うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「グノーシア」をもっと楽しむ。「グノーシス 古代キリスト教の『異端思想』」感想

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「グノーシス主義」の本で読んだ二冊目だけれど、先に本書を読んだほうが良かった。

 

前回読んだ「グノーシスの神話」は、それぞれの派閥の神話の内容を見ていく本で「グノーシス主義」の分布や歴史の全体像は掴みにくかった。

それに対して本書は、「グノーシス主義」が歴史上どの地点に出てきて、どう発展して、どういう派閥があるか、個々の派閥はどんな考え方でどんな特徴があるか、「正当多数派キリスト教」との関係やお互いに与えた影響、比較はどうなっているか、を一通り説明してくれている。

現代の地点から俯瞰してみた場合、「グノーシス主義とは何なのか」ということがわかりやすい。

「グノーシス主義」の入門書、ガイドブック的な本で、この本で興味を持った部分があればさらに詳しい本を読むといい……と本書内でも勧められている。

 

「『グノーシア』で『グノーシス主義』に興味を持った」という自分みたいな人には、すごく面白いと思うし読みやすいのでおススメ。

 

「グノーシス主義」の概略が掴めるという以外でこの本の面白かった点は、所々で語られている学問や研究に関する姿勢や研究材料に対する興味の持ち方だ。

個人的にはこの論が滅茶苦茶面白かった。

 

以下、自分が面白いなと思った部分や印象に残った点。

 

「グノーシス主義」は異端であるため、歴史的文献がほとんど残っていない。

ナグ・ハマディ写本以外は「グノーシス主義」そのものを語った文書ではなく、「グノーシス主義」を批判したり「なぜ異端なのか」ということを論ずる「正当多数派」の文献から、「グノーシス主義」を知るという方法がとられている。

 

例えばテルトゥリアヌスは、「グノーシス主義」の一派であるマルキオン派を批判するための「マルキオン反駁」の中でマルキオン聖書から大量に引用して批判を展開している。

「グノーシス主義研究」の権威であったハルナックの時代までは、テルトゥリアヌスが「『マルキオン聖書』から引用して、マルキオン聖書を批判する」と宣言しているので、「その引用が正しく引用されている」という前提で研究を行っていたが、そもそもテルトゥリアヌスの時代は、現代とは引用の作法が違う。

マルキオン自身も聖書の引用で「マルキオン聖書」を作っているが、正確な引用ではなく改ざんしているため、「改ざん者」という批判をされている。

「現代とは引用の作法が違う」ということを考えずに「『引用している』と言っているのだから、その引用が正確なはず」という前提で研究を進めるのはいかがなものか、という疑問が呈されている。

 

ともかく「相手の武器」すなわちマルキオン聖書をまずきっちりと引用しておかなければ、戦術的に意味がないということになるだろう。つまり、この文書におけるマルキオン聖書の引用は、信頼できる、と、このように素直かつ楽観的に考えてしまいがちで、またハルナックもそう考えていた。(略)

それが成り立つのは、いちいちマルキオンもしくはマルキオン派の論客が読者の側に控えていて、テルトゥリアヌスが間違って引用したら直ちに「異議あり」の声が飛ぶという仕組みが成立している場合だけである。(略)

「テキストを文字通りに引用する」という事柄を現代のような意味で理解してしまうなら、先ほどの繰り返しだが、アナクロニズムに陥ってしまう。

つまり、テキストを引用する際には原文を一言一句変えてはならない、変更するならそれを明言するというモラルを、古代の人間は共有していなかった。

 (引用元:「グノーシス 古代キリスト教の『異端思想』 筒井賢治 講談社 P166-P167/太字は引用者)

 

言われてみれば「引用する」という言葉も、現代と同じ「引用する」を意味するかどうかはわからない。

しかしハルナックの時代までは、そこは当たり前のように「引用すると言っているのだから、正確な引用だ」という前提だったなら、研究者でもハマりやすい落とし穴なんだなと思った。

 

もうひとつは、研究というのは、ある主張や教義と行動のあいだの矛盾を突いたり、その論理や行動の是非を問うものではなく、その矛盾を事実として積み上げてさらなる事実をつきとめていくものだ、という考えだ。

