書いた直後から「いやでも、ちょっと違うんじゃないか」という気がしていた。
何だかピンとこない。
この話は「神」がすごく重要な要素なのに、上の感想ではすっぽり抜け落ちている。そういう話なら、巡礼者ではなく普通の登山者でも成り立つのでは、という違和感がある。
というわけで、もう一度細かく読んで考え直してみた。
*読んだことがない人は本編からぜひ。
この話で自分が一番不可解だったのは、前後のつながりがちぐはぐに感じるところだ。
例えば剣道大会のシーンだ。
稽古着の達彦。
剣道大会の興奮と緊張のなかにあって、その蒼い稽古着の人物だけが常に他の人間とは別の方向を向き、ほんのささいな、しかし間違いなく他の人間とは違う身体の動きを示していたような感じがある。(略)
裕矢は身震いした。見知らぬ人間、あそこにいたのは自分の知らない人間だったのではないだろうか。
子供の頃からよく知っている兄とは違う、兄の姿をした誰かが、兄の稽古着を着て、兄の竹刀を持って勲と向かい合っていたのではないか。その誰かとは誰か。
(引用元:「滝」奥泉光 P180 創元社/太字は引用者)
印象的で不気味なシーンだ。
普通はこう書かれれば、きっと兄の達彦は今まで弟にも見せなかった「別人のような」とんでもない面を持つのだろう、というフラグになる。
もしくは文字通り、「兄ではない誰か」に入れ替わっていたかだ。
このどちらかでなければ、この描写がまったく意味がないものになってしまう。
ところがこのシーンを達彦視点で見るとこうなっている。
あの試合、達彦はわざと負けるつもりはなかった。
ただ若者組のリーダーである勲が無様に敗れるのはまずかろうとの心働きはたしかにあって、その一瞬の迷いが勝負を決した。
達彦はあまりに鮮やかに面を奪われたがゆえに、相手が故意に負けたのではないかとの疑惑を生み、勲をかえって傷つけたのではないかと懼れるともに、面の奥を窺えば、そこには例の微笑があった。
(引用元:「滝」奥泉光 P189 創元社/太字は引用者)
「わざと負けた」と勘違いして傷つくのでは、と勲を気遣っている。
裕矢が感じたような不気味さは、どこにもない。別人物と入れ替わっていたわけでもない。
では裕矢が兄を「自分の知らない人物」と感じたことは、勘違いだったのか?
裕矢視点がメインになっているこの話全てが意味のない勘違いと考えることが可能になってしまうので、それはありえない。
では、裕矢が見た「兄の恰好をした自分の知らない人間」は誰だったのだろう?
「その誰かとは誰か?」
誰かはともかく、それは達彦ではない。最後まで読むと、達彦はそういった不気味さや不可解さとは何の縁もない、どちらかと言えば愛情が深くまともな人間だということがわかる。
裕矢が兄・達彦だと思っていた人物が「自分の見知らぬ人間。他の人間とは常に別の方向を向いていた」と感じ、その人間が確かに現実では達彦でありただ単に勲の心境を慮っていただけ、というのはとても重要なことだ。
この話は細かく読み返すと、「不気味さ、不可解さとの境界が不明瞭な少年たちの話(裕矢視点)」と「勲に恋のような執着を見せる達彦の話」でまったく違うことを話しているのだ。
この二つはつながり干渉し合うが、別世界の話なのだ。
同じ事柄について話しているはずが、勲の視点と達彦の視点がまったく違うことを表しているのは恐らくそのためだ。
「滝」では黒と白の色が重要な要素になっている。
白が神(気)であり、黒が魔だ。
もうひとつ蒼(灰)があり、これは人の世界につながる色だと思う。
白と黒で、神と魔の世界における配分を表していると考えるとわかりやすい。
単純に黒=魔というわけではなく、例えば黒須が初登場時に「黒豹」に例えられているように、白装束に抑えられている不吉さのない黒であれば「魔」を表さない場合もある。
同じ蛇であっても、太郎が殺した蝮は「茶色に黒い斑点」が浮いているので松尾が指摘した通り、「神の使い」ではない。
だからこのときに「黒々とした気配を漂わせ押し寄せてきた魔」は、太郎が蛇を殺したために生じた魔ではなく、太郎の告白によって他の三人の心の中に生じた魔である。
また初登場時に「白い小湯」と対比して出てきた「チョコレート」は黒だ。(P207)だから裕矢は、チョコレートを口にするのを我慢する。
一人で六の神社に向かうときに
「それを食べてしまうとなし崩しに全てが壊れていくような気がした。(略)それを口にするのは全てが終わるときだ」
と感じたのはそのためだ。
「滝」は白と黒のコントラストとせめぎ合いによって、神と魔の領域の争いを表している。達彦の勲への思いによって、少年たちは知らず知らずその領域争いが発現する磁場に引き込まれてしまったのだ。
