先日、こんな記事を読んだ。
超訳コネクト 「火垂るの墓」を観た海外の人々は何を感じたか? 【海外の反応・レビュー翻訳】
実は自分は、「火垂るの墓」が余り好きではない。
正確に言うと「反応に困る映画だな」と思っていた。
最初に見たときに感じたのは「そりゃあ、幼い兄妹が戦争で悲惨な目に合いながら死ねば、見た人は文句も言わずに泣くだろ」というものだった。
自分も物語の中の清太と節子は可哀そうだと思うし、時代とはいえ親戚の叔母さんを含む、周りも何とかしてあげられなかったのかとは思う。
でも例えば同じ戦災孤児でも「はだしのゲン」に出てくる隆太や勝子はたくましく生きているし、清太は彼らよりも年上なのにもう少し何とかできないのか、という苛立ちのようなものを感じた。
清太も節子も何でこんなに無力で、運命に少しもあらがえず蛍のように死んでいくのか。そのことに対して、上記のレビュアーの一人が戦争映画について指摘していることと似たことを感じていた。
「私には兵士としての経験(ベトナム)があるが、戦争映画を観るのは敬遠しがちだった。映画製作者たちの自虐癖に対しても、誤った力の誇示に対しても、吐き気を催すからだ」
「戦争の悲惨さを描き出す」という目的のために、子どもという無力な存在をことさら無力に描いて、ことさら過酷な運命に落とし込んでいるんじゃないのか、そういうメタ構造に強い反発を覚えるからだ。
でもこのレヴュアーが、すぐに「でも『火垂るの墓』は違う」と続けるように、自分もそういう自分の感想にしっくりとこないものを感じていた。たぶんそれは何かが違うし、高畑勲が考えていたこととはぜんぜん違うのだろうな、ということは漠然と感じていた。でも、その先は考えても何も出てこなかった。
この話が「反戦」がメインテーマじゃないとすると何なんだろう??
「戦争で親を失った幼い兄妹が死んでいく話」のテーマに、反戦以外のものが考えられるだろうか?
いま改めて考えてこの話の何に引っかかるのかというと、「火垂るの墓」という話自体は、戦争という背景がなくても(もしくは違う背景でも)成り立つということだ。
戦争という背景を抜いても成り立つ話ならば、テーマは反戦ではない。
自分はずっと「戦争の悲惨さを描くのが、『火垂るの墓』の目的」だと思っていた。でもレビューを読んで気づいたのは、「戦争の悲惨さというのは、『火垂るの墓』のテーマを描く手段」に過ぎないのではないかということだ。
上記の記事のレビュー群も「反戦がテーマ」「戦争映画」という言葉は使っている。
でも中身を読むとレビュアーたちも「この映画は戦争を描いているのではないのではないか」ということを考えているように見える。そして反戦ではない、別の場所に感想は帰結する。
中には明確に「これは戦争映画ではないし、反戦映画でもない」と言い切る人もいる。
レヴュアーたちの視点がどこに向けられ、感想がどこに帰結するかといえば
「戦争で失われるのは生命ではなく、汚れなき魂」
「無垢な魂をあれほど完璧に、悲劇的に、胸が張り裂けるように描いた作品」
「どうにか生き延びようとして、それを果たせなかった小さな二つの魂の物語」
「映画を見終えた後、彼らの部屋に行き、眠っていた子どもたちにキスして、「愛しているよ。」とささやいた」
「 彼女(節子)の美しさ、悲しさ、そして無垢さを」
「 子供だった僕にとって、この映画は本当に強い衝撃だった。心が深く傷ついたようにすら感じた」
自分が考えたこともなかったような角度の感想だった。
様々な国の様々な人たちが感想を書いているのに、頻繁に「魂」「無垢」という言葉が出てくる。ある父親は何年かぶりに子供を抱きしめ、子どものときに見たという人は「心が深く傷ついた」と語る。
