な気持ちで、「紹介した本も、よかったら読んでみてください」と書いた。

その返信で「トラウマがあって、こういう関係の本は読めないんです」という言葉をいただいたときに、自分がいかに自分の常識でしか物を見ていなかったか、ということに気づき、非常に反省した。

謝罪したが、このかたがどういう気持ちを抱いたかは分からない。

同じトラウマを持つ人の中には、記事を読むことさえ苦しい人や過去を思い出して吐き気を覚える人、なぜこんな記事を公開したんだと怒りを感じる人が、もしかしたらいるかもしれない。

 

Twitterでも先日、「〇〇は一人っ子っぽいよね」という会話が出ると、弟が自殺している友人の気持ちが心配になるというツイートが流れてきた。

自分がいいと思った本の感想や、「〇〇は一人っ子っぽい」という言葉すら、誰かを傷つけてしまうことは、可能性としてありうる。

「いろいろな人がいる」という言葉を、自分も本当の意味ではよく分かっていなかった。

 

ネットというものは何かを発言した瞬間、誰かしらに対して加害者の立ち位置に立つと思う。「色々な人の背景」を想像することはできないのに、自分の言葉の受け取り手を不特定多数の人間にすることで、言葉の受け取り手のことを想像することを放棄して自分の意見を発信していることは、本来、とても利己的なことだと思う。

過去記事で 「ネットで自分が吐いている言葉は、すべて呪詛だ」と言ったのはそういうことだ。

受け入れて共感してくれる人がいたら、それはとてもありがたいことだし、本来は受け入れてもらえなくて当然なのではないか、と思う。

 

記事を読むも読まないも相手の責任(イヤなら読むな)。

受け取り手がどんな立場の人間か、想定せずに自分の思いを勝手に発信。(読むのは読み手の勝手。読み手がどんな背景を持つ、どんな奴かは知りようがないから知らん)

 

なので、こういう言葉を聞くととても残念に思う。

ネットで言葉を言うというのは、自分の目には見えない地雷だらけの野原に突っ込んでいく行為だ。

除去(反論)したり、避け(スルー)たりするのは自由だと思うが、「何で爆発したの? 理不尽だ。自分はただ普通に歩いていただけだ」という考えは、やはり身勝手ではないかと思う。

 

ネガコメへの対応策を、目的別に考えてみる

とはいえ、自分がどこにも吐き出せないギリギリに煮詰まった思いを吐き出した瞬間に、いきなり批判されるということが耐えがたいものであることは分かる。

「そんなものはネットで全世界に発信するな」ということは自分も理屈としてはそう思う。ただ、そんなことまで頭が回らないほど吐き出したい思いでいっぱいの人もいると思う。

 

なので、「ネガコメ・批判をどうすればいいか」ということを、目的別に考えたい。

内容への妥当な批判は受けとめるにせよ、それ以外のネガコメへの対応策を考えてみる。

 

SNSシェアボタンを外す。

はてなであればブクマをはずすだけで相当、ネガコメをもらう確率は下がる。まあ、わかっているとは思うけれど。

「ネガコメは欲しくないけれど、ブクマは外したくない」

これが本音だと思う。我がままかもしれないが、他の方法も模索したい。

 

ちなみに「ネガコメがくるくらいならば、PVはほどほどでいい」「自分と気の合う人とつながれればいい」という人は、ブクマを外すのがいいと思う。

検索流入や他のSNSならば、よほど大規模な炎上でない限り、ネガコメも批判もこないと思う。

 

仮想キャラを設定する

逆に自分自身が「批判や否定に傷つかないようになる」という方法もいい。

メンタルを鍛えろ、という意味ではなく「本来の自分ではない、仮想キャラを設定する」という方法だ。本来の自分はないので、深刻なダメージを受けづらくなる。

はてなでもやっている人が多い。(推測)

個人的には「完全な仮想キャラで面白いブログを作る」というのは、相当難しいと思うが(もはや小説のような気もする…)、やってみてもいいかもしれない。

 

タイトルにタグづけしておく

あらかじめ「この記事はこういうものですから」ということが、タイトルで分かるようにしておく。タイトルタグというと【閲覧注意】とか【下ネタ注意】などが思い浮かぶが、これに倣って【毒舌注意】【ネタ】【内輪話】とかつけておく。言い方は悪いが「ちゃんと言いましたよね?」という言い訳をしておく。

そのタグにも何やかや言う人は、いてもごく少数だと思う。

自分のブログの雰囲気が一番大事で、合わない人は読まないでいい、という人にはこれをすすめたい。

 

読者を選ぶ

「読者を選ぶ」というとやや傲慢に感じるが、商売でいうと「一見さんお断りの雰囲気を出す」「特定の層に好まれる雰囲気を出す」などの店のコンセプト作りに当たる。

どういう人間がどの層に向けて書いているかということを、ブログ名などで明らかにしておく。

この方法に関してすごくいいと思ったのが「シングルマザーの子育て日記「小さな世界」」というブログ名だ。ブログ名を見るだけで、内容が「子育てを中心とした日常のことなのだな」と、読む側もすぐに察しがつく。

興味がない(共感してくれなさそうな層)はここで離れるだろうし、興味がある層には、ブログ名だけで強烈なアピールになる。ブログ名を見て「読んでみよう」と思う人は、記事内容に関心を持つ可能性が高い層に限定される。

