2017年10月15日(日)22日(日)に放映された「ザ・ノンフィクション 人殺しの息子と呼ばれて 24歳青年の地獄の人生 前後編」を見た感想です。
見ていてとてもキツい内容で、正直記事を書こうか悩みました。
ただご本人が、今回取材を受けたのは、ネットで様々なことを書かれることに非常に苦しみを感じていて自分自身で自らのことを話したいと思ったからだ、と言っているのを聞いて、本人の言葉が伝わるささやかな助けになればと思い書くことにしました。
自分も見始めて知ったのですが、日本三大凶悪事件に数えられている北九州監禁殺人事件の犯人二人の息子さんです。
北九州監禁殺人事件
余りに残酷で異常な事件で当時報道規制がされていましたが、本が何冊も出ているので知っている方も多いと思います。
「家族を支配下において殺し合いをさせる」
というのは一見、荒唐無稽な信じがたいことです。この事件への意見として「なぜ大人が何人もいて、たった一人に支配されたのか」というものもよく聞きます。
その点に関しては主犯である松永の人間というものを知り尽くした巧妙な手口、事件の経緯を知れば知るほど、自分や周りの人が巻き込まれたとき果たして同じ末路を辿らなかっただろうか、と思います。
この事件については自分も思うところが非常に多いのですが、今回は事件そのものについてはこの辺りにしたいと思います。
息子も虐待されていた
一審では死刑判決が出た緒方純子ですが、無期懲役で刑が確定しました。
特に法律には精通していない人間ですが、緒方純子が事件前に何度か松永の下から逃げようとしていたこと、自らも虐待を受けていたことなどを考え合わせると妥当な量刑だと思います。
この事件は松永は命令を下して、親族がお互いに虐待や暴力を行っていたので「生き残れば加害者、死ねば被害者」というものだったと思います。
今回の取材で明らかになったのは、息子も松永から「食事の制限」「風呂に頭を沈められる」「通電」などの虐待を受けていたことです。息子が二人いるのですが、命令してお互いに通電を行わせるなど、手口は緒方の親族にやっていたのとまったく一緒です。
幼い息子を二人だけでアパートの一室に住まわせ、監視カメラで見張っていたそうです。
「監視カメラを範囲外にいてはならない」「パン一枚で一日を過ごせ」などルールで相手を縛り、支配するやり方も一緒です。そして松永の機嫌を損ねたり、ルールを破ったりすれば通電が行われる。
「あの時はそれが当たり前だと思っていたけれど、今思えば人間と思われていなかった。動物のしつけと一緒だ」という言葉にどうしようもない気持ちになります。
俺がやったわけじゃない
両親が事件で逮捕され、施設に預けられた息子は、小学校に通い始めます。
彼は「楽しい」「好き」という感情がわからないと言います。そんなに強い言葉ではなく淡々と話しているので「そういう人もいるのか」程度で流してしまいがちですが、ずっとそのインタビューを聞いていると、彼がどれほど自分が本来あるものを不当に奪われて、そのことに気づく手立てさえ与えられなかったのかということに思い至って寒々とした気持ちになります。
彼の生い立ちはそれとなく噂で広まり、同級生の中には「お前の親は人殺しだ」という人間も出てきたそうです。
その時に彼は「俺がやったわけじゃない」と言い返しました。
自分も彼が言ったことが絶対的に正しいと思います。
親の罪や所業は子供には関係ない。心の底からそう思います。
ましてや彼は「加害者の子ども」であるかもしれませんが、一方で「被害者の親族」でもあります。
本来ならば二重の意味で保護され、ケアされなければならないと思います。
でも自分が彼の知り合いで「北九州監禁殺人事件の犯人の息子である」と知って、なおも普通の付き合いができるか、本当に正直なことを言ってしまうと難しいと思います。
自分がこの事件で学んだことは「この世に縁というものほど怖いものはない」ということです。縁というものは一度つながってしまうと、非常に強引な力で断ち切らないと一方的に切るのが難しい。人は人の中で生きているので、本来は相手を気遣い、色々なことをなあなあにしてしまいがちです。
この事件の詳細を知れば知るほど、自分と自分の家族を守るためには、どこかで強引に手足を引きちぎるように親族の縁を完全に断ち、遠くに逃げるしかなかったと思います。当たり前ですが、自分の子どもや兄弟、親の縁はそんなに容易く見捨てられるものではありません。何とかしよう、何とかなるだろうと思ううちに、その渦の中に巻き込まれてのっぴきならないところまで連れていかれてしまう。
