うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【「ゴールデンカムイ」キャラ語り】尾形百之助のスケープゴート感が、読んでいてしんどい。

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ウェンカムイ

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原作の11巻と17巻に載っている尾形の過去のエピソードを読み返したら、やたらしんどく感じた。

初読のときは、尾形本人や作中で指摘されているとおり「尾形は『何かが欠けた人間』、殺人を好む冷酷な人間で、それを表すエピソードなんだろう」とぼんやりと思った程度だった。

ところが今回読んだら、まるで違う風に読めた。

何がこんなにしんどく感じるのか。

既刊18巻までの話に限定して、このエピソードについて考えたことを語りたい。

 

 

 

花沢が背負うべき罪悪感を引き受け、「加害者」になる尾形

11巻のエピソードで、花沢は自分を殺そうとしている尾形に対して「お前が父親である自分や弟の勇作を殺すのは、何かが欠けている人間だからだ」(意訳)という。

これがまずおかしい。

殺人は良くないが、花沢が尾形や尾形の母親に対する仕打ちを思えば、尾形が花沢を殺したいほど恨んだり、勇作を逆恨みしたくなる心情は理解はできる。(尾形が花沢を殺す理由は、尾形本人が言う通り恨みからではないが、仮に恨みからだとしても理解できる。)

むしろ自分がした仕打ちを棚に上げて、「何か欠けている」「出来損ない」という花沢のほうこそ「何か欠けていないか」と言いたくなる。

 

これだけでも「おかしい」と思うのに、花沢は尾形の母親に対しては、「貴様も頭がおかしくなった母親が哀れでうとましかったのだろう。私と同じじゃ」と「俺だけがひどいわけじゃない」と開き直る。

 

花沢はいかなる場合も、加害者の位置につくことを拒む。

自分が尾形にした仕打ちには「お前が『何か欠けた人間だから』(お前と俺は違う)」と言い、母親にした仕打ちには「お前も俺と同じだ(だから俺を責められない)」と言っている。

たかだか5ページ、恐らく現実の時間だと5分か10分かそこらのあいだで、まったく正反対のことを言っている。無茶苦茶な自己弁護だ。

 

ところが尾形は、この花沢の自己弁護の無茶苦茶さを責めない、どころか指摘すらしない。指摘しないどころか、花沢のこの主張を肯定する。

いや、肯定するどころではない。花沢が主張したい構図を、先回りして自分が主張する。

「自分たちを捨てた恨みからではなく(あなたが悪いのではなく)、自分が『何か欠けた人間』だからあなたを殺すのだ」と、先回りして責任を背負ってしまう。

花沢は尾形が主張してくれた「尾形が『何かが欠けた人間だから』」にのっかって、「自分は元々『何かが欠けた人間』だった息子に殺される父親」というポジションに収まる。

 

尾形は花沢の「いかなる相手に対しても加害者になりたくない、罪悪感を背負いたくない」という要望に、先回りして応える。

加害者の位置に立ちたくない花沢のために、自分が先に加害者の位置に立ってしまう。尾形が加害者であれば、花沢は「被害者」になるからだ。

尾形が花沢を殺した一番の理由は、花沢に対して「完全な加害者」になるためだ、と思った。花形が求める、「呪われろ」と言える権利を父親に譲るためだ。

 

花沢は罪悪感を背負うことを徹底的に拒否する「邪悪な人」

事実だけを見れば、どう考えても子供を産ませた責任を取らず、母親が死んだときですらほったらかしていた父親が、息子に呪いをかけるのはおかしい。

「逆だろ」と言いたくなる。

このエピソードで、花沢の言っていることややっていることは無茶苦茶だ。

こんなに無茶苦茶なことをしてでも、死を前にしてすら、花沢が絶対に引き受けたくなかったものがある。

罪悪感だ。

花沢は罪悪感を引き受けたくない一心で、端からみたら唖然とするような言動をしているのだ。

花沢が「罪悪感を引き受けたくない人間である」ということは、17巻で勇作に「罪悪感を感じさせないために、殺人を禁じている」エピソードにも表れている。


花沢は罪悪感を引き受けることを徹底的に避ける、「邪悪な人」の一員である。

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「邪悪な人」は、罪悪感から逃れるためならば、平気で嘘をつく。他人を踏みつけにし、事実を捻じ曲げる。時には他人から見たら、「いくら何でもそれは」と思うような突拍子のない主張をし、しかもそれを信じ込む。

