ドストエフスキーの長編の中でも「カラマーゾフの兄弟」と「罪と罰」は、プロットからさほど脱線せずに書かれているため、まだしも読みやすい。
「悪霊」はあらすじがとっちらかっているうえに、登場人物全員が内省的な長広舌をする、しかも実際的なことははっきりとは話さないなどいうドストエフスキーの長編の悪癖が重なって、一見するととても分かりにくい筋立てになっている。
予備知識なく読み始めると登場人物が多く、筋を追うのもひと苦労なので、内容を分かりやすく整理してみた。
「悪霊」超おおまかなあらすじ
19世紀のロシアでは農奴解放令が出され、無神論や社会主義を始め、新しい思想が急速に広まっていた。若者たちは新しい思想に目覚め、親世代の人間が所属する旧体制の全てを冷笑し、否定するようになっていた。
ピョートル・ヴェルホーベンスキーもそんな青年の一人だ。
彼はペテルブルクにある秘密組織とつながりがあるという触れ込みで、地方に「五人組」という組織を作る。
ピョートルは「五人組」を使い混乱を起こし、旧体制の権威を地に落として、人々が旧体制を冷笑し嘲笑するようになったころを見計らって、新しいロシアの象徴を担ぎ出そうとしていた。
「悪霊」の主な登場人物
スタヴローギン家周辺
アントン・ラヴレンチエヴィチ・G
この物語の語り手。
ステパン氏の年若い友人。
第三者視点で物事を語っており、物語にはほぼ関与しない。
ニコライ・フセヴォロドヴィチ・スタヴローギン
この物語の中心人物。
大地主の一人息子で美貌の貴公子。
善悪の区別がつかず、一瞬の衝動や快楽のためだけに生きている。世の中の倫理やしきたりを冷笑の眼差しで見ており、それらを破壊することに喜びを感じている。
一瞬の快楽のためだけに幼女を堕落させたと告白したり、人前で地位ある人を侮辱したりする。世の中のしきたりを嘲笑うためだけに、足が不自由で貧しい狂女マリヤと結婚する。
一方で「ロシアの魂を救うための思想」をもっており、シャートフやキリーロフに強い影響を与える。
神を信じることも信じないこともできない苦しみの果てに自殺する。
ワルワーラ・ペトローヴナ・スタヴローギナ(ワルワーラ夫人)
スタヴローギンの母親で、息子を溺愛している。
大地主で非常な金持ち。驕慢で誇り高く、支配的な性格。
二十年前からステパンの才能を信じ、彼を愛し、自らの子供のように面倒をみている。
ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーベンスキー(ステパン先生)
ワルワーラ夫人の家に二十年近く居候をしている在野の学者。五十三歳。
博識ではあるが、激情家で、日常生活では自分で自分の面倒を見られない子供のような性格。
考えなしに思いつきで行動を起こしては周りに迷惑をかけたり、ワルワーラ夫人に尻拭いをしてもらったりしている。
スタヴローギンとリーザの家庭教師をしていたことがある。
ピョートル・ステパノヴィッチ・ヴェルホーベンスキー(ペトルーシャ)
ステパンの息子。
ステパンがピョートルの母親と離婚してからは、ほとんど会ったことがない。
自分の目的のためならば誰であれ利用し犠牲にできる、狡猾で冷酷なエゴイスト。
自分は大組織につながりがあると匂わせ、リプーチンやリャムシンを騙して五人組を組織する。
旧体制を壊し、民衆が何かもに嫌気がさしたところに、スタヴローギンを「新しきロシアの象徴」として担ぎ出すことが目的だった。そのためスタヴローギンに異常な執着を見せる。
ダーリヤ・パヴロヴナ・シャートワ(ダーシャ・ダーシカ)
シャートフの妹。
ワルワーラ夫人の養女であり話し相手。
落ち着いた分別のある性格。
スタヴローギンが唯一心を開いて話す相手であり、ダーシャも彼のことを深く愛している。
スタヴローギンとの仲が社交界で噂になり、ワルワーラ夫人によってステパン氏と結婚させられそうになる。
ドロズドフ家周辺
リザヴェータ・ニコラエヴナ・ドロズドワ(リーザ・リーズ)
ワルワーラ夫人の幼友達ドロズドワ夫人の一人娘。この物語のヒロイン。
快活な美少女で、スタヴローギンに一途な愛情を寄せている。
彼が既婚であることを知り、一度は自分を愛するマヴリーキーと婚約するが、スタヴローギンの下に駆けつける。
スタヴローギンが自分を愛していないのに関係を持ったことと、彼の妻マリヤが自分とスタヴローギンを結びつけるために殺されたことに衝撃を受け、マリヤの殺害現場に駆けつける。
その場で狂乱した群衆に惨殺される。
プラスコーヴィヤ・イワノヴナ・ドロズドワ(プラスコーヴィヤ夫人)
リーザの母親でワルワーラ夫人の幼友達。
おしゃべりで考えなし、カッとなりやすい性格。
その場の感情に任せて余計なことを喋っては後悔する、ということを繰り返す。
マヴリーキー・ニコラエヴィチ・ドロズドフ
リーズの親戚の青年。
リーズに恋をしていて、彼女のためならばどんなことでもする。
知事夫妻周辺
ユリヤ・ミハイロヴナ・フォン・レンプケ(ユリヤ夫人)