例えば「グノーシス主義」は今、生きている世界を悪魔視するが、集団自殺は少ない。

「グノーシス主義」を異端視する論者からも、「さっさと自殺してこの世界から去ってしまえ、とっとと『故郷』に帰れ」と挑発されていたことに触れて、「理屈と行動は違う」ということを述べている。

ある思想の論理があった場合、そのトンネルを通してつい、「こういう論理を述べているのだから、こういう行動になるのでは」という推測をし、あたかもそれが事実であるかのように思ってしまう、というのは思想史の研究でよくある誘惑らしい。

 

思想史の研究によくある誘惑だが、歴史上のあるグループがある主張を掲げていた(ということが確認された)場合、その主張からわれわれは頭の中で論理的に引き出された結論を、そのまま歴史上の現場に投げ戻したくなってしまう。(略)

しかし、問わなければならないのは、あくまで当事者たちがそういった結論を引き出したのかどうかである。(略)

つまり、当事者になったつもりで研究者が実践的な結論を引き出すようなことは、学問的な歴史研究においては避けなければならない。グノーシスが世界拒否のスローガンを掲げていたとしても、それが実行されたかどうかは、論理ではなく、あくまで証拠によって判断されなければならない。

 (引用元:「グノーシス 古代キリスト教の『異端思想』 筒井賢治 講談社 P212-P213/太字は引用者)

 

「私がこの立場ならこう考えこう行動する」という推測や想像は、例えば現実の問題を対処するときはある程度有効な方法だけれど、歴史研究においてはご法度、という考え方に「なるほど」と思った。

確かに「引用」の言葉の定義ひとつとっても、現代とはまったく違う。

自分とはかけ離れた時代、かけ離れた場所、まったく違う世界で生きていた人の考えを「自分だったら」と置き換えて推測しても、余り実りがあるとは思えない。

即時的にフィードバックがないのでその推測を基にしてどんどん考えを進めてしまうと、研究ではなく思想(妄想)になってしまう危険が大きそうだ。自分の脳内で楽しむお話なら、それでいいのだろうけれど。

 

このあたりは研究者のあいだでも姿勢が分かれたり、認識の差があるように読めたけれど、こういう「そもそも歴史研究とはどうあるべきか」という考え方が面白かった。

文献ひとつひとつを読み込んで、積み上げていくような地味な作業の連続なのかもしれないけれど、読んでいると不思議と楽しそうだ。

 

本書の最後で「グノーシス主義」の「世界否定の精神性」のようなもののみをとらえて、初期キリスト教史から外れた場所、例えば仏教や現代の事象にそれを見たりするのは、ちょっとどうなのかということが語られている。

自分も強引に何もかもに当て込むのはピンとこないけれど、「グノーシス主義」の「世界否定」「本来の自己のあるべき姿、あるべき場所がある」という世界観自体は、「グノーシス主義」をまったく知らない人でも直観しやすい世界観だから、そういうことが起こりやすいのかな、とは思う。

 例えば鬼束ちひろの「月光」や「鬼滅の刃」の伊黒の独白などは、「グノーシス主義」を想起する。(もしかしたら「グノーシス主義」から引いているのかもしれないが)「グノーシア」のようにネット社会と結びつけてたりということも、考えたくなる。

現世に絶望した人が肉体と魂を分離して、高次の次元で本来の自己(魂)に戻る、肉体はそれを妨げる牢獄である、という考え方は、世の中に幻滅した人が想起しやすい考え方だから、つい結び付けて考えたくなるのかもしれない。

 

自分は今のところ、いま生きている世界とか生活に十分満足して特に幻滅もしていなけれど、「グノーシス主義」が知れば知るほど面白い考え方だなと思うのは、自分が仮に現世に生きることに失望したときに、こういう考え方が思い浮かびそうだなと思うからだ。

退廃的で絶望的なロマンがあるように思う。

そのロマンに引っ張られるのは芸術や創作の世界ではいいけれど、研究の世界では駄目ですよというのは、そうだなと思うけれどね。

グノーシア - Switch

グノーシア - Switch

  • 発売日: 2020/12/17
  • メディア: Video Game