*大変申し訳ありませんが、この記事は読んだ人を不快にさせる可能性があります。自分はどんな内容の記事でも、誰かを不快にさせたり傷つけたりする可能性があると考えていますが、一応お断りしておきます。
ネットをやっていると
「人を不快にさせるようなことは書きたくない」
「自分が不愉快なことは、他人にもしたくない。そういう記事は書きたくない」
そういう言葉を見ます。
自分にとっては、こういう言葉が一番不快です。
こういう言葉を見たときに思うのは、「なぜ、会ったこともない赤の他人が不快に思うことが、自分に分かると思うのか」ということです。
なぜ、他人の快不快を自分基準で考えるんだろう???
その発想が、すでに自分には不快です。
これがリアルなら(まだしも)分かります。
リアルは、接する相手の環境や価値観、どういう立場の人間かということが分かっていることが多いからです。
「この人は、いま就職活動にすごく苦労して悩んでいる」
そう知っていれば、「もしかしたら、自分が内定をもらったという話は聞きたくないかもしれない(その可能性が高い)」と想像して、その話題には触れないと思います。
しかし、ネットはどんな環境のどんな考え方のどんな価値観のどんな立場の人間が見るのか分かりません。
「給料増えました」と書けば、給料が上がらない誰かが不快に思うかもしれない。
「赤ちゃんができました」と書けば、子供を持てない状況の人の心を傷つけるかもしれない。
「ゲームの最新作を買ったよ。感想を書くよ」と書けば、ゲームを買ってもらえない家庭にいる子供が涙を流すかもしれない。
それどころか、こんな平和で明日食べるものも困らない環境でブログに自分の好き勝手なことを書いていることじたいを羨み、世界の不公平さ、不公正さに強い憤りを感じている人間がこの世界にはたくさんいると思います。
そういう人たちが、資本主義を主導している国の人間に自分の命を捨ててでも、自分たちが抱えている憤りを、強い怒りを憎悪を、思い知らせようとしてさかんにテロを行っています。
自分たちが呼吸して、生きて笑っているだけで、不快に思う人間がこの世界には大勢います。
ネットでモノを言うというのは、そういう人たちが見る可能性がある場でモノを言うということだと思います。
そういう人たちが見るかもしれない場所でブログを書くことは、自分の意思で決めたと思うのですが、そういう人たちの不快はどうでもいいんでしょうか???
ネットは全世界の人が見る可能性がある場なので、「見る人が不快にならないものを書く」ということは「全世界の人が不快でないものを書く」ということだと思うのですが、不可能だと思います。
少なくとも自分には無理です。
「そういう人全員が何を不快に感じるか自分には分かる」と考えているのなら、それもいいでしょう。
ただ、少なくともそう書いてあるものを読んだ自分の不快さを想像できていません。
自分は日本で生まれ育って、恐らく中庸な家庭の育ちで、それほどお金持ちでもなくそれほどお金に困っているわけでもなく、普通に仕事をして大病を患ったこともなく、平和な家庭で生きている、ごくごく平凡な人間ですが、そういう人たちは、そういう自分が何に快不快を感じるかすら想像できていません。
それとも「自分が快不快に感じることが絶対的な基準で、それを守っているのに、それ以外のことで不快を感じる人間のことなんて知らない。自分の中の快不快の基準だけを守って、全世界に向けて発信し続ける」そういうことでしょうか??
「自分の快不快の感覚が絶対的なものであり、それさえ守っていれば、読んでいる人全員の気持ちを思いやっていることになるのだ」そういうことなんでしょうか??
個人が限られた環境で生きてきた中で培った「不特定多数の赤の他人が何を不快に感じるか」という知識や想像力なんて、たかが知れています。
ある程度背景を知っている相手ですら、不用意な一言で傷つけてしまうことがあります。
そんな自分の人生経験だけから得た知識や想像力に基づいて、
「自分は善意に満ちた、人が快になるものしか書いていない。自分は一生懸命他人を思いやっている。なのにそれに文句を言う奴はおかしい」
という考えの傲慢さとその想像力の乏しさを、自分は不快に思うと同時に心の底から軽蔑しています。
自分が愉快だ、美しい、正しい、楽しい、そう思って言ったことが、誰かを傷つけてしまうことなんてざらにあります。
「他人は自分じゃない」
だから、その人の立場を想像することが大事だと自分も思います。
思いやりは大切です。
でも、ネットはどこの誰に向かって発言するか、自分の発言を誰に読ませるかは自分では選べません。
どんな立場かもわからない、思いやりようもない人が見る可能性があると思います。
自分はネットでモノを書く人というのは、てっきりそういうことを覚悟のうえで、それでも書きたいと決めて書いているのかと思っていました。
誰かを不用意に傷つけてしまうかもしれないけれど、それでも書きたい、そういう事実も全部覚悟して書いている、のかと思っていました。
誰も不愉快にさせたくないのなら、誰も傷つけたくないのなら、何も書かないことが一番だと思います。
せめて、ある程度背景が想像できる人に限定して公開するといいのではないでしょうか??