だから記事も最後まで目を通してくれる可能性が高いし、他の記事も読んでくれる可能性が高い。そしてファンになってくれる可能性も高い。

そういう層の人でも否定的な意見を持つ可能性もあるが、自分と同じ層であり同じ苦労を抱えている人は、共感をしてくれる可能性のほうが圧倒的に高いと思う。

そうは言っても「小さな世界」は、子供はいないし、他の子育てブログにはさほど興味がわかない自分が読んでもとても面白い。

こんな長い記事にリンクを貼るとご迷惑なので貼らないが、探せばすぐに見つけられると思うので、興味がわいた方はぜひ読んでみて欲しい。

 

「自分と似た状況の人とつながりたい」「ネガコメをもらうくらいなら、特定の層だけに読んでもらえればいい」という人には、この方法がいいかもしれない。

 

ネガコメがくる箇所を想定しておく。

ネガコメや批判が多くくると、ありとあらゆる角度から色々な種類のコメントがくることが一番大変なことだと思う。

なので、「ここはもう、何かしら言われると割り切ろう」と考える。

ニコニコ動画で人気のゲーム実況者ふぅは「モンスターハンター」の動画が荒れたとき、批判を自分に集中させる(コメント主同士で争わせない)ために「ゲオる(ゲオに売り飛ばす)」という言葉を動画内で連発したら、以後、何かあると「ゲオれよ」というコメントばかりになったと言う。

はてなでも明らかな誤字に指摘が集中して、記事がバズっている例を見かけたことがある。

ここまで極端ではなくても、何の記事にも「ここには突っ込みがきそう」という箇所を想定しておいて、そこはもう何を言われても仕方がないと割り切っておく。

「PVを稼ぐことが一番」という人は、これがいいかもしれない。

 

「記事をたくさんの人に読んで欲しいが、ネガコメは欲しくない」というのは「水に入りたくないけれど泳ぎたい」というのに似ている。

読んで欲しければ割り切るしかないと思うのだが、どこをどういう風に割り切るか、というのは色々な考え方があると思うので、いくつか思いつく方法を書いてみた。

 

まとめ:なぜネガコメアレルギーが起こるのか、考えてみた。

批判したりされたり、議論をする文化がないところにネットが出てきた。

「自分から意見を発信しておいて、否定されたり、批判されると、「何で批判するんだ?」という反応をするのは、何故なんだろう」とそちらのほうが不思議だった。

気づいたのは、意見や批判の内容に怒ったりへこんだりする以前に「他人の意見に対して、否定意見を述べるという行為自体にびっくりしている」人が多いのではないか、ということだ。

 

人が言った意見に対して、「自分は意見が違う」「その意見はここが違う」とはっきり言うことは悪いことではないが、日本の社会では余り歓迎されない空気がある。

様々な人種、宗教、民族が集まっている国では利害が対立しやすいので「自分はどの立場のどんな人間か。どんな考えを持っているのか」ということをはっきりさせて、意見や権利を主張しなければならない。日本は和を尊しとする空気がある。(それはそれでいい面もあるけど。)

批判の言い方にせよ受け取り方にせよ意見の主張の仕方にせよ議論の仕方にせよ、文化がないのだと思う。

そこにネットが出てきて、「ネットの匿名文化の生活が長い人(こんなのネットじゃ当たり前)」VS「ネットの匿名文化の生活に余り興味がなかった人(リアルでもそんなことを言えるのか?)」の要素も絡んでいるのが、現状だと思う。

 

他人の「意見」を否定したり、批判することは悪いことではない。でも…。

「意見を否定することは、人格を否定することではないし、相手の好き嫌いも関係ない。ただの意見の交換だ」

本来はこういうものだと思う。

そういう土壌がないところに、ネットが出てきて、まったく見も知らない信頼関係もない他人から批判される。

相手の言葉をどうとらえるかは、相手との関係性に大きく左右される部分がある。信頼関係がなければ、意見を否定されているだけでも自分を攻撃されているように感じてしまう。

対話と討論でも目的が違うが、この辺りもネットでは合意のとりようがない。そのうえ内容批判だけではなく、本当に自分を攻撃する暴言や誹謗中傷も混じってとんできたり、内容批判と人格批判の違いも明確ではないと、アレルギーも起こると思う。

「そういう赤の他人に対して、意見を言うことを選んだのは自分だろう?」という意見が尤もだとしてもだ。

 

批判者側の「自分から意見を言っておいて、妥当な批判も受けいれないのはおかしい」という意見と、受け取り手の「ネガコメは怖いし、おかしいし、下らない」という意見の噛み合わなさ(と見える)はこの辺りが原因だと思う。

 

はてなにもうんざりするような誹謗中傷や暴言はあるけれど、それでもネットの匿名の場所にしてはいいほうだと思う。最近だと「傑作とは何なのか」という問題に対して、あそこまで色々な人の意見が見れる場所はなかなかない。

「はてなの雰囲気が、匿名のネットコミュニティでは今のところ最適解なんじゃないか」と思う。

 

個人的にはネガコメ以上にその反論として聞いた「リアルで言えないことをネットで言うな」という言葉に、震えおののいている。

 

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