うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【「進撃の巨人」キャラ語り】「自分の物語を生き続けたグリシャ」は、自分がなったかもしれない「父親像」そのものだった。

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人生で「父親」になることがないだろう自分が、もし父親になっていたらこうなっていたかもしれない、と思う「父親像」が「進撃の巨人」のグリシャだ。

 

自分の中で「父親」は「父でもあり息子でもある存在」だ。*1

「父親」は、突然「父親」として生まれ出るわけではない。

誰かの息子として生まれ、一人の男として生きて、父親になるはずだ。

だが大抵の場合、物語の中で「父」が出てくると前段階が抜けている。「父として」出てくるとき、「男としての部分」「息子としての部分」はかなり希薄になっている。

 

グリシャは「父としての自分」「男としての自分」「息子としての自分」を等価で保っている珍しいキャラだ。

(引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)

 

「進撃の巨人」は、様々な形で父と息子の関係性が描かれる「父と息子の物語」でもある。

中でもグリシャは、「父」と「息子」を二重三重に背負っている。

「父を蔑み反発する息子」であり「息子を虐げ裏切られる父親」だ。

一人の人物の中に「父との関係性」「息子との関係性」さらに「父との関係性を反映した息子との関係性」が描かれている。

グリシャのように、これら全て一筋のつらなりとなっている存在が、自分の中では「父親」だ。

 

グリシャは息子ジークにしたことを振り返り、「自分はダメな父親だった」と言う。

「父親」(夫)というのは、社会的な機能だ。

「他者にとっての自己」である。

自分の思いよりも「社会的な自己(父・夫)」を優先させるなら、マーレに逆らわず、妻と息子を守って穏やかに暮らすべきだった。

グリシャがかつて反発した父親が、「賢く」そうしたように。

 

だがクルーガーが指摘したように、グリシャは「壁の外に出たい」という自分の思いを優先させて生きた。

グリシャが「ダメな夫」で「ダメな父親」だったのは、マーレを倒しエルディアを復権させるという活動をしていたからではない。

「壁の外に出たから」だ。

 

あの日、お前が妹を連れて壁の外に出ていなければ、お前は父親の診療所を継ぎ、ダイナとは出会えず、ジークも生まれない。

大人になった妹は今頃、結婚し、子供を産んでいたかもしれない。

(引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)

 

壁の外に出なければ、グリシャは「賢い父」の後を継いで「賢い父」になり、「ダメな父親」「ダメな夫」になることはなかった。

「壁の外に出ない=愚かな子供だった自分の物語をやめる」ということだ。

 

「誰もが自分の物語を持っている」

「個」が重視される今の時代では、そう肯定的に語られる。

だが、「進撃の巨人」で語られるのは、「自分の物語」と「他者に求められる(認識される)自己」は相反するものだ、という過酷な現実だ。

「自分の物語」を貫くためには、「他者の認識による自己」を裏切り続けなければならない。

「壁の外に出たい」と望む愚かな子供は、「賢い父親」にはなれないのだ。

 

グリシャは幼いころ、壁の外に出ることで始めた自分自身の物語を生き続けた。

その物語の過程で、息子ジークが生まれた。

グリシャは息子ジークが求める「賢い父親」になることを拒否し、「愚かな子供」である自分の認識(物語)にジークをコミットさせようとした。

ジークが父を売るまで反発を感じたのは至極尤もだ。

そこまでしなければ、グリシャに自分の気持ちをわかってもらえないと思い、グリシャはジークに売られて初めてそのことに気付いた。

 

しかし、それでもなおグリシャは「愚かな子供である自分が始めた物語」を生き続ける。

息子を裏切らせるほど追い詰め、仲間を殺され、妻を巨人にされ、指を失い、「自分はダメな父親でダメな夫でダメな男だ」と一度は打ちのめされた後も、グリシャはクルーガーに鼓舞されて「自分の物語」に立ち戻った。

グリシャが戦っていたのは、「マーレ打倒」という社会に対抗する別の理想(社会)のためではない。「壁の外に出たい」という「自分一人の」希望のためだ。

エレンも同じだ。

エレンが戦っていたのは、崇高な理想のためでも壁の中を守るためでもない。

「どうしてエレンは壁の外に出たいと思ったの?」

「それは俺がこの世に生まれたからだ」

「自分」がモチベーションなのだ。

 

「進撃の巨人」は常に、「自己」と「世界(他者)」の対峙の話をしている。

自由や物語に代表される「自己」は、常に他人の認識と戦うことによって維持し続けなければならない

「愚かな子供である自分の物語」と「賢い父親」は両立しない。

どれほどの痛みを伴っても自己の物語を生き続けるか、もしくは自己(自由)を諦めて「賢い父親」になるか。どちらも取ることは出来ない。

「自由」「自分の物語」を追い求めることは、グリシャが「俺に残されたのは罪だけだ」と語ったように、「他者の認識を裏切る」「他者の世界観を抑圧する」という罪悪なのだ。

 

「進撃の巨人」は「自己の物語を生きる」という罪と、その罪悪感と戦う物語である。

「進撃の巨人」が凄いと思う理由は数え切れないほどあるが、そのうちのひとつがこれだ。

「自分の物語を生きる」という、現代では肯定されがちな漠然とした美しい言葉を、はっきりと「罪悪」として描いていることだ。

先日、「親が子供のことをネットで公表すること」について議論になったように、「自己の認識」を打ち出すことは、他者の認識を抑圧することだ。

「解釈違い」が揉めるように、自己と他者の世界観は常に争い続けるものなのだ。

 

「自分の物語」を実際に得るためにどれほどの対価を支払わなければならないのか、そのことにどれほどの罪悪感を感じるのか、それでもなおそれを求めるのか、ということを自己の内部で問い続ける話なのだ。

 

グリシャは「他者の世界観を抑圧し破壊する自分」に強烈な罪悪感を覚える。

それはそうだ。

幼い息子に密告させるまで、その世界観を抑圧し続けたのだから。「残ったのは罪だけだ」「ダメな父親だった」と思うのも、さもありなんである。

だがそういった罪を背負っても、なお「自分はこの世界に生まれたから、壁の外に行く」と「賢い父親」であることを拒否し、「自分が始めた物語」を進み続けた。

 

「進撃の巨人」の底に流れる、「存在するだけで他者を抑圧する自己に対する罪悪感」は、グリシャに一番表れていた。

それはグリシャが「愚かな子供である自分の物語」を生きながら父親になった、そして父親になった後も「自分が始めた物語を生き続けること」を選んだからではないか、と思うのだ。

 

クルーガーの「俺は未だ、あの時のまま、戸棚の隙間から世界を見ているだけなのかもしれない」という言葉も好き。

「自分の物語」というのは特に素晴らしいものではなく、「愚かな子供が戸棚の隙間から世界を見続けるだけのもの」なのかもしれない。

そのうえでどちらを選ぶのかという話だった。

 

 

*1:あくまで自分のイメージの話なので、「母親」もそうかはよくわからない。