「自分は他人にとって快なことを想像して書いたのに、ちゃんと人を思いやっているのに、不快に思うなんておかしい奴だ」
そう思われて不快に思う人が減るだけ、自分はそちらのほうがいいと思います。
実際に、そんな発言をしている人をけっこう見かけます。
自分の貧弱な想像の枠内だけでしか快不快を考えてないでネットに発信しているのに、
「自分はちゃんと想像力があって、読む人を思いやったことばかりを書いている」
という傲慢さ。
そしてその自分の感覚だけを絶対視している傲慢さに気付かず、自分は思いやりに満ち溢れていた人間だし、正しく優しいことしか言っていないと信じている人間の言動に、自分は非常に不快さを感じます。
この平和で豊かな日本で生まれ育ち、生きるか死ぬかの苛酷な環境も味わったこともない自分が、趣味の記事を能天気に書いているだけで、その不公平さに怒りや憎悪を感じる人がこの世界にはいる。
ネットに発信するということは、そういう人に自分の書いたものが届く可能性もあるのだ、そういうことを自分は自分の意思でやっているのだ、その事実を忘れたくありません。
「お前が書いていることよりも、もっと重大な問題がこの世界にはたくさんあるだろう」
そういう尤もな前提のうえで、それでも自分の好きなことばかりを書き続けている。
「赤の他人の状況の苛酷さなんて知らない。自分は自分の書きたいことを書く」
そういう自分の傲慢さや自己中心性、想像力の欠如からくる残酷さを、せめて認識しておきたいです。
自分も、他人のことは故意に傷つけたくありません。
でも、傷つけるつもりはなくても、傷つけてしまったことはあります。
「そんなつもりじゃなかったのに」思わぬ反応をもらったこともあります。
自分の言葉が、誰かを傷つけるはずがない。だって、自分にとっては正しく温かい、他愛のないものだから。
自分が相手が不快にならないように気をつけていれば、相手が不快になるはずがない。
この考えは、ものすごく傲慢だと思います。
こういう傲慢さを平然と語る行為こそ、自分は最も不快です。
誰かにとって不快でも、それも仕方ない、そう思われても自分は書きたいと思ってこのブログを書き続けています。
誰のためでもなく、自分が書きたいから。
意図せず他人を不快にし、他人を傷つけてしまったとしても、それでも書き続ける。
誰のためでもなく、誰の役にも立たなくても、誰かを傷つけても、誰に不快に思われても、傲慢で全世界の他人のことを思いやれない、会ったこともない人間の快不快が分からない自分は、ただ自分自身のためだけにこのブログを書いて、どんな状況にいるかも分からない多くの他人が見るネットで発信し続けています。
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ネガティブな反応がきたら、「お前の不快なんて知るか」って言い返していいと思う。もしくは「知ったこっちゃない」ってスルーすればいい。その人を標的にして言ったわけではないのに、赤の他人のネガティブな感情なんて受け取る必要も義務もないし、気にする必要もないと思う。
でも、不特定多数の人間が見る場で、自分で発信しておいて
「自分は他人が不快になるようなことなんて書いていないのに。自分は、読む人の気持ちをいつも思いやっているのに。こんな反応をする奴がおかしい。傷ついた」
っていうのは勘弁して欲しい。
自分の発言が誰も傷つけるはずがない、そう思うのは傲慢だと思う。
「自分が不快に思わないことが、他人にとって不快であるはずがない」そう思うのは傲慢だと思う。
他人の快不快を決めるのは、その人自身だ。
故意にやったことでもないのに、不快に思われたなら、それはそれで仕方ない。そのことも覚悟のうえで、ネットでは発信するべきだと自分は考えている。
せめて自分が「他人のことなんてたいして気にかけず、好き勝手なことを発信し続ける傲慢な人間だ」ということに対しては自覚的でありたい。