うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「ネガコメ」の思考停止ワード化がこわいので、自分の考えを話したい。

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「ネガコメ」の言葉の定義ははっきりしていない。

「ネガコメ」への批判をよく目にする。

「ネガコメこわい」「ネガコメ最低」「ネガコメ、慣れれば笑える」

 

色々な人の発言の中身から推測すると、人によっても定義が違う。

怖いのは、ネガコメ=ネガティブコメントに明確な定義がないのに、あたかも全員が同じ定義を持っている言葉かのように使われていることだ。

「ネガコメ」という言葉だけがパワーワードとして独り歩きしている。

言葉の定義がはっきりしていないのだから、本来は批判しようがないはずだ。それなのに、定義が曖昧な状態で話が成立してしまっている。

それは「ネガコメ」について語るとき、定義が定着していないにも関わらず「使っている人によって定義が違うかもしれない」ということを考えられて使われていないからだと思う。

 

ネガコメの定義ついて少し考えてみたい。 

「ネガティブ」という単語が「否定的、消極的」という意味なので、否定的な意見や批判はもちろん、「賛同に消極的なコメント」(例:「そうかもしれないけれど、ケースバイケースなので一概には言えない」のようなコメント)も含まれると考えている。

ネガティブフィードバックやネガティブキャンペーンなどの言葉から考えて、「相手にマイナスの感情を与えると想定しうる」「相手にマイナスの評価を与える」と考えてもいいが、これだと人によって「何をマイナスととらえるかは違う」という話になる。「どんな相手にもマイナスの感情を与えると想定されない」と定義すると、肯定する以外になくなる。

つまり「条件なしの全面的な肯定意見」以外はすべてネガコメではないかと考えている。

この言葉の定義で「ネガコメこわい」「ネガコメする奴はおかしい」「ネガコメむしろ笑える」という意見の「ネガコメ」の部分を「自分が一方的に発信した意見に、全面的に肯定しない奴」に入れ替えると、とてつもなく怖いことになる。

 

「自分の意見を全面的に肯定しない奴は、こわい、おかしい、笑える」

 

その発想のほうが怖いし、おかしいし、まったく笑えない…。

と思うのは自分だけか…。どこかの国の独裁者と何ら変わりがない発想になってしまう。起立のタイミングが気に喰わないだけで粛清される、みたいな。

 

ネガコメ批判をしている人は、こういう意味で使っているのではないと思う。

ただその定義がすりあわされていないので、恐らく内実はこういうことになっている。

 

 定義がはっきりしない言葉は、本来、議論や会話では使えない。

Aさん「ネガコメ(人格否定)は最低ですよね」

Bさん「最低ですよね。自分も以前、むかつくネガコメ(暴言)を書かれました」

Cさん「AさんとBさんもですか。自分もすごいネガコメ(キツい言い方の内容批判)をもらって、本当に怖かったです…」

Aさん「ネガコメ(人格批判)する奴なんて、どこにも相手にされないカワイソウな奴なんだから、放っておけばいいと思います。慣れると笑えますよ」

Cさん「Aさんは、すごい。自分もネガコメ(キツイ言い方の内容批判)を笑って無視できるようになりたいです」

 

Dさん「この前、ネガコメ(否定意見)をもらっちゃいました…」

Cさん「大変でしたね。自分もネガコメ(キツイ言い方の内容批判)をもらいました。でも、ネガコメなんて笑いとばせってAさんが言っていましたよ」

Dさん「Aさんがそう言っていたんですか」

Cさん「ネガコメ(キツい言い方の内容批判)をする奴は、カワイソウな奴だからって。そうなんだあと思いました。Dさんもそう思うといいと思います」

Dさん「そうなんだ。ネガコメ(否定意見)なんて、カワイソウな奴のすることなんだ。自分も笑いとばしますね」

 

Dさん「ネガコメ(否定意見)は、無視して笑い飛ばせってみんな言っています。AさんもBさんも、CさんもDさんも、ネガコメ(否定意見)はカワイソウな人のやることだって言っています」

自分「ネガコメ(自分の記事を全面的に肯定しない意見)はすべて無視してわらいとばせ????? 言う人はカワイソウな人??? えええ???」(←いま、ここ)

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Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、自分では、言葉の定義も想定しているコメントの内容も違う。

それなのに「他の人が言っているネガコメとは、一体どんな内容のものを指しているのか」ということを考えずに、自分の想定しているものをみんなが想定していると考えて「ネガコメ」という単語に「それぞれが不愉快だったコメント」をすべて押し込めて批判している。

 

もしかしたらCさんが受けたネガコメ(キツい言い方の内容批判)は、他の人にとっては「言い方はキツいけれど、意見自体は自分も似ている。」と思うものかもしれない。そのとき落ち込んでいたCさんには強すぎる言い方だったかもしれないが、Aさんにとっては「うーん? これくらいは自分も言うかな」と思うものかもしれない。

Dさんが受けたネガコメ(否定意見)は、他の人にとっては「ごめん…。自分も同じ意見だ」と思うものかもしれない。

 

という可能性もあるのに、その内容を聞かずに、ネガコメという単語であたかも共通認識を持ったような感覚になってしまい、「内容を聞けば、自分も妥当かもしれない」と思う意見まで「ネガコメ」という単語で封じ込めようとしている。

 

「自分が想定しているものが、相手の想定しているものと同じものだという認識を持つ」(A=Aである)

これは論理学で同一律と呼ばれている。議論や話し合いをする上で欠かせない前提だ。

想定しているものが同じでなければ、話し合いようがないからだ。

 

もうかなり歴史があり共通認識が広まっている言葉ならば、日常的に話すのに問題はないと思うけれど、「ネガコメ」は非常に定義が曖昧な言葉だ。

 

