「機動戦士ターンAガンダム」のノベライズ、福井晴敏の「月に繭 地には果実」を読み終えた。
以下、アニメと小説のネタバレがあります。
とにかくキエルの扱いがひどすぎる。
読み終わった直後は不満が余りに多く、ディスろうと思っていた。
設定や登場人物はほぼ一緒だけれど、終盤の展開と結末が大きくアニメ版とは違う。
とくにキエルの扱いがひどすぎる。
自分は「ターンAガンダム」の登場人物の中でキエルが一番好きなので、どうにも納得がいかなかった。
こんなのキエルじゃないだろう!!
下巻を読んでいるあいだ、ずっと頭にきて仕方がなかった。
アニメ版のキエルは、「月の女王」として強い責任を負っているディアナに同情や共感の念を示し、非常に尊敬している。
そしてそういうディアナの身代わりになることにも、多くの人から「ディアナの代役」と扱われることにも抵抗感を見せない。むしろ率先して「もう一人のディアナ」として、ディアナを理解し、その重荷を少しでも肩代わりしようとする。
キエルのそういうところがすごく好きだ。
「鉄血のオルフェンズ」のクーデリアのように、相手のことを思いやる優しさを持ちながら、譲らない強さも持っている。個人的な感情だけではなく、立場に対する責任や大勢の人を導く理念、広い視野を持って行動できる。
それでいながら年頃の女の子らしい弱さや未熟さもある。
そういうカッコよくて可愛い女の子が大好きだ。
ところが、である。
「月に繭 地には果実」のキエルは、ものすごく嫌な女になっている。
アニメ版とは違い、ハリーがディアナに恋している。
そのせいでハリーから拒絶され、ディアナにコンプレックスを持っている……までは、まだいいのだけれど、終盤、グエンと結託してディアナたちを裏切る。
ハリーに拒絶された穴埋めとしてグエンに近づき、彼に必要とされるためにディアナを演じる。けれどグエンは同性愛者のため、これまた振られる。
グエンの要望を拒絶したロランのことを「たかが馬丁のくせに」と罵り、ロランに悲しい顔をされる。
最後は月光蝶になってまで、ハリーに「なぜ、自分を愛してくれなかったのか」という恨みごとをぶつける。
このあいだの心理描写がすごくリアルで上手い。上手すぎて辛い。
ディアナのふりをして心を確かめようとするキエルに対して、ハリーが「うっとうしいだけだから放っておいてほしい」と思っていたり、グエンはキエルが恋愛感情から近づいてきたことに気づいて、「しょーもな」みたいな態度をとったり。
キエルに罵られたロランが悲しみに耐えて「キエルお嬢様は混乱しているだけなんだ」と言ったり。
もうやめて、キエルのライフはゼロよ!
と別にアニメ版のキエルが好きでなくとも言いたくなる。
というよりは、まるで別人だ。
誰だよ、こいつ。と思いながら読んでいた。
でも小説を読み終わり、アニメも最後まで見て(ほぼ同時並行で見ていた)少し時間がたった今ではちょっと心境が変わった。
ひょっとしたら、アニメ版のほうがキエルの扱いはひどいのではないだろうか?
小説版のキエルの「自分自身としてありたい」という葛藤
小説版で入れ替わったキエルとディアナが元に戻ったあと、キエルとソシエの会話にそれが現れている。この描写、本当に上手いなあと思う。
「ねえ、本当にキエルお姉さまよね?」大真面目に囁かれた声が可笑しく、また多少不愉快でもあった。なぜそう感じるのかがわからないまま、キエルは「当たり前でしょ」と素っ気なく返した。(略)「きっと顔だけじゃなくて性格も似ているのよね、お姉さまとディアナさんって。ひっぱたくときの手の感じも同じ」「ひっぱたく? ぶたれたの?」自分でも意外なほどの動揺が走り、キエルは尖った声で聞き返してしまった。(略)赤の他人に聖域を踏み荒らされた、出所不明のその感情に押されて、気が付いたときには止められなくなっていた。
( 引用元:「月に繭 地には果実(下)」福井晴敏/原案:富野由悠季・矢立肇 幻冬舎p10-11/太字は引用者)
ディアナは常に「キエルならばこうするだろう」と考えて、キエルの立場や名誉を念頭に入れて行動していた。
ソシエをひっぱたいたのも、ソシエが父親の敵討ちのために戦争に参加すると言ってきかなかったからだ。キエルでも同じように、ソシエを諫めただろう。
ソシエも「ディアナさんは、お姉さまだったらこうするだろうということをやっていたわ」と言う。
だからディアナに対して嫉妬や苛立ちを感じる自分を、キエルはすごく恥じ入る。
でもキエルがそう感じるのは、当たり前のことじゃないか、と思う。
