うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

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大西巷一「乙女戦争」を読んで感じた、「個人」として生きることを選べる現代の幸福とか不幸とか。

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*この記事にはネタバレが含まれています。未読の方はご注意ください。

 

大西巷一の「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」を既刊9卷まで読んだ。

 

この本を読んで一番強く感じたのは「現代は、『個人』として生きることを選べる幸福な時代なんだろうけれど、共同体の一員として生きなければならない幸福は失っているのかもしれないな」ということだ。

 

現代の日本社会というのは、比較的「個人」というものが重要視される時代だと思う。共同体の価値観よりも個人の価値観が重んじられて、法律の枠内であれば個人の価値観が尊重される。

結婚や出産、祖先の墓を守るかどうかなど、従来は「当たり前」とされていた価値観が疑問視され、「それは個人の選択を尊重するべきではないか」という意見が一般的になりつつある。「多様性」「人それぞれ」が重んじられ、「社会」という共同体よりも、「個人」という単位が重要視されるようになった。

 

これは何故なのか。

現代の日本社会は「私的な共同体の働き」の必要性が希薄だからではないか、と「乙女戦争」を読んで思った。

「公的な共同体」の働きは、共同体の中にいる人々が共存するために、互いの権利を侵さない範囲内で個人の権利を守る、このお互いの権利や利益をどの程度認めるかという点にある。

それに対して「私的な共同体」の大きい働きは、「自我を外敵から守ること」にあるのではないか。

 

「私的な共同体」は最小単位では、夫婦や恋人同士など二人からなり、家族、親族、友人同士などが基本的には個人の自由意志で形成されるものがあげられる。その「私的な共同体」の究極の形が、「乙女戦争」でも大きな鍵になっている「宗教」だ。

(「私的」「公的」という言い方には、「精神的」「法的」と言いかえてもいい)

 

「結婚」「家族」「友人同士」などの私的な共同体に違和感を感じたり、必要性を感じなかったり、むしろネガティブなイメージを持つのは、それがなければ生きられないほどの自我の崩壊の危機を感じることがないからではないか。

言い換えれば「個人で引き受けられる範囲を超えた痛み」「共同体全体で受け止めなければ受け止めきれない痛み」を感じる機会がないから、「私的な共同体」の必要性を感じないのではないか。

 

「個人では受け止めきれず、共同体全体で受け止めなければ、受け止めきれない痛み」とは何であるか、ということが「乙女戦争」では何回も……というよりは、ほぼ全編に渡って描かれている。

自分が、個人的に「乙女戦争」で見出したテーマは「個人で引き受けると自我が崩壊しかねない痛みを、人はどのように乗り越えるか」ということだ。

たぶんこれは「乙女戦争」という物語がことさらテーマとして描こうとしたものではなく、今よりもずっと「個人の尊厳」が軽んじられていたり、というよりはまったく何の価値もなかった時代を描くときに、避けて通れないテーマなのだと思う。

 

「乙女戦争」では、「個人の尊厳のなさ」が延々と描かれているので、「個人の尊厳や多様性」が重んじられている時代に生きている人間には、本来、読むのがとても辛い物語になっている。

それでも「読むのが辛い」以上に面白い物語であるのは、主に二つの点がうまく働いているからだと思う。

①特定のキャラクターに過度に感情移入させないようにしている。

②「個人の尊厳」が傷つけられたときの回復方法が上手く描かれている。

 

 「個人で引き受けたら自我が崩壊する痛み」というのが何であり、それをどう乗り越えているのか、というのが一番わかりやすいのは、7卷でクマン人の捕虜となったフロマドカ隊の女性たちのエピソードである。

捕虜となって毎晩のように多人数から酷い性的暴行を受ける、というのは恐らく個人では消化しきれない痛みである。

個人ではなく捕虜となった全員でその痛みを引き受けたからこそ、「例え強姦による妊娠でも、その子を産んで、自分たちの思想を伝える。そうすれば最終的には自分たちの勝ちだ。だから頑張ろう」と思える。

