先日、仕事関連の勉強会があった。(ブログやネットとは何の関係もない。)
そのときにある事例に関連して、自分なりの質問や意見を述べたら、適当に流されて、その日はけっこう落ち込んだ。
「的外れな考えだったのだろう」と自分に言い聞かせたが、色々な知識レベルや考え方の人間が集まって学ぶ場なのに「考え方が未熟だから」「知識がレベルに達していないから」という理由で、そういう対応をされたことにモヤモヤが晴れなかった。
そんなときに、購読している「頭の上にミカンをのせる」(今は期間限定で別のタイトル)のこの記事を読んでハッとした。
「自分が無知だと思っている相手」に対して、多少なりともわかりやすいようにと工夫して自分がわかってることをかみ砕いて説明しようとする作業は心が疲れるものなのです。相手に私の話から学ぶつもりがあるならともかく、そうでない人間とか、まして抵抗してくる相手に語り掛けるのは心が疲れるというか荒む。
この文章が胸に刺さって、「ああ、そういうことだったのか」と納得がいった。
その日の事例は、今までの中でけっこう難易度が高いもので、理解するのが大変だったし、よくわからないところもあった。
自分が意見や質問を述べるまでにもかなりたくさん質問が出ていて、解説の講師が「色々な考え方があるだろうが、とりあえずこの部分が重要」とか「この情報に注目して欲しい」とか「こう考えがちだが、こういう角度で見直すことが大切」と、色々な層の人たちのために物の見方や考え方を教えてくれたり、さりげなく議論のポイントを組み立てたりしていた。
しかし自分は「自分の考え」や「自分の疑問」で頭がいっぱいになっており、そういった「相手の思考や話の道筋」をすっ飛ばして、考えを述べてしまった。
たぶん、そのことにうんざりしたのだろう。
「反対意見を述べるな」「批判をするな」「話の流れに逆らったことを言うな」ということではない。
自分が意見を言いたい相手、対話をしようとしている相手が考えていること、相手の話していることをまずは理解しようと試みようという、当たり前のことだ。
それを理解したうえで、相手の意見や話を前提にして、その反応として反対意見や批判を述べるのはもちろん構わない。
相手が積み上げた前提や「こちらは話の方向性をこう設定して、そのうえでこう考えている」「この話では、ここにポイントをおいている」ということをぜんぶ無視しているものは、「批判」や「意見」とは呼べない。ただの揶揄、くさしているだけと取られても仕方がない。そしてそう取られたものは、誰もまともに取り上げる気になどならない。
自分も、そういう人にうんざりしたことはある。誰だって、そういう人の言葉に価値は見いだせず、関わりたくないのだ。
この日の事例は自分にとってはかなりレベルでが高く、一週間くらいじっくり読みこんで下調べをして、ようやく何かしら自分なりの意見を組み立てられ、それをこの事例を出した人の意見と比較したり、もう少し知識のある人の意見を情報として取り入れられたりできるものだった。
その資料をその日に渡されたので、短い時間で考えなければ、という焦りがあって、周りの情報をインプットしきれなかったのだろうと思う。
それも「短い時間で考えなければいけない」という前提で解説の講師は内容を組み立てていたので、言い訳にすぎないが…。
穏便に済ませようと思ってか、「そういう考え方も大切ですね」(←おなじみの言い方)とかなり適当な言い方だったが、コメントしてくれた。
「ハンロンの剃刀」で処理したのだと思う。
あからさまに話を聞いていない(耳から聞こえていない、という意味ではなく、頭や心で咀嚼していない)人間の言うことなど、適当にあしわれて当たり前だ。
と……考えていたのに、自分がそれを人にやってしまった。
どころか「自分なりに考えたのに」「勉強会とか言って、結局は自分たちが認めた層しかおよびじゃないのか」とふて腐れた気持ちになっていた。
いま思うとかなり恥ずかしいが、よしきさんの記事を読まなければずっとそのままだったかもしれない。
そういうことに気づかせてもらって、とても感謝している。
上述したように「人と向き合おう」という「誠実さ」のないものは、人から「適当だな」と思われるし、「相手も適当なのだから適当に扱っていい」と思われても仕方がないと自分は思っている。
だから今回、自分がそう扱われたのも自業自得だ。
ネットは意見が割れるような物事について、過激であれば適当で乱暴な意見もそれなりに力を持つので「誠実さ」を維持するのはすごく難しい。
そういう中でよしきさんのブログは、何かについて意見を述べるとき、丁寧に調べたり、自分とは違う意見にも向き合ったり、自分が間違えたと思ったことは訂正する誠実さで自分を戒め続けていて尊敬している。
「誠実だから間違えてもいいわけではない」
「誠実さ」というのは、自分がまずそう自分を戒める。
そういう人は自分と同じ意見か違う意見か、というのは余り関係がない。
その意見自体が信頼できるので、「この人はこの問題についてどう考えているのかな?」と読みにいきたくなる。
ただセンシティヴな話題は向き合い続けるのも大変だと思うので、更新を楽しみにしている読者としては「続けるのが嫌にならないように、無理はしないで欲しい」と思っています。