うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

アニメ版「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」に、物語の凄みを見た。

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アニメ版「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」の感想。他の版は未視聴、未読。劇場版はこれから見る予定。

#1 超平和バスターズ

#1 超平和バスターズ

  • 発売日: 2015/12/18
  • メディア: Prime Video
 

 

ずっと見たいと思っていたので、プライムビデオ対象になっていたのを見つけてさっそく見てみた。

色々な要素が詰めこまれた話だったが、自分は「罪悪感からの脱出と、そこから自分をどう再構築するか」という回復の物語として見た。

罪悪感をめぐる物語は、たいてい原因も表への出方も「わかりやすく」描かれるので、それがいかに人をとらえたときに厄介か、ということがその「わかりやすいさ」ゆえに逆に見えにくくなってしまうことが多いと感じていた。

「あの花」は罪悪感の描き方が、自分が見てきた話の中ではずば抜けてうまい。

 

「あの花」は、メンマの死に対する罪悪感を、超平和バスターズの面々五人が全員背負っている。そのため、それぞれの背負い方や背負ったがゆえの歪みの出方にバリエーションがある。仁太は、「メンマの死に責任がある」という罪悪感に加えて、不登校であるという罪悪感もある。

ここでいう罪悪感は説明が難しい感情だが(だから描くのが難しい)「自分は悪いものであり、いないほうがいい」という感覚だ。

「悪いものだから存在してはいけない。いるのが恥ずかしい。責められるべきだ」という感覚が常にある。

この感情があると仁太のように人に会いたくなくなったり、ポッポのように自分から逃げ出したくなったり、ユキアツのように責められることに耐えらなくなり他人に自分を投影して責めだしたりする。

アニメ版を見ただけでは詳しく描かれていないので推測だが、仁太が高校受験に失敗し不登校になったのは「自分は幸せになってはいけない」という罪悪感が根底にあるからでは、と思う。

またメンマが仁太の母親からの願いをかなえるためによみがえったことを考えると、母親の死に対しても何等かの罪悪感を持っていたと思う。(素直になれなかったなど)

仁太は身近なふたつの死に対して二重に罪悪感を背負っており、そのために自分の人生に無意識にブレーキをかけている。(「自分は幸せになってはいけない」と無意識に思っている)

しかし多くの場合、それは「言い訳」と解釈される。他人もそうだが、何よりも本人がそう解釈し、自分を責め続ける。

 

幸せになってはいけないブレーキ→どんどんダメな状態になる→それは自分がダメな存在だから、と自分をさらに責める→さらなる罪悪感→こんなダメな自分は幸せになるのは間違っている→さらにダメな状態になる

 

罪悪感が恐ろしいところは、内部にこの回路ができてしまうと自力では抜け出すのが難しいところだ。

仁太のケースが最もわかりやすいが、ホッポやユキアツも同じだ。どこに逃げようとも必ず元の地点に戻ってしまうため前に進めない、自分で背負いきれない罪悪感を他人にぶつけて過剰に攻撃的になってしまうなどの問題が出てきている。

出方は違うが三人とも周りと深い関係が築けなくなり、自分の地場が確立できなくなる。

これを「自分の問題だから」と思えるうちはまだマシで、「問題」とも認識せずに、物語初期のユキアツのように「いつまでも昔のことを引きずるな」という風に無視しようとすると周りの人と深いつながりが持てず、今出てきている問題がどんどん深まっていく。

不登校に陥った仁太は問題の出方がわかりやすく早いため、まだしもマシに見える。ただこれほどわかりやすく早くても、自分自身で立ち直るのは並大抵のことではない。

 

自分の感覚では罪悪感に縛られている状態は、鎖で縛られて海に放り込まれているようなものだ。泳げず何をしても無駄だと諦め、海に沈んでいくしかないと思ってしまう(仁太)のも仕方がない。

罪悪感の恐ろしいところは、その鎖を放っておいたまま海にいると、その鎖が身体の一部になってしまうところだ。「鎖で縛られた状態こそ自分」となってしまうと、そこから鎖を切り離すのは難しい。

そして鎖から抜け出そうとしてもそれが自分についてくるため常に暴れ引き戻されることを繰り返したり(ぽっぽ)、身体を動かしているだけで振り回している鎖で人を傷つけてしまったりする。(ユキアツ)

 

仁太の父親が学校に行かず家に引きこもる仁太を責めないのは、自分が責めるまでもなく仁太が誰よりも自分自身を強く責めていることを知っているからだ。

そしてそういう葛藤を経て、自分の子供が立ち直り、いつか歩き出すことを信じるほうに賭けることを決めたからだと思う。

親も恐らく子供が何かにつまずいたとき「こうなったのは自分のせいではないか」と自分を責める気持ちがある。そういった自分の罪悪感や将来の不安を「子供のため」という語句に転換して、子供を責めてしまうことも多い。

子供はただでさえ自分自身の罪悪感に圧しつぶされそうになっているのに、親の罪悪感まで背負わされるのでたまったものではない。罪悪感が臨界点に達すると、ユキアツのように周りを攻撃したりなど罪悪感の押し付け合いになってしまう。

 

この話に対して「高校生にもなって、『超平和バスターズ』とか馬鹿みたい」という感想を見て、ちょっと驚いた。

この「高校生にもなって、『超平和バスターズ』とか馬鹿みたい」→「だから昔のことは忘れて、今を生きることが正しいこと。それができない自分はダメな人間だ」という「罪悪感は自己責任で耐えなければならない、いつまでも引きずっているのはおかしい」という考えこそ人を苦しめ、「罪悪感ループ」に陥らせる、ということが「この話の前提」だからだ。