こういう感想を読んでいて、今まで自分がしっくりこなくて、何だか分かるようで分からないと思っていたことが、いきなり回路がつながった。
そうか「火垂るの墓」は、「魂の無垢さが傷つけられ、失われていくことを批判した物語なんだ。そのための方法論として、背景に戦争をすえ、戦災孤児という設定にしているんだ(正確に言うと、この話を選んだ)」こういう目線で見ると、突然色々と納得がいった。
清太はあの年齢にしては、ちょっと世間知らずで無能じゃないか? という感想を何回か見たことがある。自分も前述した通り「確かに他の作品の孤児に比べると…」とは思っていたけれど、「無力である」「知識がない」ということが「無垢」を支えるために必要な設定だったのかもしれないと思うと理解できる。
宮崎駿が「兄の甲斐性なしを指摘する者がいるが、彼の意志は強固だ。その意志は生命を守るためではなく、妹の無垢なるものを守るために働いたのだ」こう指摘しているように。
今まで「火垂るの墓」の感想で、「魂の無垢さ」ということに焦点をあてたものを読んだことがなかった。自分が目にしたことがないだけなのかもしれないけれど、これは日本と他国の宗教観の違いが大きいのかもしれないと思った。
宮崎駿が節子を「マリア」に例えているように、キリスト教では「無垢さ・清らかさ・イノセンス」は非常に重要な要素だと思う。
現代の個々人の価値観はともかく、元々の土壌では「無垢さを重視する」という発想が文化的にも宗教的にも余り日本にはないかもしれない。儒教も仏教も、老成や悟りの発想のように考えを深めてその先を重視するという発想のほうが強いような気がする。
そういう土壌の違いもあって、日本以外の国の人のほうが何の前知識なしに見ても、「これは戦争自体を描いた物語ではなく、戦争を時代背景にして、魂の無垢さを描いた物語なんだ」と理解しやすいのかもしれない。
松嶋菜々子が演じた西宮の叔母さんが主人公のドラマも、あれはあれで悪くなかった。でも自分の頭の中で原作とうまくつながらなかった。
「あれは時代のせいで、西宮の叔母さんが悪いわけではない。それは分かるけれど、アニメが描いていたことはそういうことではないのでは?」と漠然と思っていた。それが何故だったのか、ということがこのレビューを見て自分の中でやっとつながった。
普通の戦争映画であれば「戦争が悪いのであって、個人レベルでは仕方がなかったんだ。誰もが西宮の叔母さんになる可能性があるんだ」という結論でOKだと思うし、それはその通りだと自分も感じる。
でも恐らく「火垂るの墓」で言いたいのはそういうことではなく、「どんな時代でも誰の心の中にもある無垢さの象徴が清太と節子であり、それはどういう理由があろうと決して傷つけて手ばしてはいけないものではないのか」ということじゃないのか。
「西宮の叔母さんも悪い人ではない。時代のせいで、仕方がなかったんだ」という理屈がとんちんかんで筋違いに感じるようなすさまじい破壊力があの映画に宿っていたのは、そういうことじゃないかなと思う。
そういう視点で改めて「火垂るの墓」を見ると、幽霊になった清太と節子の周りをたくさんの蛍が飛ぶ最初と最後のシーンとか、節子の「何で蛍、すぐ死んでしまうん?」のセリフのすごさを感じる。
今まで「凄いけれど、何が凄いのか、そもそも何がしたい映画なのか分からない」から「何だろうな」くらいのテンションで見ていたけれど、そのすごさが胃の腑まで落ちた感じだ。
「イノセンスの無力さ、それが傷つき失われる残酷さ」というのは、そういえば「かぐや姫の物語」でも描かれている。現代においては、もうそれが守られることはない。だから常にただただ傷つけられ失われる物語なんだろうな、と思うとちょっと辛い。
ドラマ単体として見るなら面白かった。清太役の子が良かった。