いくら似ているとはいえ、肉親でさえ長く一緒にいても「違いがわからない」と言われれば寂しい。そしていくら事情があっても、赤の他人が自分として妹を叩いたら、そりゃあモヤっとすると思う。
もちろん仕方がないことだし、ディアナには何の責任も落ち度もないけれど、「ディアナのキエルに成り代わることに対する遠慮のなさ」に、キエル本人がモニョるのは当然のことだと思う。
こういうナチュラルな遠慮のなさ……はっきり言えば傲慢さみたいなものは、アニメ版のディアナの「二人でディアナ・ソレルをやっていきましょう」のようなセリフにも表れている。
アニメ版の登場人物はほぼ全員「ディアナの代役ができること」が、キエルの一番の重要性だと思っている。
「ディアナの代役ができること」を除いたキエル本人を見ている人、がほぼ見当たらない。(主要登場人物ではソシエくらいだ。)
ハリーへの恋心があるとはいえ、キエル本人でさえそう思っている。これはよく考えるとすごく不自然だ。
「自分自身を認めて欲しい」「自分自身を見て欲しい」と思う誰にでもある感情を葛藤として抱えていたのが、「月に繭 地には果実」のキエルだ。
確かに嫌な女だ、けれども…。
確かに嫌な女だ。
嫉妬から人を裏切り、みっともない行動をし、今までの人間関係や信頼関係をすべてぶち壊すなどすごく愚かだ。
感情的になってロランを罵り、ハリーがダメならグエンにすり寄り、グエンに振られれば狂乱してハリーをなじる。
ディアナのことを対抗意識剥き出しで、「恋を失った女」「女ではない女」と貶めようとする。
読んでいてうんざりするほど醜くて惨めだ。
でも実は、これが普通なんじゃないのかな?と思う。
誰だって嫉妬は感じる。
誰だって失恋すれば錯乱する。
誰だって喪失感があれば、それを埋めたくなる。
誰だって余裕がないときは、つい誰かを傷つけるようなことを言ってしまう。
そう考えると愚かで醜い行動の裏の「自分自身として誰かに認めて欲しい」という人として当たり前の思いを描いた小説版のほうが、キエルというキャラを大事にしているのかもしれない。
「月に繭 地には果実」のその他のこと
終盤の展開が余りに違うので戸惑ったけれど、元々基本設定が同じだけで、アニメ版とは別ストーリーらしい。
アニメ版の牧歌的な雰囲気ではなく、シリアス色が強い。
物語やキャラもよく整理されている。
ギャバンやポゥ、ジョセフ、リリなど削られているキャラも多いので好きな人は残念かもしれないけれど、物語のテンポは小説のほうがいいと思う。
序盤でシドの手伝いをしているのが、ジョセフではなくウィル・ゲイムになっている。内面も丁寧に描いているので、なぜウィルがあれほど月に行くことにこだわったのかなど、アニメだと唐突に感じられるキャラの行動も理解しやすい。
アニメだと天然すぎるように思えるロランも、内面描写があるので普通の少年っぽくなっている。
アニメでキエルとディアナが入れ替わっていると気づいたときに、「ディアナとキエルが入れ替わっていることに自分が気づかなかったこと」に一番ショックを受けているロランに、ちょっと引いた。
一番初めに気にするのがそこかよ~~。
アニメと小説ではターンAのとらえ方が異なっており、その違いが物語展開に色濃く反映しているので、二つの違う結末が楽しめる。
ターンXとターンAが相討ちして神話のように荘厳だったアニメもすごい良かったけれど、ターンAの存在に疑問を感じ、ロランがターンAと対峙する小説の終わり方も良かった。
まとめ
「月に繭 地には果実」はもうひとつの「ターンAガンダム」の物語であると同時に、「月の女王と悲しみを分かち合えなかった」もう一人のキエル・ハイムの物語だ。
「月の女王」として成長できず、自分と同じ顔の女王に嫉妬し、狂乱して醜い裏切りに走った小説版のキエルは、物語の始めから終わりまで自分自身だった。
立派に「もう一人のディアナ」を務めて周りから賞賛されるアニメ版よりも、自分自身としてあり続けて、周りを傷つけまくって自分自身も傷ついて終わった小説版のほうが、実はキエルにとっては良かったんじゃないかと何となく思う。
どっちのキエルも好きだけど。
ターンAガンダムが好きな人、特にキエルが好きな人には一度読んでみて欲しいと思う。普通小説としても完成度が高いので、アニメに興味がない人でも楽しんで読める。
∀ガンダム ? オリジナル・サウンドトラック 2 ディアナ&キエル
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