うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

こんな風に物語を読んでいる。

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ブログを書くようになってから、「物語を読む」とはどういうことかを特に考えるようになった。

このブログを書いている人は、こんな風な考え方に基づいて創作を読んで、感想を書いているんだなあと心にとめて記事を読んでくれると嬉しいと思い、自分の物語の読み方についての現時点での考え方をメモしてみた。

 

前提として、「それぞれが好きな読み方で楽しめばいい」

まず前提として、物語の読み方は色々あるので、研究者でもない限り、それぞれがそのときの気分で好きなように読めばいいというのが自分の基本的な考え方だ。

作品ごとに意識的に読み方を変えてもいいし、ひとつの物語を「どの角度から読むか」を変えて繰り返し読んでみても楽しい。

 

 

 

「世界が何であるか」ではなく、「なぜ、私には世界がこう見えるのか」が大事。

「世界の見方」は哲学を基本としていると思うけれど、哲学のメインテーマが「世界とは何であるか」「人間は世界を正しく把握しうるか」(「万物の根源は〇〇である」)から、ニーチェ以降「人間の認識とは何であるか」に転換したように、物語でもそういう読み方が出てきた。

代表的なのが、構造主義の文芸批評家バルト。

 

バルトは「作者の死」(1968)において、「作者」は作品の意味を保証する絶対的な創造者=神であるという考え方を斥け、「読者」こそが多様な意味を絶えず再構築し続ける生産者であると説いた。(略)

「作品からテクストへ」(1971)においてバルトは、作者の意図が表明された、彼の所有物である「作品」とは異なり、「テクスト」は唯一絶対の意味=起源など持たない、他の様々な「テクスト」によって織り成された多層的・多元的な遊戯の場であり、読者はそこで戯れ、そのたびごとに異なる意味を産出していくのだと述べている。

 (引用元:「現代批評理論のすべて」 大橋洋一編 新書館 P57 太字は引用者)

 個人的にはこれだと、ちょっと読者に力点をおきすぎではと思っているが、基本的には賛成だ。

 

創作とは「解釈を述べるもの」ではなく「解釈されるもの」

自分も「作者=神」「作品には絶対的な真実が存在する」とは考えていない。

創作とは「作者の解釈を述べるもの」ではなく、「読み手から解釈されるもの」だと思っている。自分にとって優れた物語とは、「多種多様な数多くの読み手の解釈に耐え、作用しうるもの」だ。

その時代、その文化、その地域、その価値観で生き、「今の時代に生きている人間」を読者として想定することが不可能な作者の言葉、生み出す物語が、作者とはまったく違う価値観の現代社会で生きている自分たちにも作用し、分かるはずがない価値観や人物たちの物語の中に、「自分のためのもの」を見出すのはそういうことではないかと思っている。

 

「物語は絶対的なテキストではなく、読み手が読んで解釈し、作用することで初めて『物語』として成立する」

(【ネタバレ感想】「モンキーピーク」10卷まで。読みかたについての反省会

 

なので自分の読み方の基本スタンスはこうだ。

「物語の感想」は、「自分という読み手」の存在が必須と考えている。

「作者の意図あて」「物語の絶対的な真実あて」は自分もすることはあるし、その読み方も否定していない。

ただ「それも読み方のひとつ」ではなく、「物語の真実あて、作者の意図あてをすることが、物語を読むということ。それ以外の読み方はない」と思っている人とは、話したいとは余り思わない。さすがにこれだけネットが発達していると滅多にいないけれど。

 

自分の感想や解釈を述べるときは、細かい座標軸を作る。

「読者はテキストを好き勝手に解釈していいのか」という問題については、「読んで自分の内面に作用させる」個人的に楽しむ範囲ではそれでいいと思う。

ただ自分は、読んだ感想を書いて誰かに読んでもらうときは、「この創作は何が語られているのかということと、読み手である自分の認識の結節点をどこまで矛盾や無理なく近づけられるか」ということに対して、最大限誠実でありたいと思っている。

 