新知事に就任したフォン・レンプケの妻。
新しい思想に憧れ、ピョートルを始め、その思想の担い手である青年たちの庇護者を買って出る。
しかし彼らに言いように操られ、最終的には夫妻ともども大恥をかき、フォン・レンプケ氏は心労で病に倒れる。
カルマジーノフ
有名な作家で大変な自惚れや。
ユリヤ夫人が催した祭典での朗読を最後に、絶筆を宣言することにした。だがそこで朗読した「メルシイ」が余りに冗長だったため、野次りたおされることになる。
ツルゲーネフがモデルと言われている。
その他
イワン・パーヴェルイチ・シャートフ
スタヴローギン家の農奴の息子。ダーリヤの兄。
ペテルブルグで、ある組織の運動に関わり、檄文を印刷するための印刷機を預かっている。しかし新思想に疑問を持つようになり、組織を抜けたいと申し出ている。
スタヴローギンの思想に強い影響を受けており、彼を崇拝している。
ピョートルによって「裏切者」の烙印を押され、殺害される。
アレクセイ・ニールイチ・キリーロフ
シャートフの旧友。
スタヴローギンから影響を受けて「人神論」を生み出し、「完全なる理性による自死」を目指す。
ピョートルは彼の自殺を、自分たちの罪をなすりつけることに利用する。
イグナート・チモフェーヴィチ・レヴャートキン
大尉。金目当てで妹とスタヴローギンを結婚させ、その事実を元にして彼を強請っていた。酒飲みで粗暴な性格で、妹を虐待している。
後に妹マリヤと共にピョートルの命令を受けたフェージカに殺される。
マリヤ・チモフェーヴナ・レヴャートキナ
レヴャートキンの妹で足が不自由な狂女。
ペテルブルクにいたころ、スタヴローギンと結婚する。
後に兄と共にピョートルの命令を受けたフェージカに殺される。
フェージカ
元懲役囚のならず者。スタヴローギンに「金をくれれば、レヴャートキン兄妹を始末する」と自分を売り込む。
後にピョートルの命令で、二人を殺害する。
リプーチン・リャムシン・トルカチエンコ・シガリョフ・ヴィルギンスキー
ピョートルが組織した五人組のメンバー。
シャートフ殺害に関与させられるが、後にピョートルに騙されていたことを知る。
「悪霊」の割と細かいあらすじ
農奴解放令が出て、新時代の思想が青年たちを中心に広まりつつあるロシア。
大地主であるワルワーラ夫人は、二十年面倒を見ている客人であり友人でもあるステパン氏と養女のダーシャと共に平和に暮らしていた。
外国からワルワーラ夫人の一人息子ニコライ・スタヴローギンが帰ってくることになった。
ワルワーラ夫人は、旧友プラスコーヴィヤ夫人の娘リーザと息子が結婚することを望んでいた。
しかし息子スタヴローギンは外見は落ち着いた貴公子だが、常軌を逸した行動をとることがあり「気が狂っている」という噂も立てられていた。
またスタヴローギンには「ダーリヤと親密な関係にある」という噂や「既に結婚している」という噂もあった。
噂を火消しするために、ワルワーラ夫人はステパン氏にダーリヤと結婚するようにすすめる。
「スタヴローギンが足の不自由な狂女マリヤと既に結婚している」という噂は、スタヴローギン自身と彼と旧知の仲であるステパンの息子・ピョートルがはっきりと否定する。
しかしスタヴローギンとマリヤは、ピョートルの立ち合いで正式に結婚していた。
スタヴローギンがリーザとの結婚を望んでいると勘違いしたピョートルは、懲役人のフェージカを使ってマリヤとその兄のレヴャートキンを殺害する。
スタヴローギンはピョートルがマリヤとその兄を殺害しようとしていることに薄々感づいていたが、特に止めることはしなかった。
「自分はマリヤの殺害に関与していないが、道義的には責任がある」というスタヴローギンの告白にショックを受けたリーザは、マリヤの殺害現場に駆けつける。そこで殺気立った群衆に取り囲まれ、惨殺される。
ピョートルは知事夫妻に取り入る一方で、自分の手足となる青年たちを集め「五人組」を組織していた。
ペテルブルグには変革のための秘密組織があり、この県と同じように各地に「五人組」が形成されている。網の目のように形成された組織が、ロシアに旧体制を打ち壊し、新しい時代を到来させるのだ。
ピョートルはそのように「五人組」たちに吹き込んだが、実際は作り話であり、ピョートルは彼らを捨て駒にして旧体制を壊したあと、スタヴローギンを「新たなロシアの象徴」として誕生させようとしていた。
ピョートルは「五人組」を使って知事夫妻主催の祭典を滅茶苦茶にし、工場で火災を起こし、旧体制の権威の失墜を民衆に印象付ける。
ピョートルは自分たちを裏切り侮辱したシャートフの殺害を決意する。仲間の裏切りを阻止するために、彼らにもシャートフ殺害を手伝わせる。レヴャートキン兄妹殺害、シャートフ殺害も、すべて自殺志願者のキリーロフに「自分がやった」と書かせ、その罪をなすりつける。
しかしピョートルが夢をかけていたスタヴローギンは、自宅の屋根裏で自殺していた。
「悪霊」について感想
「悪霊」とは何なのか?
