うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

他人の言葉を真に受ける必要はない。

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Twitterを眺めていると、色々なツイートが流れてくる。

その中で先日、こんなツイートが流れてきた。

 

「頑張っても結果を出さなければがんばらない奴って言われ、それでオレが自殺したら何も死ななくても逃げればよかったのにって言うんだろ!!」(うろ覚え)

 

というイラスト付きのツイート。

前にもどこかで見たことがあるので、たぶん有名なものなんだろう。

これを見たとき思ったことは、

 

何で、他人の言うことをそんなに真に受けるんだろう??

 

ということだ。

 客観的な事実(技術とか情報とか)ならともかく、「頑張ったか頑張らないか」なんて主観の問題だ。言った相手が二十四時間365日、自分のことを真剣に見ていたわけでもない。

そんな人に言われた「お前、頑張っていない」という言葉を、受けとめる必要があるのか??

 

確かに自分が「頑張った分野」である程度、結果を出している人の言葉なら参考になるかもしれない。

ただそれも具体的なアドバイスを伴っていないのなら、「オレは頑張ったから結果を出せたんだ。成功したんだ。それに比べて、お前は頑張ってない」なんていう言葉だけを聞く必要はないと思う。本当に頑張っている人は、他人に「自分は頑張っている」なんて言う暇もないと思うし。

 

人は他人のことには興味がない。

オリンピックのように四年に一度くらい大喧嘩になり、母親は涙目になり、他人だったらとっくのとうに絶縁しているし、絶対に友達にはなれん、という仲の父親だけど、それでも、子供のころから三百回は聞かされているこの人の人生訓みたいなものは、自分の考え方に大きな影響を与えている。

 

その人生訓のひとつに

「本当の意味で、他人に興味がある人間なんて一人もいない」

というものがある。

まあその通りだなと思う。

 

人はたいてい他人の話を聞くときに、自分の知識や経験……「自分という存在」のフィルターを通して人の話を聞く。

その人の話を聞いて、その人の話について語っているつもりが、自分の話をしているなんていうことはしょっちゅうだ。

 

人の話を聞くときに、その人の立場や状況、生い立ち、環境などからその人はどういう人でどういう考え方をしていて、だからこういう風に考えるんだということまで想像して、「その人の話をありのままに」受け取れる人なんて、たぶんいない。

そしてそういうことを想像したうえで、自分の吐いた言葉がその人の考えや心や行動にどんな影響を与えるかまでを考えて、言葉を発する人などこの世にはいない。

そんなことをしていたら、最終的には何もしゃべれなくなる。

 

みんな「自分」というフィルターを通して、「自分がいい。自分が正しい」と思った言葉を語り、五秒後には何を言ったかすら忘れている。

相手のことを真剣に考えるとしたら、相手の人生の全てを自分が生きてきたように考えなければ分からない。

「相手のことを真剣に考えて」言葉を語る人なんて、この世にはいない。

「真剣に」ということをどう定義するかにもよるが、自分はこう考えている。

 

人が真剣に考えているのは、常に自分のことだ。

自分にとって何が良かったか、何が悪かったか、何が正しかったかを考えている。

 

「あなたのために」「あなたのことを思って」ということを言う人は、基本的には余り信用しない。本当にそう思っているなら、相手のことを最大限できうる限り、まずは知ろうとするはずだからだ。

 

親も「自分の子供であるその人」のことは真剣に考えているだろうけれど(自分の人生の一部だから)、そういう属性を取っ払った「その子という人間そのもの」をどれくらい真剣に分かろうとしているかは分からない。

 

それは、お互いさまだと思っている。

自分だって、もちろんそんなことはできない。

自分フィルターを通した言葉を、自分の中の自分だけの思いを適当に吐き散らかしている。

だから、「もっと真剣に他人のことを考えろ」と言いたいわけではない。

他人のことも自分のことのように真剣に考えるには、人生は大変すぎる。ひとつの人生で手いっぱいだ。

こういう前提に立って、「自分のことは自分が真剣に考えたほうがいいんじゃないか」と思う。

 

自分のことは自分で考える

「頑張っていない」と自分のことを知らない赤の他人に言われても、そんなことを気にする必要はない。自分が頑張ったと思うなら、頑張ったと思えばいい。

「何も死ななくても良かったのに」と言われたって、そのとき死にたかったんだから仕方がない。人はその時のその人の状況を真剣に思い浮かべて、すみずみまで想像してそう言っているわけではない。自分の罪悪感を和らげたいからそう言っているだけだ。そんなに意味のある言葉ではない。

そんな言葉にいちいち、生きるの死ぬのを迷わされる必要はない。

 

自分が頑張ったと思うなら「頑張った」と思えばいいし、逃げたかったら「逃げるな」と言われても逃げればいいし、逃げたくないのなら「逃げろ」と言われても逃げなければいいし、「死ななくても良かったのに」と言われても死にたかったんだから仕方がない。

他人には自分の気持ちも状況も、なぜそこに至ったのかもわからないし、分かろうという努力も基本的にはしない。

 

そういう他人の言葉の中に「確かにそうかもしれない」「これは自分もそう思う」という言葉があったのなら、「その言葉を自分の意思で受け入れた」と思ったほうがいい。

それはもう他人の言葉ではなく、自分で選んだ自分の言葉になる。

そうしないと「あの時あいつがああ言ったから」「こう言っていたじゃないか」「それなのにそれなのにそれなのにそれなのにそれなのに」とずっと繰り返すことになる。冒頭のツイートのように。

自分の人生の責任をいつまでたっても自分でとれない。

 

みんな自分の人生で手いっぱいで、たまに暇なときに、相手のことなど深く考えず適当に喋っているだけだ。

その辺はお互いさまだと思う。

 

特にSNSをはじめとするネットは、相手のことなど知りようもない関係なのだから。

それでも「真に受けよう」と思った言葉は、「自分が自分の意思で受け取ったのだ」と思ったほうがいい。

 

人というのは「本当の意味では他人のことなんて、真剣に考えられない」と思うけれど、それが悲惨なことだとも悪いことだとも思わない。それくらいみんな自分の人生を真剣に生きているんだ、そう思う。

人には素晴らしい部分がたくさんあるし、自分の人生の隙間から幸せを願う人もたくさんいるし、たくさんの人の言葉に支えられ助けられて生きてきたと思っているし、これからもたくさん助けられると思う。

 

たくさんの言葉の中から何を「真に受け」何を「真に受けない」かを自分の意思で選び、そして選んだことに対しては自分で責任をとらなければならないと思うだけだ。

 

そして自分の人生を懸命に生きながら、こちらの言葉を出来うる限り理解しようと試みてくれた人には、今も昔も心の底から感謝している。