「信頼のできない語り手」とは。
「信頼のできない語り手」という技法を用いている物語があります。
主に推理小説やサスペンス、ホラーなどのジャンルに用いられる技法です。
「信頼のできない語り手」に物語を語らせることによって、物語自体にトリックをしかける、物語を重層化する、物語の世界観を不安定にして読み手に不安感を与える、真相やテーマを考えてもらい、テーマをより強調する、などのために用いることが多いです。
当ブログでも過去に取り上げたことがある桐野夏生「グロテスク」も、「信頼のできない語り手」を用いています。
「信頼のできない語り手」が一番うまく作用している小説は…。
「信頼のできない語り手」が最も上手く作用している、と思う物語は、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」です。
有名な物語なので、読んだことがない人の中には「ロマンチックな恋愛小説」というイメージを持っている人もいると思いますが、男性が女性を血まみれになるまで殴るDV描写が出てきたりと割と陰惨な物語です。
「嵐が丘」は様々な登場人物が乳母のネリィに自分の経験したことを語り、その聞いた話を乳母のネリィが、外から嵐が丘にやってきた男・ロックウッドに語るという物語全体がマトリョーシカのような構造になっています。
エミリ・ブロンテはその時代の倫理に反するこの物語を書くにあたって「これは自分にとってはまた聞きくらいの話で、よく知らないのですが」というエクスキューズをするために、いわばやむえずこういう構造をとったのではないか、と「世界の十大小説」の中でモームが推測しています。
物語上の効果を狙ってこういう構造にしたわけではないらしいのですが、結果的にこのマトリョーシカ構造が「嵐が丘」をより面白い物語にしています。
直接の聞き手であるロックウッドも話し手であるネリィも、この時代の常識的な倫理観を持つ人物であるために、ヒースクリフとキャスリンの狂気のような愛情や復讐心や加虐嗜好を理解することができません。
話し手であるネリィは、「よく分からないけれど、こういう異常なできごとがありまして」という態で話し、聞き手であるロックウッドはその感情のすさまじさを理解することができず(理解しようとすらせず)、ただただ娘のキャスリンの美しさに浮かれているだけです。
話し手も聞き手も自分たちが語り聞いている物語の真の意味に気づくことができず、ただただ異常だと思っているがゆえに、読者は逆にその善悪の観念を越えた誰にも理解することができない出来事のすさまじさに心を打たれることになります。
キャスリンとヒースクリフのそばにいて、その愛情をずっと見てきたネリィにも理解できない、恐ろしいと感じることしかできない、そういうことが伝わるために二人の愛情の神秘性が余計に高まる、「嵐が丘」はそういう構造になっています。
このように「信頼のできない語り手」の用法は、「語り手」の無理解と的はずれな主張を利用することによって、その対極に位置する真相を、直接的に語るよりも強く印象づけることが可能になります。
または、その世界を構築する「語り手」が信頼できないがゆえに、小説の世界そのものを不安定にさせる効果も狙うことができます。
「信頼のできない語り手」は二パターンある
「信頼のできない語り手」は、主に二パターンに分かれます。
①何らかの意図により、語り手が意図的に情報を隠したり、虚偽を話したりしている。
②語り手が性格的、能力的、心情的など、何らかの理由で事実を誤認している。(本人は真実を話していると思っている。)
簡単に言えば、語り手が自分は嘘をついていると認識しているか、真実を話していると思っているかの違いです。
書き手の方が意図してやっているのかは分かりませんが、自分が読んでいるブログの中のいくつかは、この「信頼のできない語り手」の物語を読んでいる気持ちになるものがあります。
ブログにおける「信頼のできない語り手」も、上記の二つのパターンに分かれます。
パターン①の場合は、「ウソか本当か分からない」というよりは、「ウソでも本当でもどちらでもいい」という感覚になります。
「奥さんがいる」というが、本当にいるのかどうかわからない。
非正規雇用で貧乏だ、というがそれが本当かどうかはわからない。
本当でも嘘でも、それはどちらでもいい。
その書き手の人が本当にこのブログに書いてあるような人なのかどうかは分からないけれど、それもどちらでもいい。
話していることが面白ければ。
そういうお約束のもとに、読み手も記事を読んでいる。
そもそも「事実かどうか」ということを、記事の担保にしていない。
このパターンは、いわば職人芸なので(恐らく実際にこの手法で読者を楽しませるのは、けっこう難しいと思う。)安心して感想を書いたりツッコミをいれたりして楽しく読んでいます。
問題はパターン②のほうです。
例えば本人は「冷静です」と言っているのに、明らかに感情的になっている、本人は「自分はこういう人間だ」と語っているけれど、読んでいると明らかにそうではない、やっていることはどっちもどっちなのに、本人は自分は一方的な被害者だと信じ込んでいる。
つまり書き手が「そう信じていて、だから自分をこう見せたい」と思っていることと読み手が読んでいて感じることが明らかに違うとき、ぞわぞわした感覚に陥ります。
「ちょっ……言っていることとやっていることが違う……」
と突っ込みを入れたくなります。
で、突っ込みを入れたくなるがゆえに、どれほどイライラさせられようとそのブログをつい読んでしまいます。
その人の言っていることがどう変遷しているか知りたくて、過去記事を読んで時系列で並べたり、どこがどう矛盾しているか、推理小説を読むように考えたりなど、だいぶ熱心な読者になったりもします。
ぞわぞわ感が大きすぎると逆にまったく読めなくなるので、数は少ないです。
ちなみに書き手の「自分をこう見せたい」像と読み手が読みとる書き手の情報がかけ離れていればかけ離れているほど、ぞわぞわ感が大きくなります。
(内容が過激でもここがかけ離れていなければ、まったくぞわぞわしないし、一見、すごくまともなことを書かれていても、かけ離れているとすさまじくぞわぞわします。)
感情と理屈と感覚がごっちゃになったリアルタイムの会話は矛盾して当然だと思いますが、聞いているほうも前後のつながりを明確に覚えているわけではないので、それほどは気になりません。
しかし文章の場合は、記録に残ります。
「自分の認識している世界」と「他人が認識している世界」のズレがあるうえに、そのズレが記録として残っています。ブログ自体は好きな内容を書いていいと思いますが、その認識のまま他人と絡むともめる確率が飛躍的に高くなります。
それが「信頼のできない語り手パターン②」の目印だと思っています。
それが極限まで行きつくと「自分の認識している世界の崩壊」=アカウントなりコテハンなりブログなりを消すハメに陥るのではないか、と思ってます。
ネット上で起こった過去の事件のことを思うと、何か起こったときに、それらを消してことが済むのならばむしろ運がいいほうだと思いますが。
悪い人、というわけではないのだろうけれど、「こういうことはどんな理由があれ、やってはいけないだろう」「なぜそれをやってはいけないのか」という感覚の共有ができない人は、個人的には性格が悪い人以上に厄介だと思っています。
厄介さというのは、性格がいい悪いには余り関係がないような気がします。
なので、自分はそういう人は、あくまでフィクションとして楽しませてもらうことにしています。実は、フィクションかもしれないですし。
あのドラマ、突っ込みどころ満載でイライラしながら見ていたけどそこが面白かったのになあ、文句ばかり言っていたけれど、打ち切らない欲しい。そしてまた文句を言いたい。でも、投書するほどじゃないし。
そんな感覚に近いです。
「信頼できない語り手」の手法はその効果が発揮できるか難しけれど、ハマったときは読んでいるほうはとてつもなく面白く感じる技法だと思いました。
訳文によって、だいぶ印象が違うけれど、岩波文庫版は会話がかなり粗野な雰囲気でいいと思います。
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