うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

follow us in feedly

消費されることで回復するものってあるのだろうか?

【スポンサーリンク】

 

前に「自分自身(のコアになる経験や思考)をコンテンツ化してネットに出すことは、どこの誰にどう消費されるか分からないから危険」という主旨の記事を書いたことがある。

www.saiusaruzzz.com

 

ネットでは「その人自身をコンテンツとして消費する」という行為が、すでに当たり前のように行われている。

テレビでも芸能人に対してやドキュメンタリーなどの手法で行われているが、これは「そのコンテンツをどう見せるか」という多数の人間の意図が一度入り、編集されている。(それでも、今の時代はけっこう危うい面があると思う。)

ネットではこの「多数の目による編集」というフィルターがかからず、しかも「どういう層が見るか」「他人がその物事をどのように消費するか」という予測も立てづらい。

 

自分が予想もしなかった反応をもらうことも十分ありうる。

その結果、思わぬ傷を負って、ブログやネットでの活動をやめてしまった人もいる。

どんなことを言われようが、万が一身バレしようが、とにかく大勢の人に注目してもらいたい、と思っている人以外は、「『自分のコンテンツ化』は避けたほうがいい」というのが個人的な意見だ。

 

そういう考えなので、ネット上には極力個人情報は出さない、価値観が人によって大きく違いそうな、具体的な生き方などのセンシティブな話題は避ける、ということは決めている。(センシティブな話題に触れるときは、自分がどんな立場か、ということを言わざるえないことが多い。)

どうしても書きたいときは、細心の注意を払って書いているつもりだが、それでも思わぬ反応をもらうことはある。(「人によって価値観が大きく違う話題」というのは意図せず誰かを傷つける可能性が、他の話題よりも飛躍的に高いと感じる。それを承知の上で意見を言うことは、もちろん自由だと思う。)

 

ネット上で不特定多数の人に向かって、自分に関する深い話題を書く人はけっこういる。ある程度、様々な意見がくることを想定している人はいいけれど、明らかにそうではない人は見ていて心配になる。余計なお世話だと思うけれど。

 

「こう考えている」とどれだけ書いても伝わらないこともあるし、分かってもらえないこともある。

「赤の他人が、自分の人生の一側面を切り取って見せたものについて、自分が思うような形で理解してくれるはずがないし、それはお互いさまだ」

そういうことが分かっていてさえ、自分の生き方や考え方について語ったときに、分かってもらえなかったり、否定されることはキツいことだ。

そういうことを書いて公開するということは、多かれ少なかれ「分かってもらいたい」という気持ちがあるのだろうから。

 

そう考えていた自分だが、もしかしたら「見も知らない大勢の他人に消費されること」でしか癒されない気持ちもあるのかもしれない、と最近、思うようになった。

自分自身の中だけや現実の人間関係ではどうしても折り合いをつけられるほど回復できない、と感じている思いがあるのかもしれない。

 

どれくらいの規模の他人が、どんな方法で消費するか分からない以上、自分には博打のようにしか見えないけれど、それで癒されることもあるのだろうか。

「書いてくれてありがとうございます」

そういうひと言で、救われるのだろうか。

その言葉と同じ数だけ、無理解や理不尽な言葉を受け取ったとしても。

 

自分だったら、自分自身で昇華できない思いに対して、他人から心無い意見を言われたら(たとえ分かってくれる人がいたとしても。)受けとめきれない。それに自分の個人的な深い経験や考えって「理解できない」よりも「よくわかります」という言葉で傷つく気がする。

 

そう思うのは、自分が本当の意味で「昇華できない思い」というものを抱えたことがないからかもしれない。 

返ってくるのがどんな反応であれ、「他人に受け取ってもらうこと」自体を必要としている人もいるのかもしれない。

 

どんな受け取られかたでも、受け取ってもらえば少しでも癒されるのか、救われるのか。回復するのか。それとも、他の何かを求めているのか。

分からない。