『神学政治論』の一節を読んでみたい。

「聖書を哲学に適合させようと欲する者は、預言者たちに、彼らが夢にも思わなかったような様々な考えを押しつけざる得なくなり、彼らの言葉に非常に強引な解釈を与えてしまう。その一方で、理性や哲学を神学に従属せしめようと欲する者は、古代ユダヤ民衆の諸先入観を神のことばと受けとらざる得なくなり、そうした先入見により自らの精神を満たし、混乱させずにはいない。

要するに、一方は理性の助けのせいで狂気にいたり、他方は理性のたすけがないせいで狂気にいたってしまうのである」(略)

この文章の「聖書」を「文学」に、「哲学」「理性」を「理論」に置き換えてみたらどうだろうか。

 (引用元:「現代批評理論のすべて」 大橋洋一編/三原芳秋 新書館 P175)

 

「読み手の解釈に比重を置けば物語が狂い、物語に何の解釈も入れずにそのまま受け取れば、読み手が狂う(物語においては解釈も意味も付与しないのであれば、読むこと自体意味がない)」

 

これについては、下記の記事に書いた「座標軸」を、なるべくテキストから読み取って正確に(テキストの絶対性を追求するという意味ではなく、多くの人が認識の基盤として位置を探し出しやすい最適なもの)を設置することを心掛けたい。

「正確な」というよりは「フラットな」という言い方のほうが正しいかもしれない。

 

創作物に対する感想というのは、自分という存在が世界のどこに位置するかという座標軸のような役割が自分にとっては一番大きい。

その座標の位置を見て「そこからだとそんな風に見えるんですね」「自分はその位置からこう見えますよ」という意見をもらったり、人の感想を読んで「その位置に立つとどんな風に見えるんだろう」とてくてく歩いていくのはとても楽しい。

自分だけだと、結局はいつも同じ位置に立ってしまうけれど、ネットで色々な人の感想を読むと、「おおっ、そんな立ち位置もあるのか」と知ることができる。

(オルガの記事についての御礼と前回の記事からちょっと考えが変わった点

 

なるべくテキストから言葉を引用して、「この部分のこの言葉をこう解釈したから、この先のこの展開はこう解釈する」という風に細かくメモリを刻んでいるつもりだ。

解釈は自由で構わないが、「なぜその解釈をしたのか」という基盤がないと、他人とは意思の疎通ができず、他人に向かって感想を話す意味自体がなくなってしまう。

「ただこう感じたから」という感想もいいとは思うし、最終的には「感じ方は人それぞれ」に行きつくとしても、その過程を楽しみたい、違う感想であれば「なぜ違うのか」ということを知りたい。

上記に書いた通り、座標軸があれば、「そんな見方もあるのか。試しに自分もそこに立ってみよう」と思える。

 

そうすると、また少し違う風景が見えたりする。不思議なことに。

 違う自分になったみたいで面白い。

 

創作者に対する尊敬と感謝は、忘れないようにしたい。

自分は読むときは多くの場合「作者不在論者(勝手に名付けた)」だが、それとは別に「0から1を生み出せる」創作者には深い敬意と感謝を持っている。

「どこかで似たような話を見たことあるな」と思うものでさえ、物語を立ち上げて完成させることは驚異的なことだ。

「解釈は解釈されるもの、解釈に耐えうるものがあってこそ、存在できる」と思っている。あれこれ言っていても、読み手である自分はその恩恵を受けているにすぎない。

納得がいかないものを見ると色々と言ってしまうこともある(けっこう言っている)が、できればその気持ちを忘れないようにしたい。

 

「あなたにとっての真実として作用すること」にこそ物語の存在意義がある。

自分の中では自分という存在を前提にしている物の見方は絶対的なものだが(人の意見を聞いたり時間が経ったりして、変わったりするけれど)、他人にとってはもちろん違うだろうと思っている。

どんな感想(世界の見方)でも、「その人だから見れる唯一の世界の見方」なので、それを大事にすればいいというのが自分の考えだ。

 

だが物語内で吟が言った通り、「その意味が事実かどうか」よりも、「それがそうだと自分自身が信じ思い込むこと」が大切なのだ。事実かどうかなどということはもはや現実には何の影響も与えないものだからこそ、それは「自分のみの意味」「自分のみの物語」になる。

