ゴールデン・グローブ賞を受賞した記念に、「女のいない男たち」に収録されている「ドライブ・マイ・カー」をもう一度読み直した。
監督の濱口竜介は、原作に強く惹きつけられて映像化したくなったらしい。
確かに凄く印象的な作品だ。
村上春樹の文体と言えば独特のシニカルさがあって、「やれやれ」を始めとしてよく特徴を上げる人が多い。(それだけ特徴があるというだけで凄い)
個人的には、ある時期から文体を変えたのかな?と感じている。
元々「影響を受けた小説三選」に「ロンググッドバイ」を上げているように、ある程度ハードボイルドの影響を受けているのだと思う。
(文体としての)ハードボイルドとは何ぞや、という村上春樹の考えは「ロンググッドバイ」の後書きに詳しい。
ヘミングウェイはその登場によって、アメリカ文学の文体の可能性を革命的に大きく押し広げた。
行為こそが心理を表象すると彼は考えた。(略)
ヘミングウェイは主人公の不安や焦燥についてほとんど何ひとつ語らない。
ただ彼がどんなものを食べどんなものを飲んだかということだけを緻密に、しかし簡潔に描く。(略)
人の行為は自我の強い影響下にあり、自我によって多くの領域を支配されているがゆえに、作家は人のなす行為を具体的に精密に描くことによって、その自我の輪郭をより客体的に描くことができるというわけだ。
それがヘミングウェイの書き方だった。
(引用元:「ロンググッドバイ」レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳 訳者後書きより P542-543/太字は引用者)
別の言い方をすれば「叙事することで叙情する」。
ヘミングウェイが創設したこの文体が、ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドのハードボイルド御三家に受け継がれて、さらにローレンス・ブロック辺りのネオ・ハードボイルドの系譜に引き継がれていく。
登場人物たちは決して感情がないわけではない。むしろかなり色々と感じているが、文体からは感情が排除されているために文章が硬質化する。
類似のものに、ゴールディングの「蠅の王」のように「叙景によって登場人物の感情や関係性を示唆する」手法もある。
感情はどこまでいっても個人的なものなので、どれほど「嬉しい」「悲しい」と言葉を尽くしても、作家が考える(登場人物たちが感じる)感情と、読み手が考える感情にはズレがある。
「嬉しい」「悲しい」という記号的な言葉の使い方で、感情というとても個人的なもののコンセンサスを取ることは難しい。効率が良いようで効率が悪い。
だから「悲しい」「楽しい」「怖い」という感情の接続領域を極限まで広げるために行動や光景のみを描写し、読み手がどこにでも接続できるようにし、読み手独自の感情を想起させる。
登場人物の感情をトレースさせようとするのではなく、読み手独自の感情を呼び起こすことでそれが登場人物の感情だと錯覚させる(もしくは代替させる)。
読み手の解釈が様々なことを逆手にとって、どんな読み手であっても登場人物に深くコミットさせることを可能にする手法だ、と自分は理解している。
村上春樹が書いている通り、「もちろんうまく書かれればということだが」。
自分は例えば、「蠅の王」の、パラシュートにからまった遺体が空からスーッと落ちてきて山頂でカクカクする描写が凄く怖いと感じる。
あの描写も、「落ちて来た遺体を、少年たちが空からやってきた獣だと勘違いした」と書かれたら少しも怖くはない。
落ちてきた遺体を「遺体」と書かずに、その様子や動きを詳細に描くことで、個々人の心の中にある「カクカク動く、よくわからないもの」のイメージに接続する。
「恐怖」も人によって違うので、いくら細かく強烈に「怖さ」を描写しても、万人にとっての恐怖を描くのは難しい。
だから文章の解像度の低さを逆手にとって、読み手一人一人の「その人とって『怖い』イメージ」に接続する。
映像よりも、より「個人的」な部分に入りこむことが出来る。
自分は文章のこういうところが好きだ。
「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹が「ロンググッドバイ」の後書きでヘミングウェイが生み出したと書いた「行為こそが心理を表象する」文体を、他の作品以上に意識しているのではないか、と感じた。
「車を運転する」という行為自体が「生きる」ことを暗喩している物語の造りもそうだが、文体に強くその意識を感じる。
「一般論として?」(略)
家福はしばらく沈黙を守っていた。できるだけ長く、ぎりぎりまでそれを引き延ばした。それから言った。
「でも結局のところ、僕は彼女を失ってしまった。生きているうちから少しずつ失い続け、最終的にすべてなくしてしまった(略)僕の言っている意味はわかるかな?」
「わかると思います」
いや、おまえにはそんなことはわからないよ、と家福は心の中で思った。
(引用元:「女のいない男たち/ドライブ・マイ・カー」村上春樹 文藝春秋/太字は引用者)
感情を排した鋭利で無機質な文体が、そのまま家福が高槻に抱いた暗い感情を想起させる。
高槻と向き合った時の家福の感情の暗さは、読んでいて背筋が凍るほど怖い。これほど暗い感情を人に抱かせる喪失感とはどんなものなのだろうと思わせる。
深くて暗い穴をのぞいているような気持ちになるが、これは上に書いた通り、文体から読み手の個人的な「暗くて深い穴」を浮かび上がらせているのだ。(『暗くて深い穴ではない、別のもの』として認識する人もいるかもしれない)
どれほど強い言葉で、詳細に家福の高槻に対する怒りや妻への愛情を書いたとしても、こういう効果は出せないのではないかと思う。
村上春樹の作品で好きなものもそれほど好きでないものもあるけれど、ストーリーや登場人物という小説のソフトウェアの部分と同じくらい……というよりは、個人的にはそれ以上に文体というハードウェアの部分に相当なこだわりを持っているのだろうと感じている。
そこが一番好きなところかもしれない。
村上春樹の小説で一番好きなのは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。自分の中では、他の作品とは一線を画している。
次が「アフターダーク」。
エッセイでは翻訳関係が好き。
「叙景によって登場人物の感情や関係性を示唆する手法」と言えば、自分の中では「滝」。
自然の描写が美しくて怖い。