松永というのは人間の常識が通じない災厄と考えるしかない男で、縁がつながったとたん、自分も家族も全て災厄に取り込まれてしまう。なまじ対処しよう、飲み込まれた相手を救おうなどと考えず、とにかく全力で縁を引きちぎって逃げるしかないのではないか。
世の中には、そういう人の手には負えない怪物のような存在がいるのだと、この事件を知れば知るほど思います。
そう考えてしまうと、いくら理性で「親の罪は子供には関係ない」「むしろ彼だって、松永の被害者なんだ」と思っていても、そこに縁ができること自体に本能的な恐怖を覚えてしまいます。
そういう自分に対する情けなさも、「北九州殺人事件の犯人の息子」という存在ではなく、本人の言葉を聞いてみたいと思った理由のひとつです。
多くの人に、まずは聞いて欲しい。
番組は見ていて、非常に気が重くなるものでした。
事件について文字で読むのももちろん辛いですが、実際にそれを目撃したり味わったことがある人が肉声で話す衝撃はまったく違います。
息子は事件のことについて話すときも、それほど感情を高ぶらせたりはしません。
事件当時について覚えていることも、その後の学校生活についてもまったく同じ口調で語ります。彼にとってはどちらも、同じように人生の一部なのだ、そう思いました。
そして逆に、そのことが聞いているほうは背筋が凍りつくほど怖いです。
息子の言葉を聞いていると「なぜ、被害者たちは虐待に抵抗せずに殺されたのか」ということが分かるような気がします。
非常に重い内容ですが、見てよかったと思いました。
彼が実際に自分の言葉で話し、その姿を見て、その内容ではなくその所作のひとつひとつで事件のことや犯人のこと、残虐な事件の犯人の息子として生まれてくるということ、そして彼自身のことが伝わってきたからです。
それは、事件の内容を記した文章では伝えられないことではないかなと思っています。
彼の両親が起こし、彼の親族が犠牲となった事件、そしてその事件と嫌でも関わりを持ってしまった彼、そういうものと縁を持つことが恐ろしいと感じてしまう自分ですが、彼が伝えたいと思ったことに少しでも耳を傾けたいと思います。
これを見て思うことは人それぞれだと思いますが、まずは彼本人の話を聞いて欲しいと思いました。
次週は彼が社会人になってからの出来事が語られます。
2017年10月22日(日)に放送された後編の感想
10月22日(日)に放送された後編も続けて視聴しました。
後編では、息子が社会に出てからの様子と両親とのその後の関係が語られました。
息子が父親よりも母親に強い怒りと憎しみを抱いていることが、前回から気になっていました。父親については畏怖や諦念を口にしているのに対して、母親に対しては「本心を聞きたい」と繰り返すなど未練のようなものを感じます。
事件のことを知ると、母親よりも父親に対してより強い憎しみや怒りを覚えないだろうか? と思います。客観的に判断された量刑にも二人の事件に対する責任の比重は表れているし、母親は自分の責任もあるとはいえ、自分の家族を全て失っているわけですから。
自分のことを殺そうとしたり傷つけたのはどちらも同じですし、「マインドコントロールされていたとか関係ない」なら、両親に同じくらい怒りを感じるものじゃないかなと思います。父親と母親に対する怒りでは、明らかに温度差があります。
事件のことや息子の置かれた境遇などまったく無視してこういうことを言うのは、あるいは酷かもしれませんが、こういう「絶対的で近寄りがたい父親に対して畏敬を示して、母親に対して甘えを示す(怒りなどの負の感情をぶつける)」というパターンは、父親が絶対的に強い家で育った男性によく見られるなとふと思いました。
ただ息子は父親である松永とも対峙していますし、「自分にしたことについて謝ってくれ」ときちんと言いたいことを伝えています。
息子が松永に会った第一印象が「小さくなったな」というものでした。
この言葉に、松永に対する現在の息子の心境のすべてが表れていると思いました。怪物のような父親とも対峙することができるような、自立した大人になったのだと思います。
「絶対的だった父親の呪縛から、自分の力で抜け出した」
だから感じるのが息子としての強い感情ではなく、世間の人と同じような「自分に被害を与えたのだから謝罪してくれ」「もう極刑が決まったのだから」という感想でしかないのかなと思いました。
詐欺的話術が通用しないので、松永としても「帰ってくれ」としか言えなくなったのでしょう。
