「グノーシア」の元ネタになった「グノーシス主義」を知りたくて、「グノーシスの神話」を読んでみた。
*先にこちらを読んだ方がいいかもしれない。
「グノーシス主義」は諸派に分かれているうえに、異端とされたため文献もほぼ残っていない。
「グノーシス主義」を知るために、最も豊富な量の情報を提供してくれるものが、グノーシス主義を異端と断じて論破しようとした「正統派」の論駁文書だそうだ。歴史や体系をまとめるだけでもひと苦労だろうが、研究している人にとってはそれもやりがいのひとつなのかもしれない。
「グノーシス主義」が最大の異端とされたのは、初期ユダヤ教や初期キリスト教の宗教体系の根幹を成す「創造信仰」と対立するからだ。
「ヤハウェと人間の間の不可逆・非対称の関係こそが、旧約聖書の創造信仰の核心」(P21 )であり、「神は神であって人ではなく、人間は人間であって神にはなりえない」(P21)という根本の考えを「グノーシス主義」は否定している。
「グノーシス主義」の根本にある考えは、「人間は本来至高神の一部であり、現実の人間は居場所を間違っている。本来の居場所に帰らねばならない」(P3)という認識(グノーシス)を持つことで、人間は本来の道に立ち返ることができるというもの。
「人間即神なり」という発想が基本だ。
「人間は肉体と本来の自己(魂)に分離しており、その本来の自己がこの世界のどこにも居場所がないことを発見する」(P29)
「魂、すなわち本来の自己は目に見える宇宙万物を超越する」(P29)
「肉体の死こそが、魂が解放される瞬間に他ならない」(P29)
読んでいて思ったけれど、キリスト教よりは仏教を思い起こさせる。
世界観としては「光と闇」の二元論なので、そのあたりは西洋的な考えかたに見える。
創造神話が、「偉大なる神が世界を創った」と言っているのに対して、「すごく格下の神が何となく世界を創った」(意訳・派によっても違うようだが)など「世界」をかなり否定的に、見方によっては貶めていると思えるところが、他の宗教とはだいぶ毛色が違く見える。
「人間即神なり」という考え方が生まれた背景が、「この時代の都市部において人間が個別化され、それぞれの伝統的基盤から乖離し、社会的方向性と自己同一性の喪失の危機に直面していた」(P50)と聞くと、「どこかに聞いたことがある時代だな」と思ってしまう。
「自己」で完結する思想は、現代とも親和性が高そうだ。
「グノーシス主義」は発生年代付近では、ひとつの体系として残らなかったようだが、そのあと「東方型」としてマニ教に伝播している。
10世紀にマケドニアの司祭ボゴミルが起こしたボゴミル派に対しても、影響が指摘されている。
ボゴミルという名の司祭が人々に対して、徹底した現世否定の教えを説いたことに発する。
彼は言う。
現世は悪魔により創造された悪しき世界である。ゆえに人々は現世の汚れから完全に逃避すべく、静かで敬虔な生活を送り、ひたすら魂が死後に天上に帰ることのみを願わねばならない。
(引用元「世界史リブレット20 中世の異端者たち」山川出版社 P26)
個人的には「自己の肉体」を「本来の自己=魂」を閉じ込める世界に見立てて「自己の中に世界を作ってしまう」「グノーシス主義」に比べると、根本が違う似て非なるものに思える。「グノーシス主義」の面白さが抜け落ちているなあと思うけど、このほうが布教するためにはイメージしやすくて良かったのかもしれない。
ボゴミル派が12世紀半ばに生まれたカタリ派に影響を与えた。
「グノーシス主義」はまとまった文書や体系化された思考は残っていなくても、形を変えて次から次へと伝わっていっており、そういったバラバラに散逸した影響から総体を推測するしかないという点も面白いなと思った。
要点がサラッとまとまっていて読みやすい。とりあえず概略だけ知りたいときに重宝している。
記憶を消してまたやりたい。