↑の話の続き&補足。
いま読んでいる「火山島」の7巻に、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のオマージュシーンが出てきた。
反政府組織の裏切者である柳達鉱(ユ・タルヒョン)を、主人公の李芳根(イ・バングン)が糾弾する。
このシーンは読んでいて疑問が多い。副読本でもインタビュアーと作者のあいだで議論になっている。
でもほんとうにゲリラの人たちの名簿を警察に渡したかどうがというのは、李芳根もわからないわけじゃないですか。(略)実際に渡した場面は描かれていないわけですし。柳達鉱は尋問に対してゲロするわけでもないですし。そういったなかで殺されてしまうというのは、何か濡れ衣を着せられているようにも読めるわけです。
(「金石範『火山島』小説世界を語る!」右文書院 P167-169/太字は引用者)
インタビュアーがこう突っ込んでいるように、このシーンで主人公の芳根は、状況証拠のみで柳達鉱を裏切り者と決めつけている。
しかし芳根が反政府組織と行動を共にしなかったのは、↑のような考え方を「軽蔑している」からだ。
李兄は、解放後のこの方、とくに解放直後の左翼万能主義の状況のなかで、『革命』を口にするだけで、何も考えなくてすむようなアタマ、意識構造のことをよくいっていたでしょう。
『革命』の上に、『反』をつけるだけで相手を断罪し、自己の立場を絶対化し得るような意識を軽蔑をこめて批判していた。
(引用元:「火山島」6巻P110 金石範 文藝春秋/太字は引用者)
自分が「軽蔑をこめて批判していたこと」をやっており矛盾している。
「柳達鉱が裏切り者であること」は、副読本の作者の言葉で確定している。
問題は「なぜ作内で『裏切り者であること』が確定する描写をしなかったか」だ。
その描写がないためにインタビュアーが言及しているように「濡れ衣を着せられているようにも読めて」、主人公の芳根が、軽蔑していたことを自分が行うという矛盾が生じている。
「作外設定では柳達鉱(ユ・タルヒョン)が裏切り者であることは確定している。だが作者は、それを作内で書きたくなかった。(書くことができなかった)それは何故か?」
これが読んでいて不思議だった。
自分もインタビュアーが言うように、「作者のヤーヌス的な両面がこのふたりの人物にたいして無意識に出ているから」だろうと思う。
柳達鉱を裏切り者として作内で断言してしまうと、作者の分身である芳根とリンクさせることが出来なくなってしまう(完全な他者になってしまう)からだ。
ただ「芳根との同一性を保ちたい」のだとしたら、柳達鉱を一部免罪するような描写をする(何か事情があった、最後に改心するなど)方法を取ることもできる。
これをせずに(できずに)、「逃亡した日本でも革命家面してふるまう」ような人物だからという理由で死に至らしめたのは何故か。
「火山島」の世界には、「カラマーゾフの兄弟」の世界とは違い神がいないからだ。
『もし神が存在しないならすべてのことが人間に許される』
これはもともと神が存在しないわれわれには無いテーマだが、このロシアの小説の主人公のセリフをもじったような言い方だ。(略)
済州全島民が虐殺されたら、全島民が永遠の生命に甦るのか(略)
おれは永遠を信じない人間だ。
生命の永遠もない。きみの生命も、おれの生命も永遠ではない。
なぜ、済州島の人間は殺されても、暴虐、飢えに晒されても、ただじっとしていなければならないのか。
(「火山島」7巻 金石範 文藝春秋 P224/太字は引用者)
「カラマーゾフの兄弟」の大審問官の話で、イワンは親から虐待されて死に至らしめられた子供の命を償うほどの調和(永遠)などありえない、そんなものがあるとしても自分は認めないという話をする。
対してアリョーシャは、罪なき身で全人類の罪を背負ったキリストであれば、すべての苦しみを調和させることができると答える。
イワンはアリョーシャの答えに対してさらに、できるとしても人は「永遠や自由、調和」には耐えられない。だからキリスト(神)の存在を知りながら、それを殺す罪に耐える人間が必要なのだと答える。
「カラマーゾフの兄弟」のドミートリィとイワンの関係は、キリストと大審問官の戯画である。
ドミートリィは無実の身で「父殺し」の罪を背負うことで、世界を調和させようとした。
イワンは神を否定するためにスメルジャコフに「神が存在しないならすべてのことが人間に許される」と吹き込み、父親を殺害させた。
だからドミートリィが「永遠の調和をもたらすキリスト」になるのを、「ドミートリィは無実である」という真実を告白することで阻止しようとする。
「火山島」の世界では、主人公・李芳根(イ・バングン)の上記のセリフの通り、「神は存在しない」
ドミートリィやアリョーシャのように神(キリスト)を信じるのであれば、どんな悲惨も永遠の命、調和のため、「済州全島民が虐殺されたら、全島民が永遠の生命に甦る」と信じることが出来る。
だが神(世界が最終的に調和する可能性)も永遠も信じていないのだから、これほどの暴虐、悲惨な状況が一体何のために起きているかがわからない。
「カラマーゾフの兄弟」→神がいる世界だから、無実のドミートリィがすべての罪を背負うことで世界は調和する。
「火山島」→神は存在しない世界。島民たちの苦しみを償うには、「実際に罪を犯した裏切り者」を殺すしかない。
「火山島」では(調和する可能性はないので)裏切りという罪を犯している柳達鉱を殺すことでしか、島民たちの無念や流血は償えない。
柳達鉱が「どこにいても必ず周りを裏切る人間(未来永劫罪のある人間)」でないと辻褄が合わなくなってしまう。
柳達鉱は「作内設定(神のいない世界)では卑劣な裏切り者」だが、「作外という概念を含めて見ると、無実の罪を背負って(作内)世界を調和させた人物」なのだ。
自分が柳達鉱という人物を面白く感じるのはここだ。
作者が「柳達鉱は嫌い」「ああいう人間を生かしておいてはいけない」と言っているところがまた面白く、言い方を選ばずに言えば「(芳根の内的世界も含めた)作内世界の調和のために、作者に殺された」*1
「裏切り者の悪党」だから吊るのではない。
「神がいない世界」では罪なき血が調和される可能性がないから、人が間違うことは許されない。吊る(犠牲になる)人間は、必ずそれにふさわしいド畜生でいなければいけない。
それは証明の必要もない、「神のいない世界」では論理によって確定していることなのだ。
「柳達鉱の粛清シーン」があれほど暗い異様な迫力に満ちているのは、「カラマーゾフの兄弟」との比較によって「神のいない世界」の構築のされ方*2が暗い影絵のように浮かび上がるからではないかと思う。
*その1。「葬送のフリーレン」×「ノルウェイの森」