うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

ブログを書くのは、賽の河原で石を積む行為に似ている。

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ブログを始めて三年経つので、今の時点で思っていることを書こうと思った。

昨年の記事を読んだら、考えていることが大して変わっていなかった。

 

自分にとってのブログ。

自分はブログを、仕入れた知識を独自の分類方法に基づいて区分けした、図書館みたいなものを作るために使っている。

 

先日「薔薇の名前」を久しぶりに読んだけれど、自分にとってのブログは「薔薇の名前」に出てくる文書館に近い。

大勢の修道僧が写字室でカリカリカリカリカリカリと筆写して、その写本が収められている迷路のような文書館を、修道院長が一人で管理している。

たまに遠くから誰かが「これを読みたい」と来たり、「この本を寄贈します」と来たりして目的を果たしたら何事もなかったように去っていく。

外界への入り口がひとつだけ空いた、世界の果てのような場所で一生を過ごす修道僧たちが、自分の仕事が何のために役に立つのか分からず考えず、ひたすらカリカリカリカリカリ書き続ける。

修道僧たちは貴重な文献の写本を後世に残す、という大きな意義があることをやっているが、自分のやっていることは特に意義はない。

そこが一番の違いだ。

たまにフラッと訪れてくれる人が、それなりに満足して帰ってくれれば嬉しい。

 

自分が考えるブログの良さ。

ブログは「書くことの先に目標を設定している場合」(金を稼ぎたい、有名になりたい、承認欲求を満たしたい、自己表現がしたい、気の合う仲間を作りたい等なんでもいい)ものすごく効率が悪いと思う。

ひと昔前ならばともかく、今であればどんな目的であれ、他にもっと有効な媒体なりメディアがある。

人とのつながりや自己表現であれば、SNSのほうがつながり安いし、反応が早い。自分の趣味や気の合う人も見つけやすい。

金を稼ぐのであれば、その先を見据えているならばともかく、ブログ自体は効率が悪い。

自分が考えるブログが他の媒体よりも優れている点は、大量の文章を自分の好きな分類のしかたでアーカイブ化できる、この一点だ。

ただ専門家でもプロの物書きでもない人間が、誰に求められているわけでもない大量の文章をアーカイブ化することに何の意味があるのか? 

自分にとっては、ブログを書くことはそういう前提で始まっている。 

 

コメントや反応について

ネットでは、どんな相手とでも対等でいたい気持ちが強い。

具体的には自分の記事についてどんな反応をするかは相手の自由だけれど、その反応についてどう反応するかは自分の自由だと思っている。相手の反応(ツイートでもブコメでもコメントでも)も、ブログの記事と同じ、公表されているひとつのコンテンツとして見ている。

なので「読んでくれたから反応してくれたから、きちんと読んで何か返さなくては」とは余り思っていない。その反応を自分の価値観で測って対応をしている。

自分はそういう対等さがネットの良さであり、相手に対する誠意だと思っている。

 

ブログを書いているとありがたい反応もあるし、ちょっとな、と思う反応もある。

それでいながら少し引いて眺めると、だいたいひとつの記事への反応は似たような方向性になる。そこから自分の書いたものがどういうものかと改めて分かったりもする。

自分が力を入れて書いた部分と、人が注目する部分がまったく違ったりもする。

このフィードバックが自分にとって一番、ありがたく楽しいものだ。

自分一人だと見える世界は限界がある。

他人から見た世界を少しでも話してもらうと、全然別の視点で見えたりする。

そうすると理屈ではなく体感として「腑に落ちる」瞬間がある。

この「腑に落ちた」瞬間が、ブログをやっていて最高にうれしい瞬間であり、自分にとっては一番の醍醐味だ。感想をくれた人を拝みたいような(というか拝んでいる)気持ちになる。

そういう風に、「他人の記事のコメント欄に書くだけではもったいない」と思うコメントをもらうことがある。また「その考えで一記事読みたい」と思う反応もある。

差し出がましいかなと思って、あまりそこには触れないけれど。

 

ブログをやっていて良かったこと

矛盾していると思うけれど、これについては「良かったことしかない」

その時は不快に思うことも、そのうえに他のことが積みあがっていくと、感覚としては悪い感じが残らない。

あのときブログを始めた自分を、そしてここまで続けた自分をほめたい。そしてこれからも続けるだろう自分をほめておきたい。(自己満足)

そんなことを言って一か月後くらいにはいなくなっているかもしれないが、それもまたネットらしくていい。

多少嫌なことがあったとしても一瞬後には忘れられてしまうとしても、誰かに自分の書いたものを読んでもらえるのは幸せなことだ。

 

ブログは、賽の河原で石を積む行為に似ている

ブログは賽の河原で石を積む行為に似ている。

最初は物珍しくて楽しくても、そのうち石を積む行為に何の意味も見いだせなくなりバカバカしくなる。石を積むこと自体が好きでも、どれだけ色々な積み方を試そうとしても、似たような積み方しかできないことがわかり虚しくなってくる。

人が集まってくれることがあっても、すぐにまた独りで取り残される。

石をいくら積んでも、そこに意味が生まれることはない。何せ石だから。

何の意味もない行為だ。

でも意味がないからこそ、その行為は自分のみに依拠している。その無意味さは、自分だけのものだ。

自分がブログの一番好きな点はそこなのだと思う。

積めば積むほど虚しくなっていく自分だけの無意味を、これからも続けていきたい。

賽の河原紀行 (1981年)

賽の河原紀行 (1981年)