「アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治」を読んだ。
現状についてなぜこうなったのか、ということがまとめられている。
以下は自分が理解した限りのことのメモと感想。
*理解が及んでいない部分もあると思うので、興味がある人は実際に読むことをお勧めします。
「リベラル」とは何か。
国や時代、分野によって示す状態が異なるので、「リベラル」という一語で何を指し示すかを定義することは出来ない。
戦後の西側世界の状況は、本来相反する「自由を指向する政治(経済)リベラリズム」と「平等を指向する社会リベラリズム」の奇跡的な融合によってもたらされた。
「自由を指向する政治(経済)リベラリズム」は新自由主義と親和性が高く、格差を助長する。
富んで強い者がますます富んでいく「経済リベラリズム」を、「平等を指向する社会リベラリズム」によって包摂しようとしたのがマルクス主義経済の考え方だった。
「社会の富を平等に分け合うこと」を指向する「社会リベラリズム」は、「ブルジョワ・イデオロギー」と同様にみなされることもある「経済リベラリズム」に階級闘争を挑む思想だった。
この時点で「経済リベラリズム」と「社会リベラリズム」は対立するものであり、「個人の自由」と「個人の平等」は相反するものだった。
この両者が組み合わさった「リベラル・デモクラシー」が戦後に成り立ったのは、製造業を主体とする経済成長により、「中間層」が多勢を占めるようになったためである。
「個人がある程度自由に生きながら、多勢が平等に富むことができる」
ことが可能な時代であり、これは特異な状況だった。
しかし製造業が没落するにつれ「中間層」は徐々に減っていき、富裕層と「中下層」に分断されていく。
「中間層」(労働者)という大きな基盤を失った「リベラル」は、思想の軸足を「個人主義リベラリズム」「寛容性リベラリズム」に移していく。
多様化した個人のアイデンティティや価値観を追求していく方向を目指していくため、既存の一定の価値観を持った社会が解体されていく。
既存の社会に強くコミットしていた層は、「自分たちのアイデンティティの源を解体するものに対抗すること」にアイデンティティを見出すことになる。
これが「権威主義的なニューライト」の源流である。
(*思想の是非の判断はひとまずおいて、なぜ「ニューライト」と呼ばれる思想が各国で誕生し多くの人が支持するのか、という現在の状況の仕組みが語られている。)
この二者は、共有すべき社会(価値観)を持たないため分断が生まれる。
この問題は移民の問題とも重なる。
近年、組織的背景が稀薄、もしくは見出せないテロが増えているが、その実行犯の中に「移民第二世代」が多く見られた。
移民第一世代は、自分たちの故郷を否定的に見て出国したとしてもルーツを持っている。
しかし第二世代はこのルーツも持たず、自分たちが生まれた国でも疎外感を味合うと、より強くアイデンティティを求め、宗教的ラディカリズムを始めとする極端な思想に走りテロを起こす、という現象が起こる。
個人主義においては思想や宗教は目的ではなく、個人が自分が何者かを決め、主張するための手段になり、その思想や宗教の権威や歴史も届かない。
事件後に経歴を調べてもそこまでコミットしている様子がない宗教や思想を理由にした過激なテロが起こるのは、そのためではないか。
現在の過激派集団は、組織として存在する、というよりは「機能として存在する」ため、SNSなどを駆使してこういった人を取り込んでいる。(テロのウーバー化)
現代では既存の価値観は解体されるため、共同体は成立しにくい。
個人の主体は、他者(社会)との関係性によって相対的に成り立つため、共同体が解体されればされるほど個人は脆弱になっていく。
共同体が機能しなければ脆弱な個人を守るために、共同体の機能も代替する大きな国家が必要であるが、国家の中で共有していた価値観が解体され、その後全体で共有できる価値観がないため、国の中でも分断が進みつつある。
個人主義が進めば進むほど(共同体に個人が所属しなければしなくなるほど)国家が大きくならなければ、個人を守るものがなくなる。
現代がたぶんこの地点。
「是非善悪はともかく、今はこういう流れでこういう現状になったのではないか」という話で、なるほどとわかりやすかった。