ステパン氏が死ぬ直前にルカ福音書に書かれた、「病人にとりついた悪霊が、病人から出て豚にとりつき、豚は自ら湖に飛び込み溺れ死んだので、病人は治癒した」という箇所を引いて、「病人はロシアであり、悪霊は彼にとりついた思想、そして自分やピョートルが豚だ」と言う。
ドストエフスキーは新しく生まれた思想とそれに熱狂する人々が、ロシアという国の精神性を破壊してしまうと考えていた。
「過度に先鋭化した思想が一人歩きをし、生身の人間性を無視し破壊する」
というのは、現代までの歴史でもありとあらゆる形で繰り返されている。
「悪霊」には、美しいものが何ひとつ描かれていない。
弱くて愚かで、その癖自己中心的なので同情の念もわかないような人たちを、強い人間が馬鹿にし利用し嘲笑う、そういう構図が延々と続く。
登場人物たちはほぼ全員、馬鹿馬鹿しいほどどうでもいいことに狂乱し、とんでもない行動をとる。
そして最終的には、身勝手な事情で他人に殺されたり、愚かな行動の果てに命を落としたりする。
ピョートルの他人という存在を徹底的に軽視したエゴイズムや、彼の実態のない調子がいいだけの弁舌に手もなくのせられる人々の愚かさ、そして正しさという方向を見出したときにリーザを惨殺するような人々の狂気というのは、誰の心の中にもあるものだと思う。
実際にドストエフスキーはこういうものにすさまじい憎悪と嫌悪を向けながらも、自分自身の中にも疑いなくあるものとして描いている。
醜悪な悪性のエネルギーだけでできている小説だ。
しかもそのエネルギー量がすさまじい。
この醜悪な悪のエネルギーはどの時代のどんな人の心の中にもあり、それが一定の方向を見出したときに、人々は悪霊にとりつかれた豚になり、いっせいに走り出す。
個人的には、現代のほうがこういう負のエネルギーは集約されやすいし、その勢いに流されやすいように感じる。
そういう意味でも、今の時代、読まれて欲しいなあと思う。
欠点だらけだが、読めば読むほど味が出てハマる
「悪霊」は、小説としての出来は余り良くない。
プロットは混乱しているし、話は無茶苦茶で読みにくいし、登場人物たちはムカつくほどずる賢いか、うんざりするほど愚かか、何を話しているかもよく分からないくらい異常か、もしくはその全部かだし、展開は暗くて救いがない。
初読のときはそもそも物語の大枠がつかめず意味がわからなかった。
しかしその狂ったような自己主張と過激な行動を眺めているうちに、いつの間にかその陰鬱で異常で、すさまじいエネルギーが荒れ狂った世界に引き込まれていく。
一度目よりも二度目、二度目よりも三度目、読めば読むほど面白いし、登場人物たちの狂乱が乗り移ったかのように夢中になる。
ドストエフスキーの長編で繰り返し語られる「神がいないとすれば、人は善悪をどう決めるのか。善悪を決め、裁く神がいないのであれば、どんな悪でも許されるのではないか」という問いが、最も分かりやすく真正面から語られている。
キリーロフが語る「人神論」やピョートルがスタヴローギンに見出した「人間を超越した象徴」など、ニーチェの「超人思想」やハイデッカの「死の先駆的決意性」など後世への影響が指摘されている思想も語られている。
個人的には、ドストエフスキーの作品の中で、作者が生涯こだわっていたテーマが最も分かりやすく、言葉で語られているのではないかと思う。
そのせいか読んでいると、鼻の先5センチくらいの距離で声高にその思想を延々とまくしたてられているような感覚になる。
熱量が大きすぎる余り暴走しているそのエネルギーに負けないくらい体力があるときに、読んだほうがいいかもしれない。
新潮文庫を愛読している。言い回しが独特なので、好き嫌いが分かれるかもしれない。
光文社版は読んだことがないけれど、どうなんだろう??
読み比べしたら感想を書きたい。
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