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(引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」7巻 大西巷一 双葉社)

恋人の前で暴行を受けたラウラもそうだが、個人で引き受けきれず自我が崩壊するような痛みでも、共同体全体でならば引き受け緩和し、何かに昇華することができる。

自尊心というものは個人のみで維持していると、個人が徹底的に傷つけられたとき、心の死につながり自殺を選ばざるえない。

しかしその自尊感情を何かに仮託できる、つまり「自分が傷つけられた痛みには、自分以外の何かにとって意味がある」と思えると、耐えることができる。

 

捕虜となり残酷な性暴力を受けて、それが元で若くして(絵を見ると13、4歳くらい?)死んだモニカは、個人単位で見ると 「これほどひどい死に方をして、生まれてきて何の意味があるのだろう。こんなに苦しい生ならば、いっそ生まれてこなかったほうが幸せだったのでは」と思う。

それは「乙女戦争」に出てくる、多くの登場人物がそうだ。

現代のように社会が「個人」を尊重し認めている時代とは違い、個人が尊重されない時代で生きていく意味を見出すためには、「自分の生や死に意味を与えてくれる他者」「自分を『自分』として見てくれる他人」が絶対に必要なのだと思う。

それが家族であったり恋人であったり、子どもであったり、仲間であったりする。

個人単位で見ると「意味がない生や死」を、共同体全体で意味があるものにする。例え死んだとしても、自分の思いを受け継いでくれる人がいる限り、客観的に見れば意味がない、苦しいだけのように見える自分の生に意味が与えられる。

 

この発想は「進撃の巨人」でも、エルヴィンが「死んだ兵士たちは、無意味な犬死にではない。後世に生きてる自分たちが、彼らの死に意味を与える。そして自分たちの死に、後世に続く人々が意味を与えると信じる」と同じように語っている。

「個人」がゴミのように扱われ死んでいく時代では、「自分の生は自分のみで完結しない」という発想がなければ、人は生きていくことができない。

 

「自分が死ねば、すべてが終わり。自分が死んだあとのことを考えることに何の意味があるのか」

と個人で自分の生を完結できる発想が持てること自体、とても幸せなことなのかもしれないと「乙女戦争」を読んでいてしみじみと思った。

 

「個人」というものが尊重される時代では、自我の痛みというものも人によっては非常にキツいものだと思うし、それほど共同体というものを必要としない人が、共同体の価値観を破壊している面があるので、それを真に必要としている人にとっては辛い時代だという面もある。(オウム真理教があれほど人を集めたのは、他に受け皿となる共同体や価値観が社会になかったことが問題だったのでは、と思っている。)

なので、「この時代の人に比べれば、現代日本に生まれただけで幸せでは?」ということが言いたいわけではない。

共同体を大切にしましょうよ、と言いたいわけでもない。どちらかと言うと、自分は「精神的共同体」というものに対しては、人よりも懐疑的な眼差しを向けているほうだと思う。「乙女戦争」を読み終わった今も、それは変わらない。

 

「乙女戦争」の時代は、社会が個人をゴミのようにしか考えていないから共同体の必要性が高いだけで、現代のように社会が個人を尊重している時代ならば、むしろひとつの共同体にコミットしすぎるのは危険だと思う。

「乙女戦争」で言うと、「父の娘」であることに自分のアイデンティティの全てを預けてしまっていたために、その父親に捨てられた途端自我が崩壊したイルマのような末路を辿りかねない。

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 (引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」3巻 大西巷一 双葉社)

人の自我や心を癒すようにうまく機能する「精神的共同体」と、自我を破壊する「精神的共同体」とは何が違うのだろう、という疑問も「乙女戦争」で解けたような気がする。

「個人の思い」を大事にするかどうかなんだろうな、と思う。

 

銀河英雄伝説の中に「人は革命のために戦うんじゃない。革命家のために戦うんだ。理想のために戦うのではなく、理想を体現している人のために戦うんだ」といういいセリフ(うろ覚え)があったけれど、「乙女戦争」はこの言葉を体現したような物語だ。

 