現代のテロは、「社会攻撃や他者への憎悪」をアイデンティティを確立するための手段として用いるために宗教観や思想を利用する、という逆転の現象が起きているのではという指摘も出てくる。
個人主義リベラリズムを抑制的なものにするはずの社会リベラリズムの不徹底は、テロを呼び込み、国家の次元に留まるものであったはずの寛容リベラリズムは、歴史認識問題を争点化することによって絶え間ない分断と対立を社会にもたらすようになった。
(引用元:「アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治」吉田徹 講談社 p296)
「お互いがお互いを攻撃し合う」その対立軸や差異に、お互いがアイデンティティを見出し、相手の攻撃によって自分たちの正当性をさらに確信するというサイクルができているとしたら、どうすればいいのか。
この問題に気づいている人は多いと思うが、ではどうすればいいのかという回答はなかなか思い浮かばない。
一応、本書では「手がかり」としてこのように書かれている。
ひとつは個人のアイデンティティそのものを絶対的なもの、所与のものとするのではなく、それ自体を政治的討議の検討の対象とすることである。自己のアイデンティティに対する反省性を確保することで、なぜそのアイデンティティが選び取られるのかについての応答と説明の公的な責任をリベラリズムが負うことで、そこに対話の余地が生まれることになるからだ。(略)
もうひとつは、公的な政治が再分配や経済的平等性に敏感になるという、経済リベラリズムに対する社会リベラリズムの優位性の回復だ。
(引用元:「アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治」吉田徹 講談社 p298)
自分が理解した限りのことを基にして述べると、人の思想や思考、信念や価値観は自由であるべきだと(強く)思うが、一方で自分の思想を常に点検し、その思想を他者とどのようにしてすり合わせることができるか、という目を持つことが大事なのかなと思う。
「個」や「主体」は、「他者」「社会」と相対化されなければ成り立たない。
共同体の価値観に無批判に従う必要は(言うまでもなく)ないが、批判するだけでは共同体が崩壊し、むき出しで脆弱な個人だけが残る。(価値観を共有することによってのみ、共同体は成り立つ)
個人にすべてを背負わせる世界(極限の自己責任論の世界)を目指すならばそれでもいいけれど、そうでないなら本来は「個」を支え助ける機能を持つ共同体(その内部の人たちが共有する何かを持つ、もしくは何かを共有していると実感できるつながり)の崩壊自体を目的にすることは危うい。
「『間違った』価値観を排除した結果ならば、共同体はなくなってもいい」という発想が、その共同体にコミットしていた人たちとの分断を生み、「自らが生きる世界を破壊した、もしくは破壊しようとする『悪』に対抗する」というアイデンティティを与えるからだ。「悪」と断定しあえば、後はどちらかが消滅し合うまで排斥し合うしかなくなる。
「自らの思想の絶対性を疑う目を各人が持つこと」で、その中の成員で価値観をすり合わせ、「全員で新たなる共同体を作る」という目的を見失わないことが重要だと思う。
と頭では思うけれど、余りに自分から見て極端な考え方を見ると、そうは言っても難しいなと思うことも多い。
前から書いているけれど、自分は「既存の価値観を共有し、その無謬性を疑わない共同体」には疑問と不信の目を持ってきた。
そういうものの中でいかに「個」の領域を保存したまま生きていくか、ということを考えてきたつもりだけれど、それは共同体への信仰が強い時代だったから、相対的に「個」というものを重視できたのかもしれない、と本書を読んで思った。
そういう時代は、もしかしたら急速に終わりつつあるかもしれない。
多くの人が考え関与した結果の変化だとしたら、終わること自体はいいのだけれど、自分の実感としては、誰も真剣には終わらせるつもりはない(ゆえに誰もその先のことを考えていない)のになし崩し的に終わろうとしているのでは、という不安がある。
「色々なものが分断されたまま放置されているだけなので、自己を相対的に確立することができない状況」を自分より後の世代に残したくはない。と思いつつも、じゃあ何ができるのかと言われると、できることは都度都度、自分の考えを点検すること、「点検する」という作業自体を細々と発信していくことくらいだ。