江戸川乱歩と木々高太郎の「探偵小説論争」に答えた小説
知らないで手にとったのだけれど、「三位一体の神話」は雑誌「ロック」の誌上で行われた江戸川乱歩と木々高太郎の「探偵小説は文学か否か」論争に対する、大西なりの答えとして書かれたらしい。
上卷の裏の紹介に「卓抜した文学としての推理小説」と書かれているので、大西は「推理小説も文学になる」という立場で書いたのだと思う。
こういう前提を知っているのと知っていないのとでは、小説の読み味に違いがあった。
何も予備知識がなく読むと、言及している範囲の幅が広すぎてどこに焦点を合わせてどの角度から読めばいいのか悩む。
不親切で読みにくいが、それがクセになる。
例えば第一の殺人事件の被害者である作家の尾瀬は、自殺に見せかけて殺される。
尾瀬が自殺を考えていた根拠として、以前から「理由のない自殺」に言及していた、ということがあげられる。
尾瀬は「理由のない自殺」の正当性について主張していたけれど、あるドイツ人の書いた文章を読んで、自分が考える「理由のない自殺」はそれに当てはまる日本語がない、ということに気づく。正確には「自裁」のほうが近い。
尾瀬の娘で探偵役のえみりあは、尾瀬が考えていたのは「自殺」ではなく「自裁」だから「毒薬で自殺するのは、尾瀬が理想としていた『理由のない自殺』ではない。だから、尾瀬は自殺ではなく殺された」と考える。
この「自殺」と「自裁」が違うことに尾瀬が気付くのが、ドイツ語の違いであるため、「自殺」を意味するドイツ語「Seibstmord」と尾瀬が自分が考える自裁と近いと思う「Freitod」は何が違うのか、ということの例として、「Seibstmord」が出てくるカントやニーチェやショーペンハウアーの著作が羅列される。
「三位一体の神話」はずっとこんな感じだ。誰かの考えや事象が出てくると、それについての関連書籍や裏付けとなる文章が紹介される。
また被害者の尾瀬が「以前、こういうことを言っていた」という場合、雑誌に寄稿された文章がそのまま書かれている。
面白くなりそうだなと思うと、唐突に「何年何月の雑誌に寄稿された文章」が出てきて流れを切られる。「誰の目を通して物語を見るか」という、物語と読み手の距離感がコロコロ変わるために、慣れないと読みにくく感じる。
読んでいるときに、「読者」としての自分の視点をどこに固定したらいいのかが難しい。
一般的にはそういう視点も特定の登場人物に感情移入させるなどの手法で、作者が読者の立ち位置を用意してくれるのだが(素直にそこに立つかどうかはおいておいて)そういう「読み手が物語に入りやすいように、読みやすいように」という配慮がない。
構成も内容も「読みやすさ」を考えておらず、すごく不親切な作りになっている。
読みにくくて本筋にほとんど関係ない知識の羅列が多いし、倒叙ミステリーなので犯人はおろか、殺害方法や殺害経緯、動機もトリック(というほどのものでもない)もすべて分かっているから面白くない……かと言えば、そんなことはまったくない。
小説としての不親切さに最初は戸惑うものの、慣れてくると独特の面白さがある。
不親切さの表裏である「今度はどこに話が飛ぶんだろう」「どの立ち位置に飛ばされるんだろう」という自由さがクセになる。
倒叙ミステリーの醍醐味は十分味わえる
犯人である葦阿と枷市の駆け引きは、読んでいて面白かった。
葦阿は自意識過剰で卑劣な嫌な奴だけれど、葦阿が一人称で内面を語るため、その心情を理解しやすい。「犯人の内面を知って、犯人の焦りや苛立ちや怯えにも感情移入できる」という倒叙ミステリーの醍醐味も味わえる。
第二の殺人事件の被害者が枷市であることは明かされているが、どういった心境で葦阿が枷市殺しを決断するのか、どういう方法を使うのかということを知りたくて、どんどん読み進めたくなる。
文学としてもミステリーとしても、もう一歩踏み込んで欲しかった。
ただ個人的には、トリックか動機か背景かに、もうひと捻り欲しかった。
欲しかったというか、このままだと余りに捻りがないので、何かあるに違いないと思って読み進めたら、何もなくて拍子抜けした。
葦阿の生い立ちは謎に満ちているので、尾瀬が関係者なのかと思っていた。結局、葦阿の両親は実子を海に誤まって落としてしまって、その代わりに葦阿を引き取っただけのか?
名前の語呂合わせもオセローとイアーゴーの関係を踏襲しているのは分かったけれど、それ以上は何なんだろうという感が否めない。
葦阿のアリバイトリックが崩れたのもほとんど、というより全部偶然だし、トリック自体も穴が多すぎて「調べられたらすぐにバレるのでは」というものだ。武等、武等の妻、武等の娘と、アメリカにいたのは葦阿ではなく武等だ、ということを知っている人間が多すぎるので、旅券の間違えがなくてもどこかからか発覚しそうな気がする。
枷市が殺されたとき、葦阿が日本にいたことがバレた経緯についても、余りに偶然がすぎる。えみりあの元同業者がたまたまその家の婿で、えみりあがたまたま同席していたときにそれを話すって……奇蹟か。
アリバイ崩し、というには余りにお粗末だ。崩しではなく、勝手に崩れている。
動機である「金と銀の違い」という生まれながらの才能の差についても、深く掘り下げられないので、テーマとしては中途半端に感じた。
ミステリーとしても文学としても、もう一歩物足りない、というのが正直な感想だ。
作者が元々新聞記者、というのが関係しているのかもしれないが、ぶっ飛んでそうに見えて、意外と地に足がついた筋になっている。
衒学的で話が本筋からそれてしょっちゅうぶっ飛ぶ、と言えば「黒死館殺人事件」が思い浮かぶけれど、ぶっ飛び具合で言えば「黒死館」とは比べものにならないくらいマトモだ。まあマトモじゃないから奇書なんだけれど。
すごいいびつなピースを読者の前でばら撒いて勝手に拾わせるのが「黒死館」ならば、「三位一体の伝説」はいびつなピースを見せながら、外枠からはめ込んで見せてくれる生真面目さがある。
それだけに最終的に見せられた絵がもう少し予想外のものだったらな、と思ってしまう。ただ、はめ込んでいく手順を見ているのはとても面白い。
結論がどうこうというよりは、ミステリーの枠組みで文学を表現することに挑戦した、そのパズルはめ込んでいく過程にこそ、この小説の真価があるのかもしれない。
情報量が多いので、二回三回と読めば読むほど愛着がわきそうだ。