だから物語開始時は、「罪悪感ループ」から抜け出せない弊害が最も顕著に表れていた仁太を、鳴子もユキアツも「みっともない」「お前、いまだにそんなことを言っているのか?」と言っていたのだ。(自分たちは仁太のようであってはならない、と思っている。)

しかし仁太を「いまだにそんなことにとらわれているなんて」という目で見ていた他の超平和バスターズの面々も、大なり小なりメンマの死に対する罪悪感を乗り越えることができず、歪みが出始めていた。

 

この罪悪感を何らかの方法で払しょくしなければその歪みはどんどん大きくなり、「罪悪感ループ」から抜け出すことがますます困難になる。

仁太は引きこもりが延々と続き、ユキアツは一見優秀でも人と深い関係が築けないか、深い関係を築こうとすると相手をわざと傷つけるようになる。ポッポは何も積み上げることができず「メンマを見殺しにしてしまったのでは」という罪悪感から逃げるためだけに生き、鳴子は人に流されっぱなしになり、ツルコはユキアツから離れられず、恐らく彼に強い圧力を加えるようになる。

「あの花」の根底には、「罪悪感の厄介さと、それがいかに人を蝕むか」という実感がある。

「死んでしまった初恋の女の子が蘇って、疎遠になっていた友人たちとその死を乗り越え、また仲間になれた」という「やり直し(自分を巡るストーリーの再構築)」ができたことで、罪悪感ループを断ち切れた。

それを断ち切ってくれようとするメンマという他者の思いを通して、「人との関係性の中で自分は成立している尊さ」を描いた物語なのだ。

 

「あの花」のいいところは、こういうことを「説明しすぎない」ところだ。

自分が一番いいと思ったのは、仁太とメンマの弟・聡志の会話だ。

聡志は父親に対してそっけない態度を取り、母親のことを「気持ち悪いおばさん、ああいうのが母親って恥ずかしい」と言っている。だが後で明らかになったように、本心では死んだ姉のことにばかりとらわれて母親が自分のことを気にかけないことを、寂しく思っている。

直前の墓参りのシーンで、父親の愛情の深さに気づいた仁太は、そんな聡志に対して「親というものは不完全な部分もあるが、子供のことを常に思っているありがたい存在だ」ということを言おうとする。

だがここでの仁太のセリフは驚くくらい、何が言いたいのかわからない。

ストーリーのつなぎや聡志の言葉を聞いている仁太の表情から「恐らくこういうことを考えていて、こういうことが言いたいのだろう」ということは推測することはできる。

それにしてもここまで思いきって省くか、と思うくらい短い。

 

ほんと何考えているだろうな、親って。

でも、一番きついと思う、親って。

って、俺に言えるような義理ないんだけど…さ。

 

ここでいくらでも自分の父親に対する気持ち、母親に対する気持ち、メンマや聡志の母親の気持ちを説明しようと思えばできる。

しかし聡志と仁太との距離感や仁太の人物像を考えると、そのすべての思いはこの三行でしか語れない。

そしてこの三行で「仁太は自分の思いを受けとめてくれた」ということが聡志に伝わったから、聡志は「母親がとらわれているもの」ではない、「自分にとっての姉メンマ」について語ることができる。

そして今まで語れなかった「自分にとっての姉メンマの思い出」を語ったことで、聡志はメンマの思い出を昇華する準備ができた。

聡志の準備ができることを、父親はずっと待っていた。(仁太の父親と同じで、聡志の父親も見守っていた。ここで仁太が自分の父親を語ることが、仁太の父親と聡志の父親のスタンスが同じであることのリンクとして作用している)

そして父親も、ユキアツから気持ちを訴えられることで、妻を過去から引き戻すためには思い出させないよりも、その思い出を乗り越えるしかないのではと気づく。

聡志と自分が乗り越える準備ができたため、「一緒に寂しいと思おう。三人で一緒に」と伝えられた。

一人では乗り越えらなかったメンマの死を、三人で乗り越える準備ができたのだ。

 

「あの花」はあくまで超平和バスターズが主要登場人物なので、メンマの家族は脇役だ。

だが彼らもまたメンマの死にとらわれており、それは友人だった超平和バスターズたちとは違う、家族としてのとらわれかたであり、それに対する乗り越えかたも描かれている。 それが聡志の言葉に対する、仁太のたった三行の言葉で動き出すことが、まったく不自然に感じない。

「説明しない」というのは勇気がいる。説明したほうがわかりやすいし、多くの人に「わかってもらえるから」だ。

しかし説明して「多くの人にわかってもらう」と多くの人に届かなくなる。

説明したこと以外のことを、違う感じ方をする人に違う届き方で届かせることができなくなる。

 

仁太たちのような状態に陥っている人も、言葉ですぐに立ち直らせることができれば「あの花」という回復の物語は必要ない。

「あの花」開始当初の仁太には、どんな言葉も届かない。

どんな正論もどんなきれいごともどんな思いやりにあふれた言葉も、仁太や他の四人を「罪悪感ループ」から連れ出すことはできなかったろう。そういうものに、自分がとらわれていたことに気づくことすらなかったかもしれない。 

「メンマが戻ってきた物語」を通して、彼らはメンマの死を乗り越え(仁太においては、恐らく母親の死も乗り越え)自分の人生を生きる基盤を回復することができた。

 

「あの花」は、そういう物語の凄さを改めて教えてくれた。

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 Blu-ray BOX(通常版)

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  • 出版社/メーカー: アニプレックス
  • 発売日: 2013/08/21
  • メディア: Blu-ray
 

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