 (【ネタバレ感想】「宇宙よりも遠い場所」を見て、アホみたいに泣いた)

 

人は「事実」を変えることはできない。

しかしその現実に意味を付与することはできる。そして「その意味」に支えられ、救われ、その意味を生きることができる。

「あなただからできる世界の見方を教えてくれ、あなたにとっての真実として作用することこそ」物語の存在意義であり、時に人を狂わせてしまう恐ろしい点(こういうことも往々にしてある)であり、時に人に生きる力を与える素晴らしい点だ。

 

今の時点では、そんな風に考えている。

現代批評理論のすべて (ハンドブック・シリーズ)

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「越境」の中に、自分にとって物語とは何なのかが書かれた文章を見つけた。

これを書こうとしたとき、今読んでいるコーマック・マッカシーの「越境」の中の物語について書かれている箇所を読んで、「自分はずっと『物語を読むということ』は、こういうことだと考えていた」と思った。

以下、その部分の引用。

ここで見つかるはずだったものは物じゃない。

それにまつわる物語と切り離された物には何の意味もない。それはただの形にすぎない。(略)

われわれにとって意味のなくなった物にはもう名前もなくなってしまう。しかし物語は世界のなかで占める場所を失うことはない。というのも物語自体がその場所だからだ。

この町で見つかるはずだったものは物語だ。(略)

コリードというのはすべてそうだが、結局のところたったひとつの物語しか語らない。というのも語られるべき物語はひとつしかないからだ。(略)

なるほどこの二つの町はまったく別世界だ。

だが世界はひとつしかないしおよそ想像しうるものはすべてこの世界にとって必要なものだ。というのも、この世界は石や花や血でできている物のように見えるけれど実は物ではなくひとつの物語だからだ。

世界のなかにあるものはすべて物語でありそれぞれの物語はさらに小さな物語から成り立っているが、そのどれもが同じ物語なのであって他の物語をすべて内側に含んでいる。

だからすべて必要なものだ。どんなに小さなものでもすべて。(略)

それというのも継ぎ目はわれわれの目には見えないからだよ。合わせ目は見えない。世界がどんな風に成り立っているか見えない。(略)

その物語の住み処も居場所も物語るという行為のなかにだけあるのであり、物語はそこを住み処にしてい生きているのだからわれわれが物語のをやめるというは絶対にない。物語るという行為に終わりはない。

だからカボルカであれウィシアチェピクであれ、他のどんな名前の場所であれ名前のない場所であれ、もう一度いうけれどもあらゆる場所で物語はひとつなんだ。まさしくひとつなんだ。

 (引用元:「越境」 コーマック・マッカーシー 黒原敏行訳 早川書房 太字・赤字は引用者)

 

何を喋っているのかよくわからないけれど、でもわかる。「そうだ、自分はずっとこう考えていた」と思った。

「自分がこう考えていた」ということを、この文章を読んで初めて知った。だからもしかしたら考えていなかったのかもしれないが、それでも正確に自分が感じたことを言えば「こう考えていた」だ。

そうか、こういう発想から「ザ・ロード」に行きついたのか、と納得した。

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二階堂奥歯「八本脚の蝶」を読んだときに、読んだ本の引用だけをひたすらしている箇所が不思議だった。その気持ちがなんとなくわかった。

一字も一句も欠けたり付け加えたりしたら、自分の中で意味を見失ってしまう文章は確かにある。それでも太字や色付き、こうやってタラタラ解釈を付け加えてしまうところが自分っぽいなと思うけれど。

ネットがなかったら、たぶん家の壁にでも刻み込んでいた。家族に怒られそうだが。

 

自分にとって物語とは、「越境」から引用した文章が示したものであり、「ザ・ロード」を読んで体感したことだ。

なので上記の文章を読んで、「ああ、何となくわかった」と思ってもらえたらそれでよかったのだけれど、一応自分の言葉でも説明してみた。

越境 (ハヤカワepi文庫)

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その後、ちょっと考え方に変化がありました。

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さらに続き。

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