「思い」が大事にされているから、これほど残虐で過酷な描写が延々となされていて、現代社会では忌まれがちな「共同体の気持ち悪さ」が描かれていても、とても癒されるのだろうなと思う。

 

9卷でジシュカが死んだけれど、「彼が何のために戦っていたのか」ということにそれがとても表れている。

もしジシュカがフスに実際に会ったのではなく、ただフスの考えを伝え聞いただけならば、どこかで割りに合わないと感じ、戦いを降りていただろう。

彼はフスの考えに共感したからではなく、死んでいくフスの思いを引き継いだから、ガチョウになり最期まで戦い続けた。

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(引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」9巻 大西巷一 双葉社)

 

ジシュカの下で戦うシャールカたちは、フスの教えを信じる狂信者ではなく(作中で、シャールカたちがフスの教えに関心を持つ描写はほとんど出てこない。)「ジシュカが大好きだから」彼が死んだあとも彼の思いを引き継いで戦う。

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 (引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」9巻 大西巷一 双葉社)

 

人を動かすのは机上の理論ではなく、その理論を体現している人への思いなのだ。

 

そういう意味で「乙女戦争」のフスのキャラクターは秀逸だ。彼の教えがどうしてこれほど多くの人にとって救いになったのか、戦争を引き起こすまで人の心を打ったのか、ジシュカのような人まで命を賭けて戦わせたのがが出てきた瞬間に分かる。

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 (引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」9巻 大西巷一 双葉社)

 

「乙女戦争」のフスは、力強い信念に満ちていたり、非常に知的で指導力に優れているようには見えない。カリスマ性はほぼ感じない。

でも自分がもしこういう苦しい時代を生きていたら、フスのような人に触れたほうが一発で傾倒し、狂信者になるだろう。

過酷で非寛容な環境の中で、多くの人に赦しや居場所を与えられる人、というのは、強力な吸引力を発揮する。

優しく大らかで、どんな時も穏やかで笑顔を浮かべている「乙女戦争」のフスが本当に好きだ。「大好き」ほど人を動かすものはない。

 

「乙女戦争」が「過酷な環境下での苦しみに満ちた生も、人への思いやつながりがあれば生きていける」ということを描いているのならば、フスの人物像はこれ以外には考えられない。そして「人を赦し、他者の居場所になることで、苛酷な環境下に生きる人を救う」フスの役目を、彼が死んだ後も主人公のシャールカがしっかり体現している。

 幼い主人公が家族を皆殺しにされてレイプされて始まるような救いのない残酷な物語なのに読んだあとに癒されるのは、死んでいった人々の思いがしっかり引き継がれていることが分かるからだと思う。

 

「死んだあとも誰かが思いを引き継いでくれるから、その死は無駄ではないし、自分の死を恐れる必要はない」

というのは「個人」が確立している価値観の中だと、すごく怖い発想だと思う。

「乙女戦争」の中で出てくる歌で死をも恐れない高揚感を得たり、「炎のラッパ」のような特攻行為は現代の価値観で見てしまうとものすごい違和感がある。

しかし「個人」が認められなかった時代では、正しいとか正しくない以前に、こうやって共同体に自らの生死もアイデンティティも密着させて生きるしかなかった。

 

「乙女戦争」の時代のほうが生きるのに大変な時代なことは確かなんだけれど、共同体に密着せず「個人」として生きることを選べば、何かを強いられることはない代わりに、「個人」としての痛みも全て「個人」で引き受けなければならない。自分で自分に赦しを与えられない場合、その罪悪感をずっと背負って生きなければならなくなる。

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(引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」8巻 大西巷一 双葉社)

現代社会は、そういう息苦しさや生きづらさの弊害がところどころに出てきているようにも感じる。「個人」を大切にするのはもちろんいいのだけれど、「個人至上主義」は偏りすぎだし危ういかもしれない。そんな風にもう一度、現代の価値観を見直してみてもいいのかな、と「乙女戦争」に癒されながら思った。

 

「理由なんてないよ。大好きだからだよ」っていいよね。