花沢が主張する「お前も俺と同じ」といった五分後に、「お前は俺と違う(何か欠けた奴)」のように、自分の都合のいい「事実」のために、コロコロと条件や前提を変える。

軍人になった息子に殺人を禁じる、という無茶苦茶さにもそれが表れている。

 

尾形は、花沢のその心の動きに無意識下で気づいている。

だから花沢が罪悪感を感じずに済むように、「自分が『何か欠けた人間』で、その証明としてあなたを殺す。だから加害者である自分を、被害者であるあなたは呪っていい」という構図に荷担する。

「邪悪な人」は罪悪感と向き合うことを、最も恐れる。

花沢にとっては、罪悪感を感じるくらいなら「被害者として」死んだほうがまだしもマシなのだ。殺されそうになってなお、自分の落ち度を認めず、尾形を責めるところにそれがよく表れている。

だから尾形は、父親の望み通り「被害者である」花沢を殺す。

 

尾形の愛情を、花沢は一切受け取らない

これは母親に対してもそうだ。

尾形は母親に父親から受けた傷を忘れて欲しくて、鳥を持って帰り続けた。母親が父親を忘れ元気になってくれること、それが尾形自身の願いだった。

しかし最終的には、自分の願いよりも「どんな状況下でもいいから、父親に会いにきて欲しい」という母親の願いを優先する。

自分のやりたいことだけやって、その責任は取らず、責任をとらない罪悪感からは逃げたい父親と、花沢に捨てられた事実を認められない、その事実を確かめる強さもない母親の責任を、尾形はすべて背負ったのだ。

 

尾形は花沢を一切責めない。

自分が「何か欠けた人間」である理由も、花沢や母親の人格でなく、「二人のあいだに愛がなかったことが原因」としている。

そして「花沢に問題がない」ことを証明するために「父上と本妻との間に生まれた息子さん……花沢勇作少尉が高潔な人物だったことも証明している気がします」と言う。

同じ花沢の息子でも勇作は立派な人物だった、つまり自分が「何か欠けている」のは、花沢に問題があるからではない。そう言っている。

 

尾形が唯一、花沢に対して訴えるのは「愛情」(祝福)だ。

「少しでも母に対する愛情が残っていれば」

「愛情のない親が交わってできる」

「両親から祝福されて生まれた」

「妾の息子が急に愛おしくなったのでは」

「祝福された道が俺にもあったのか」

このエピソードの間中、尾形はずっと「愛情」について話している。

「祝福された道が俺にもあったのか」は、ストレートに「愛して欲しかった」だ。

 

ところがこれだけ繰り返し率直に言われても、花沢は尾形の感情を「恨み」「哀れに思った」「疎ましかったのでは」と勝手に変換してしまう。

尾形の言葉は、花沢には何ひとつ届かない。

勇作を撃ったシーンで撃たれた鳥のカットが入る。鳥は尾形が自分自身を殺し続けて犠牲にしていること、そうすることによって愛情を捧げていることを表しているのでは、と思う。

自分を不要なゴミのように捨てた父親も、自分のことを一切顧みない母親も、尾形は心の底から慕っていた。母親にも父親にも鳥をひたすら捧げ続けた。

「親殺し」という罪を背負ってでも、二人の願いをかなえたのだ。

 

しかし父親も母親も、尾形の愛情に気づくどころか、尾形の感情を見ようとすらしない。

花沢は罪悪感を感じないために、尾形の気持ちを勝手に変換し、尾形が用意した被害者のポジションに収まって、自分を気の毒がりながら「呪われろ」と叫び死んでいく。

 

罪悪感を限界まで背負うために、尾形は感情を抑圧している

しかしこの構図は、見ているほうには気づきづらい。

つい「尾形は両親や自分を慕う弟を殺すくらい、『何かが欠けた奴』なんだ」と思ってしまう。

この表層の構図は、花沢と尾形が共謀して作り上げたものだからだ。

その場にいる二人がこの文脈が「事実だ」という前提の言動をとっているので、他の文脈はかなり見えづらくなっている。 

 

もうひとつは、尾形が自分の感情を一切出さないからだ。

尾形は「祝福された道が俺にもあったのか」など、本音でしゃべっている。しかし尾形の言葉は本音に聞こえない。そこに感情がのっていないからだ。

 

11巻のエピソードの間中、尾形は事象について説明したりそれについての解釈は述べるが、そのことについて自分がどう感じているか、ということはまったく話さない。

例えば勇作に対して、「『ああ、これが両親から祝福されて生まれた子供なのだ』と心底納得しました」と言うが、納得してどう思ったのか、なぜ納得したのか、そもそもなぜ「両親から祝福された子供とそうでない子供の違いについて、自分は考えるのか」ということは述べない。

