タイプ論は、自分にとって「よくわからん」と思う相手と話すときに違う視点を与えてくれるので、日常でも心の中で使っている。
専門家ではないので、実在の人にはその判断を口にしないよう、決めつけないように気をつけている。この話もフィクションとして読んでもらったほうがいいかもしれない。
自分が今まで恐らく出会ったことがないのは、INFJとENFJだった。
INFJはかなり仲良くならないとそうだとわからないから遭遇率が低いだろうし、だいたいどういうタイプなのかイメージがわく。
ENFJは実際にいたらどんな人なんだろうということがイマイチわからなかった。ENFJの説明を読んでも、こんな人が実際にいるのかなと思っていた。
いた。
元々の知り合いだが、先日初めて一緒に出掛けて色々と話した。
とにかくよく話し、よく動く。
色々な会合に顔を出し、色々な人に積極的に関わる。
かと言って興味を持った物事に次々手を出している、楽しそうと思うことに寄っていくという感じでもない。
世の中で起こっていることや問題について、明確に自分の価値観と理想を持っていて、その価値観と理想に基づいて行動している。
社会的に恵まれない人や弱い立場の人たちに、積極的に関わり支援を与えることが当然だと思っている。(見返りを求めたり、自分の活動を評価して欲しい感じがない)活動エネルギーのほとんどがそのことに費やされている。
当然だと思っているが、他人にその活動を勧めたりはしない。
他人の価値観を否定もしない。正確には言葉では否定的な見解を述べても、否定的に聞こえない。
人が好きで人と関わるのが好きで、人と人との関係や行動を興味を持ってよく見ている。基本的には優しいが、自分が良くないと思う事柄については、はっきりと自分の悪感情を口にする。
相手とのかかわり方、支援の仕方が適切で、そのことに自信以前の確信のようなものを持っている。相手に支援が必要だ、と見てとると「もしかして、相手にとってはいらないものかも(と考えてしまうのが自分)」などと考えず、サッと手を差し伸べる。
話題が色々と変わるが、ただ話して消費するのではなく、それぞれの話題について考えを持っている。その話題についてこちらの意見もちゃんと聞いてくれる。
献身的で正しいと思うことをやろうとしている人は、それが「献身的で正しいこと」だとは思っておらず呼吸するような自然さで行っているんだな、と(たぶん)ENFJの人と話しながら思った。
自分の中では「銀と金」の森田がENFJの典型だ。
森田にとって勝広の前に無防備で飛び出したことや邦男のために涙を流すことは、「当たり前のこと」だった。
「なぜ、とばっちりで自分を殺そうとしている人間のためにそこまでできる?」
と思う自分にとっては信じがたいほど馬鹿げている行動なのに、そういった損得勘定や理屈を超えてその姿はカッコよく尊く見える。
NFJは「人(類)を愛している」。
他タイプとは違い、「概念としての他人」も「自分と直接関わりがある個人としての他人」と同じように愛し、その愛情に確信を抱いているのがENFJ(INFJも)の大きな特徴だ。(といま思いついた)
「概念としての他人」ならば、どんなにひどい目にあってもその痛みを実感できず、関心を持たないことが「平凡な悪」であるとすれば、ENFJはまさに「主人公」だ。
その代わり恋愛感情を持つと意外と大変かもしれない、と前にも書いた。
INFJは愛情が、「人類愛」や「崇高な理念」みたいな枠組みが大きなところにいってしまう。
「自分も他人も後回し」で、「人類全体」や「未来」「理想」にいってしまうので、恋愛という個人的なものとは接点が持ちにくい。愛情自体はあるので対立軸が見えにくく、他タイプが不満を訴えても話が噛み合わない。
愛情のスケールが大きすぎるんだな、きっと。
「信じろ、一度だけ人間を…オレを信じろ!」
森田はこういうところがすごい。