実際の事件をモチーフにしている
桐野夏生の小説「グロテスク」は、1997年に起こった東電OL殺人事件をモチーフにして書かれた小説である。
「東電OL事件」は、
慶應義塾大学を卒業して東京電力の総合職として働いていたいわゆる「バリキャリのエリート女性」が、実は退社後に路上で客引きをして売春を行っており、その仕事中に殺されたという事件である。
余りに衝撃的な事実に、当時、相当騒がれたと思う。
「グロテスク」は読むのがキツイ小説
「グロテスク」は、三人の女性を中心にして物語が語られる。
「悪魔的」と評されるすさまじい美貌でチヤホヤされるが、周囲から「女性という性しか必要とされない」ユリコ。
「周囲から承認されること」「ありのままの自分を愛してくれる男性」を望み、努力を続けるが、そのすべてが空回りし周囲から嘲笑われ、孤独に落ち込んでいく和恵。
そんな二人と同じ土俵に立たず、「ユリコは顔がいいだけのバカ」「周囲に認められたいと望む和恵は滑稽」と、二人を嘲笑いマウンティングすることで自我を保っている「ユリコの姉」
その三人が、それぞれの内面を語りながら物語が進む。
「グロテスク」は読むのがキツい小説だ。
暗い内容や残酷な内容の小説は他にもあるが、読んだあと三日間くらい鬱のように落ち込んで立ち直れなかったのは、後にも先にもこの本のみである。
何故なら、「ユリコ」「和恵」「ユリコの姉」は、女性ならば誰もが持っている一部分を拡大した存在だからだ。
特に「ユリコの姉」の自分より劣っていると認識したものに対する底意地の悪さ、上から目線の批評、悪意でドス黒く染まった嘲笑はすさまじい。
だがそのすさまじい悪意は、女性ならば誰もがどこかで聞いたことがあり、どこかで語ったことのある言葉だ。ネットの女性専用の匿名掲示板を覗くと、まったく同じような言葉が語られている。
生まれつきの美貌を最大限武器として使い、生きる。
よい大学を出てよい企業に入り、男と同等の待遇で働き生きる。
自分を女性という性だけではなく、唯一無二の存在として愛してくれるパートナーを探す。
女性としての生き方は諦め、その土俵には立たず生きる。
グロテスクの三人の女性たちは、それぞれの女性としてのルートを生きる。
しかし、どの生き方も最終的には地獄のような場所につながっている。
どのルートも違う地獄につながっている
すさまじい美貌を持つユリコは、自分を性的な目でしか見ない男性たちを利用して生きることを選んだ。
高級なドレスを身にまとい「自分の足では歩いたことがない」ユリコ。最盛期には、三十万円払うから一晩を共にしてくれと懇願されていた彼女は、年をとって美貌を失い、最終的には「立ちんぼ」と言われる売春婦になる。
有名大学を出て大企業に総合職として入社した和恵は、男から女性として見られたことがない。
懸命に働いても、誰も褒めてくれない認めてくれない。
家と職場を往復し、年をとった母親の面倒を見るだけの生活に嫌気がさして、和恵は売春を始める。
「昼間はエリート社員、夜は売春婦」
自分は、そういう特別な女なんだ。
売春相手の男たちも、有名私大を卒業していると言ったり、大企業の社員証を見せると、「君みたいな人が何で売春なんてやっているの??」と目を丸くして驚いてくれる。「昼間は、大企業のエリート社員である女を買った」事実に、満足してくれる。
「ただ男性に自分のことを見て欲しい」
和恵は売春を続けるが、求めても求めても「本当の自分を認めてくれる人」に出会うことはできず、精神の均衡を崩す。ついには三千円という安い金で自分を売るようになる。
そして、最後は安アパートの一室で殺される。
ユリコが同じ「立ちんぼ」として和恵に再会したときに、和恵に言う。
「私は男は嫌いだけれど、セックスは好き。あなたは逆なのね。男は好きだけれど、セックスは嫌い」
