うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「ソ連や中国は(国家)資本主義であり、マルクスが想定したコミュニズム社会ではない」ということがわかりやすい「ゼロからの『資本論』」

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「資本論」入門書二冊目「ゼロからの『資本論』」を読んだ。

池上彰の本が「わかりやすく伝えること」を第一にしているのに対して、「ゼロからの『資本論』」は著者の視点や主張がかなり強く出ている。

著者の視点が強く出ているぶん、読み物としては本書のほうが面白かった。

自分のように「『資本論』を読んでも『日本語でオケ』という感想しかない」人間は、両方読んで良かったなと思う。

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前半は「資本論」の内容についてなので、おさらいがてら読んだ。

「資本主義は商品(労働価値)と給与の差である剰余価値を搾取し、得た金をさらに投資することで自己増殖していく自律システムである」

「資本家は労働を『構想』と『実行』に分離して、分業制を敷く。労働者は分業によって単純作業に類する『実行』の部分しか携われないようにされているため、『知識や技術』を身に付けることも出来ず『構想』にも携われず、退屈な単純作業をするだけの『無力な労働者』にされる」

「『無力な労働者』は製品の全体像がわからないため、自分で自分のための製品を作れない。そのために『無力な消費者』として必要なものを資本家から買わざるえない」

「資本主義は、労働者を労働から疎外することで剰余価値を搾取し続け、さらに無力な消費者として製品を買わせ続けることで肥大化していく」

 

資本家(経営者)は、個人としては会社の人間のことを考えているとしても、経営の観点からは合理化せざるえない。

そして合理化されればされるほど、製品の価格は下がり、製品の本質である労働の価値は下がるために買いたたかれるようになる。

労働者が頑張って自分の生産力を上げれば上げるほど、「生産力と支払われる給与の差である相対的剰余価値」が上がり搾取の効率がよくなる。

資本主義はこういう構造であり、内部にいる人間は誰も止めようがない。

 

現代だと例えば「積み立てNISA」などの投資を行うことで、労働者も投資家の側面を持つようになる。

(前略)小口取引を始めれば、あなたも立派な「投資家」の仲間入りです。(略)

こうやって、私たちは保守的になって、自分の老後がかかっている株価が暴落しないように願い、資本主義の繁栄がいつまでも続いて欲しいと願うようになるんです。

(引用元:「ゼロからの『資本論』」斎藤幸平 NHK出版新書 P154-P155)

自分も投資をしているからこの箇所はドキッとした。

責められているわけではなく、資本主義というシステムは、その中にいる人たちの「少しいい暮らしをしたい」「少し楽したい」「少しは安心したい」という気持ちの集合体で出来ていて増殖していくので止めるのが難しいという説明になっている。

 

他の本だと「マルクスは資本主義の分析は優れていたが、その後に描いた社会は余りに理想的すぎた。それはソ連の崩壊などで証明されている」という意見が多かった。

自分はレーニンの「前衛党による指導」という考えが入ったために、社会主義国家は「労働者主体の国家」ではなく「一部のエリートが大衆を指導する」というスタイルが正しいとされ、独裁国家になりやすく、そのためにうまくいかなかったのではと思っていた。

だが本書では「マルクスが考えた社会主義と、現代でソ連や中国などが行っている社会主義はまったく違う」という主張がされている。

そもそもソ連や中国は社会主義国家ではなく資本主義国家だという。

これはびっくりしたし、俄然興味を惹かれた。

資本主義と社会主義の違いは、企業の経営主体が民間か国営かではない。

「資本を増やすことを目的とした、剰余価値の搾取が行われているかどうか」であり、搾取する主体が資本家であるか国であるかは関係ないのだという。

名目上は、祖国発展のために労働者たち自身がそのような剰余労働の使われ方を「望んでいる」のだから、そこに「搾取」は存在しない、とされました。

けれども実際には、そのような国民経済計画を立案しているのは一握りの党官僚にすぎないわけで、実際は「搾取」以外の何ものでもないわけです。(略)

それは、資本家の代わりに党と官僚が経済を牛耳る「国家資本主義」だったのです。

(引用元:「ゼロからの『資本論』」斎藤幸平 NHK出版新書 P165/太字は引用者)

「ソ連や中国は社会主義国家ではなく、『国家資本主義国家』」という説は、凄く納得してしまった。

 

ではマルクスが目指した「コミュニズム国家」はどんな国家なのか。

マルクスが晩年、様々な地域共同体の研究を行っていた、ということから、様々な共同体(アソシエーション)がゆるくつながることを想定していたのではないか、と書かれている。

「必要なものを必要なだけ作ってお互いの利益を確保する」

「ケア労働などの日常に必要なことを外注することで外部を搾取するのではなく、相互扶助によってまかなう」

こういうものを目指していたのではないか。

 

これには「うーん」と思った。

話を聞いていると、一時期よく聞いた評価経済のような発想なのかなと思う。

結局、評価軸が「どの能力であるか」が違うだけで、集団の中で抜きんでる人と取りこぼされる人にわかれるのではと思ってしまう。

その輪の中から取りこぼされた人が、いまの社会では問題になっている。

日本でもコミューン思想が流行った時期があると聞いたけれど、広まらなかった。

結局理想を追求したり、連帯しようとする組織の中でも上下関係は出来る。集団から疎外されたときに「個人の身を守るものがない」となるよりは、(その観点だけで言えば)まだしも世界規模のシステムの中にいたほうが、縛りがキツくなくていいのではと思えてしまう。

 

ただ個人の欲望や利益を追求することだけを目的とすること*1が、資本主義に丸ごと取り込まれていることだということはわかるし、そういう意識でいけばほどなく地球を食いつぶすことになる。

「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」が資本家のスローガンらしいが、「どうせそう思っている」と思われれば、グローバル・サウスの人やグレタさんのような若い世代の人に不信の目を向けられてそっぽを向かれても仕方がない。

今年の異常気象を見ても、もう少し真剣に今後どういう社会にしていくかを考えないといけないのかもしれないなあ。

*1:すべてを価値=コスパで判断する、判断できると思う発想。