また勇作を殺した心境に対して、「少尉に対する妬みからじゃありません、父上を苦しませたいというのともちょっと違う、ただひとつ確かめてみたかった」と、一番大切な「なぜ、それを確かめてみたかったのか」という自分の気持ちについては話さない。

 

元々、男性は生育過程で感情を抑圧しやすい。

感情=弱さであり、外に漏らしてはならないものだ。「ゴールデンカムイ」の時代は、この傾向が現代よりも強いだろう。

男が特に禁じられやすい感情は、「男なら泣くな」と言われるように「泣く」「涙」「悲しみ」だ。

「泣く」ということを封じられれば、負の感情は怒りで表すより他になくなる。

しかし人に怒りをぶつけられないような優しい性格の場合は、この怒りすら封印する。

自分の中のすべての感情を抑圧し、無視して生きるのだ。

 

尾形は恐らく、父親と母親が感じたくない感情をすべて背負い、自分以外が少しでも悪者にならないように、徹底的に自分が悪者になるような構図の中で悪役を引き受け、それを背負うために自分の感情を封印して生きている。

尾形が罪悪感を感じないのは当たり前だ。

すべての感情を抑圧することで、本来は父親や母親が感じるべき罪悪感まで引き受けているからだ。

「祝福された道が俺にもあったのか」なんてセリフは、感受性のない人間から出てくるセリフではない。

母親のために鳥を撃ち続けたから銃撃がうまいのか、と考えると、銃を持って鳥を抱えて一人でたたずむ無表情な子供の尾形の姿が悲しく見える。

 

尾形が元々罪悪感を感じない人間ならば、勇作を殺したときの夢を見ない。

尾形が非情で優しさの欠片もない人間であれば、多少、自分の気に障ることを言われても、鶴見の方針に従って勇作を利用するために生かしておいただろう。

尾形が勇作に殺人を強いたのは、殺人が悪いことだとわかっているからだ。自分にとってキツイことだからこそ、その地獄を生きる仲間になって欲しかったのだと思う。尾形なりに、弟からの愛情を求めている。

 

勇作が言った「兄様はけしてそんな人じゃない」は、その通りだと思う。

だがそれは言ってはいけない言葉だ。

何故なら尾形は「そんな人」でいることで、かろうじて周りの人間の罪悪感をすべて背負い、周囲のすべての人間にとって「冷酷な加害者」の役回りを引き受けていられるからだ。

そんなことを言われれば、「自分は誰を殺しても、罪悪感など感じない」ことを自分自身に証明しなければならなくなる。

だから「殺さない方向で」いたはずの勇作を殺したのだ。

 

勇作は、尾形にとってのパンドラの箱である「感情」に触れてしまった。

自分に「憑いていたもの」勇作を殺したときの記憶から目覚めた尾形は、「ヒンナ」が言えるようになる。感情の蓋が開きかかっているのだ。

 

尾形は花沢家のスケープゴートでは。

尾形はアダルトチルドレンの類型のひとつであるスケープゴートに見える。

家族全員の感情のゴミ箱であり、自分が周りの負の感情を一心に引き受ける「悪役」になることで家族の結束を高めさせたり、その矛盾を解消させる存在だ。

 

尾形が、両親のために引き受けた罪悪感も、それを背負うために抑圧してきた感情も重いものだ。

勇作はそれを封じていた蓋をずらした代償として、殺された。

蓋をずらしただけでも殺されるのだ。開いたらどうなるのか。

現実で考えれば、尾形が長年ためこんでいた激情をぶつけられた人間が、何人も死ぬ結末しか見えない。

 

尾形は元々は、人一倍感受性が豊かで優しい人間なのだと思う。こういう役回りに陥るのは、優しい人間が多い。

自分を可哀そうがりたい、被害者でいたい、罪悪感を押し付けたい、自分が見たくないものを見ないようにしたい人間がワラワラよってきてその優しさにつけこみ、食い物にするのだ。辛い。

そうして勇作のように善意で、しかし不用意に自分に近づく人間を傷つけたり、殺したりしてしまう。

それでまた自分は「何かが欠けた人間」と思い込む。

 

「ゴールデンカムイ」はまだ続いているので、これからの尾形がどうなるのかわからない。この方向性なら幸せな結末を迎えるのは難しそうだが、行く末を見守りたい。

ゴールデンカムイ 17 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

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これを思いついたきっかけについて。半分くらい勇作殿への疑問と不満。

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本誌最終回まで読んだ感想。

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