和恵が売春をしたのは、お金が欲しいからではない。ただ、自分という存在を誰かに愛して欲しかった。それだけなのだ。
でも、金で女を買った男が必要とするのは、和恵の「女性という性」だけである。
優しい言葉をかけてくれる。愛と似た言葉を与えてくれる。
でもそれは、和恵が本当に求めているものではない。
今までの人生で誰も与えてくれなかったから、ニセモノの中にもしかしたら「本当に自分が求めているものがあるのかもしれない」とただ信じて、どんどん深みにハマり、自分という存在を極限まで削り続け、そして最後に殺される。
和恵が一人称で語る「肉体地蔵」の章は、正視に堪えない地獄である。
女性は最終的には、全員「ブス」になる
「若さと美しさ」
持っているだけで、周りがチヤホヤしてくれ、下駄をはかせてくれたこの無敵の武器が失われたとき、代わりにどんな武器を持つのか。
そのことを考えておくのが女性の人生では大切なのではないか、と個人的には考えている。
だから、この武器を使えるうちに使っておけばいいと思う。その使い方をきっちり学び、うまく使いこなし、戦い、実績を積んでいく女性はむしろ賢いと思う。
それを使いながら、「外見など関係なく、自分を唯一無二の存在として認めてくれるパートナーや家族」を見つけ、家庭を作り上げてもいいし、「老若男女誰からも人間としての魅力を認められる存在」を目指してもいい。
仕事で実績を積み、「仕事が生きがい、組織に必要とされる存在」になってもいいと思う。
「女としての評価以外の評価」で自己実現できる場所を作っておかないと、年をとればとるほど生きるのがキツくなってしまう。
本来は「女性性」と切り離された「人間性」だけで、評価されることが理想だと思う。
しかし言葉では「人間性が大事」という綺麗事を語っていても、自分に何の利益をもたらさない存在の承認欲求を満たしてくれるほど、他人は優しくも甘くもない。
他者からの評価に自分の価値を見出そうとする限り、結局は地獄を生きていることになるのかもしれない。
若さと美貌を失ってホッとした
若いころは誰もが羨む美貌を持っていたユリコは、年をとってその美貌を失い、「立ちんぼ」にまで身を落とした。かつて自分の靴を舐めるようにしてチヤホヤしていた男たちから、「整形に失敗した顔みたい」と嘲笑われるようになる。
しかし、ユリコは「悪魔的」と評された美貌を失って、むしろホッとしたと語る。
自分を「若く美しい女」としてしか見ない周りの人間を、ユリコは恐らく心の底から憎んでいたのだろう。
「整形に失敗した顔みたい」と言われながら、安い金で身体を売る人生がユリコにとっては安住の地なのだ。
他人の評価などわずわらしく、どうでもいい。
そう心底思えるならば、他人からは地獄に見えても、そこが天国なのかもしれない。
まとめ
「グロテスク」は全ての女性が持つ、あらゆる悪意、あらゆる地獄を追体験させる、女性にとっては読むのが非常にキツい小説である。
それでも、ページを繰る手をとめることができず、読みだすといっきに読んでしまう。
何故か?
それは作者の桐野夏生が、同じ悪意を持ち、同じ地獄を生きる、同じ女性としてこの物語を強い共感と共に執筆したからだと思う。
決して、有名な作家である自分とはまったく違う、愚かな女たちの生態を上から目線で書いた小説ではない。
モチーフとして扱った事件の被害者を「売春するなんて理解できない」「自分とはまったく違った存在」という目で見ず、同じ苦しみを生きる女性として理解し、共感しようとした姿勢が、こういう優れた小説を生み出したのだと思う。
個人的には桐野夏生は「普通の人間の悪意を書かせたら、日本一うまい作家」だと思っているが、決して「自分が持たない、自分とは関係ない、悪意を持つ愚かな人間」という書き方はしない。
自分も同じ悪意と愚かさを持っている。
自分は桐野夏生のこういう姿勢が、とても好きである。