こういう人だったら重い血の呪縛も断ち切れるのではないか。そう思いました。
ただそれでも、「母親」というものを諦めるのは並大抵のことではないんだな、と見ていて切なくなりました。
ネットでも指摘されていますが、母親緒方から息子への手紙の中身を見ると「本当にこの事件を起こした犯人が書いたものかな」と感じます。何も知らずに読んだら「優しそうなお母さん。本当に息子のことが大好きで子煩悩なんだろうな」と思いそうです。
だから息子も「あんなことがあったのにおかしいだろう」と思いつつ、「本心は違うのかもしれない」と揺れるのかもしれません。
背景を知って読むと、何だか無理に「いいお母さん」を演じているように見えてしまいます。事件や息子の話を聞くと、「息子を気遣い、いつも息子のことを考えているいいお母さん」であることのほうがむしろ不自然なのに、それが正しい自然な母親像だと信じてやっているように見えてしまうのです。
自分が息子でも「この人、本当は何を考えているのだろう」と思うと思います。
ただの印象に過ぎませんが、緒方というのは「自分」というものがない人なのかもしれません。周りから与えられた役目のようなものを、抵抗なく受け入れて「自分」というものを作る人なのかもしれない、そう思いました。
自分はこの番組を見る前から、松永から逃れることは多くの人にとって難しいことだと思う一方で、緒方や緒方の家族のエピソードのいくつかを読むと、支配を受け入れてしまいやすい素地もあったのではないかと考えていました。
連合赤軍事件の永田洋子も、その時近くにいる男性の思想にたやすく染まってしまう、いわゆる「かわいい女性」だったのではないか、という指摘がされています。
この事件も連合赤軍事件とのいくつもかの類似点あります。
松永という怪物の闇も深いけれど、もしかしたらそれと同じくらい「自分」というものがなくて、周りの思想や環境によって「自分」が出来上がる、緒方のような人の闇も深いのではないか、そんな風に思いました。
この息子が背負った重荷、呪縛は大変重いもので、番組を見ているだけでも非常に重苦しい気持ちになりました。
両親から愛情どころか他人に対する不信や憎しみしか与えられず、その中で生きていくのは言葉に尽くせないくらいの苦難だったと思います。
でもそういう中で生きてきたのにも関わらず、人に必要とされる喜びや人を信頼し愛する気持ちを持って生きている息子の強さやたくましさに、救われるような気持を持ちました。
あんなに恐ろしい残虐な事件でも、人は真正面から対峙し乗り越えることもでできる、そういうことを教えてもらいました。
心無い中傷に負けずに、これからもご家族と幸せな人生を歩んで欲しいと思います。
2017年12月16日(土)総集編を見て
ところどころ、前回の放送ではなかった箇所もありました。
テレビ放映後の松永太、緒方純子の反応も興味深かったです。
息子との面会後に松永が二度目の面会を拒絶したり、その後の手紙で「一応の父親より」と署名しているところを見ると、松永は前記事で書いた「邪悪な人」の系譜に連なる人なのかな、と思いました。
「平気でうそをつく人たちー虚偽と邪悪の心理学」感想 「邪悪な人」は、あなたのそばにもいるかもしれない。
今までずっとサイコパスだと思っていましたが、「悪いことをしているという罪悪感からは、ギリギリのところで逃れている」感じがします。「決断するということは、責任をとること」という言葉とか、「自分の手は汚さない」ところにそれが現れている気がします。
緒方純子の「あなたのことを利用しようとする人は多いだろうから、付き合う人はよく考えなさい」という言葉は、完全に緒方自身の人生を投影しているようで考えさせられます。
本人は悪気なく息子のことを思いやって言っているのでしょうけれど、「いやいや、それはあなたがあなたの人生から得た教訓でしょう。そこを基盤に語るのはどうかな」という感が否めません。
たぶん息子が母親に対して負の感情を抱くのも、こういうところに無自覚なせいじゃないかなと思います。
「普通でいる」ということは、息子のようなものを背負わされて生まれてしまった人にとっては、自分自身の手でつかまなければいけないものなんだな、と思いました。自分を「普通」と言えるありがたみとか、「普通が当たり前」と言ってしまう自分の傲慢さを反省しました。
息子が自分の手で作り出した「普通の人生」が、幸多いものであるよう祈っています。
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