「ネガコメ」という言葉の定義や相手が想定している内容などを考えず、「それぞれが嫌だと思ったコメント=ネガコメ」となり、「それぞれがイヤだと思ったコメントのすべてが怖いもの、最低なもの、だから無視」と言っていることがとても怖い。

多様な価値観を持つ不特定多数の人に発信する、意見を言う、ということを選んでおいて「すべて自分に賛同しろ、否定的な意見を言うな」というのはとても恐ろしいことだ。

「自分の価値観を認めて欲しい、だが自分以外の価値観を認めない」と言っているに等しい。

 

言葉の定義がまちまちな以上、深く考えればこういう話になってしまうと思うのだが、「ネガコメ」という単語であたかも「何かを語っている」かのような気持ちになってしまい、そこで思考が停止してしまっている。

このままだと「ネガコメ=悪」という定義になってしまいそうで、それが恐ろしい。

何故なら、人がそれぞれ考え方が違うなんてことは当たり前だからだ。

大勢の人が集まるネットで、自分の意見を批判したり否定的な意見の人がいるなんて当たり前のことだと思う。

 

多様な価値観がなければ、人は簡単に狂う

自分も否定的な意見をもらえば面白くはない。キツい言い方をされれば、こいつクソみたいな言い方しやがってと思っている。

でもひとつひとつの意見には頭にくることはあっても、その状態自体は健全なことだし、絶対に必要なことだと思っている。批判のない世界よりはよほどマシだと思う。

 

肯定意見ばかりで自他の価値観の差がない世界、こういう世界ほど人が狂いやすい世界はない。

人間なんて簡単に狂う。倫理観なんて簡単に吹き飛ぶ。

平和な世界では「人を殺してはいけない」といい、戦争が起これば「一人でも多くの敵を殺せ」と叫び、周りが「殺せ」と言えば、子供までガス室に閉じ込めスイッチを押す。

それが人間だと思う。残念だけど。

価値観や思考の正しさというものは、相対化することによってしか保てない。「正しさ」自体が相対的なものだからだ。

他人という別の価値観を持った存在と比較して点検してもらわなければ、たやすく狂うし、集団で同じ価値観を持てば集団ごと狂う。

 

どんな記事でも、誰かにとってはネガコメでありクソリプ。

ネットで意見を言えば、誰かにとってはその記事がネガコメでありクソリプだと思っている。色々な人がいるから、必ずそういう人がいる。

自分が相手のネガコメに頭にくるように、自分のネガコメ(記事)にその人も頭にきたのだろう。

 

恐らくネガコメに批判的な人は、こういうことを頭では分かっていても、心のどこかで「自分はそんなおかしなことを書いていないのに」という気持ちがあるのだと思う。

でもおかしいんだと思う、誰かにとっては。

おかしいどころか、クソみたいなネガコメのような記事なんだと思う、誰かにとっては。

それくらいに思ったほうがいい。ネットで何かを発信するというのは、そういうことだと思う。誰かにとってのネガコメ、クソリプを、何の予告もなしに相手の眼前に突きつけているのだ。

でも、面白かったです、役に立ちました、良かったですと言ってくれる人もいる。それで十分じゃないか、と思う。

 

「批判する行為、否定意見を言うこと」を否定することは危険。

別にどんな批判でも受け入れろ、どんな意見でも意見はありがたいものだ、と言っているわけではない。

「相手を批判する、否定意見を言う」という行為自体をネガコメという言葉に封じ込め、「ネガコメ=悪。だから攻撃してOK」となりつつあることが怖いのだ

中身も見ないで「悪というレッテルを貼ったネガコメという言葉」に何もかもを放り込んで、その悪を攻撃しているという態をとるのは、とても恐ろしいことだ。

 

批判にはその内容に応じて、反応すればいいと思う。

反論してもいいし、スルーしてもいいし、非表示にしてもいい。ひとつひとつの内容を見て、自分にとって最適な対応をすればいい。

 

 次回は「ネガコメの中身」について書きたい。

自分も批判されたこともあるし、否定的な意見をもらったこともある。

頭にくるのも分かるし、納得がいかないのも分かる。「そういう意味で言ったんじゃない」と思う気持ちもわかる。揚げ足とりや重箱の隅をつつくような批判がきて、うんざりする気持ちもわかる。

炎上を経験したことがある人は、一対多になって色々な角度から色々なことを言われて、暴言なども浴びせられて傷つき、卑怯だと思う気持ちもわかる。自分も暴言や誹謗中傷、ましてや脅迫や殺害予告などは絶対に許せない。

批判する側にも色々な人がいるし色々な問題がある、と自分も感じている。

 

次回はそういった批判の中身の問題も含めて「ネガコメの中身について」考えたい。

①「暴言、誹謗中傷、人格批判」と「内容批判」の違いは?

②内容批判の言い方問題。

③ ブコメについてあれやこれ。

④内容批判の妥当性について、どう考えればいいのか。

⑤ネガコメアレルギーについて考える

⑥どんな記事でも誰かにとっては、ネガコメ・クソリプになりうるとはどういうことか。

⑦「それでもやっぱり批判はイヤ」な人のために「ブログ目的別」対策を考えてみる。

 

約11,000文字の大ボリュームで、ネガコメ徹底分析してみました。

www.saiusaruzzz.com

 

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もう何回同じことを言うんだ、と思われる向きもあるかもしれないが、自分は非常に重要なことだと思うので、この問題は恐らく目に触れるたびに書く。

「自分と違う価値観を持つ、他人という存在を認めない」という発想は、自分にとってこの世の何よりも恐ろしい。

「批判意見、否定意見=ネガコメ」を中身を精査しないで攻撃するということは、そういう発想につながる行為だと思う。

批判する/批判されるジャーナリズム

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