「デモンズソウル」のソウル傾向になぞらえて、少年たちと達彦たちの白黒の傾向を考えて辿っていくと、さらに面白い。
少年たちは一の滝での滝行のあとは、白い気で満ち溢れている。
裕矢の視点で見るものすべてが光り輝いている。苦楽を共にした仲間を、自分の手足のようになくてはならないもの、決して離れないものと感じている。
朝は白い気に満ちており、夕方から夜にかけての魔が出る時間になると不安や不吉な予感にとらわれるということを繰り返している。
達彦の策謀によって過酷な行程になり、太郎が発熱する。太郎の発熱をきっかけにして、少年たちの心に魔が忍び寄ってくる。
そしてこのあとは、ほとんどずっと黒の傾向が支配し、白の傾向が戻ってくることはない。
裕矢は「黒い邪気はタールのごとく身体にとりついて一生洗い落とせない」「皮膚を腐らせ、爛れさせ、汚い穴を空けるに違いない」と感じ、他の仲間たちは「焼死体のような姿で横たわっていた」
「焼死体」は黒く焼けただれた姿を連想させ、「最黒」と言っていい。
裕矢が引いた白の神籤も「黒の傾向」を清めることはできず、神籤を引く前は「白を引くことで清められるのではないか」と希望を持っていた裕矢をたちまち奈落に突き落とし、世界を取り返しがつかないほど変質させる。
松尾が失踪し蛇を殺したあとは、黒の傾向の臨界点となる。
松尾が殺した蛇は太郎が殺した蝮とは違い、「白い腹」を持っている。
「森」に「夕方」入り「白い蛇」を殺し、「黒いビニール袋」に入れて持ってくる。禁忌を二重三重にも犯した松尾は黒須の制裁によって、黒い血に染まり、顔を青黒く膨れ上がらせる。
白(神気)が死に絶え魔に支配された小屋内では、黒須、太郎、松尾の三人が生気さえ途絶えようとしている。
勲は青白い身体を清め、一人で七の滝に向かうが、清めた部分にも「神籤の黒」が入り込み命を落とさざるえなくなる。
少年たちは神気どころか生気すらない、暗黒の深淵で殺し合いのたうちまわる羽目になった。
その原因を作った達彦の世界は終始、白1レベルと黒1レベルを行き来するだけだ。
少年たちの世界では「神の気を発現する磁場」になっていた勲を、達彦は一貫して「宗教団体の次期指導者=人間」として見ている。
達彦は勲に強い執着と葛藤を持っているが、それはあくまで人間の世界の範囲にとどまるものだ。裕矢が見たような「見知らぬ人間」「世界が恐ろしいものに変わる恐怖」とは無縁である。
達彦視点で見ると、彼なりに葛藤してはいるものの、少年たちが置かれた状況に比べて割合のんきである。
自分の目論見が外れたときに「勝負に負けた」といい、勲への説明を恋文に例えて、書き終わったあと涙を流す。
山を下りるときに「裕矢のことがやけに懐かしく感じられる」と思ったことからも、達彦は魔に魅入られることがなく、真の意味で「夕方になると魔に支配される山」を下りることができたのだ。
達彦が考えていた「勲が真の指導者になるためには、清濁併せのまなければならない」ということは、勲は既に考えている。達彦が「罪は現れなければ罪ではない」と考えたように、勲も六の神社においてあるかもしれない手紙を裕矢の胸の中に収めておいてくれと言った。
達彦が勲に足りないと思っていたことは、勲はわかっているのだ。
達彦視点の「勲は指導者としてどういう人間であるべきか」ということとは、まったく次元が違う恐ろしい世界に裕矢たちは放り込まれてしまったのだ。
裕矢たちが放り込まれてしまった魔の世界を、達彦は一瞬だけ覗き見る。
五番の滝に向かう少年たちの亡霊のような姿を発見したときだ。
次々と現れる亡霊のような人影は全て同じように正面の霧の中へ消えていく。
そっちじゃない。達彦は叫びたかった。夢の中の人物たち。(略)
無言のまま粛々と白い闇に吸い込まれていく者らが達彦には断崖に身を投げる自殺者のように見えた。
霧の向こうの絶壁。白い行衣をはためかせ、奈落に落下していく少年たち。
(引用元:「滝」奥泉光 P229 創元社)
読むだけで鳥肌が立つような恐ろしいシーンだ。
達彦が少年たちの置かれた世界を共有したのは、自分が気付いた限りではこのシーンだけだ。
他のシーンでは「魔の世界に飲み込まれた少年たち」と「人間界にいる達彦」では、見えているものも感じているものもまったく違う。
同じ山の中におり同じ時間軸の中にいながら、その落差の大きさ、話の前後のちぐはぐさが少年たちを飲み込む魔の恐ろしさ、不可解さ、理不尽さをより増幅させる。
なぜ最初に読んだときは、「神」や「魔」の要素が抜け落ちてしまったのか。
たぶん自分がそういうものに余り素養がないので、知らず知らず達彦視点(人間界視点)になってしまったのだと思う。
達彦視点の事象を自分なりに解釈した感想なので、「人間同士だとこう考えられるのでは」「魔は人間のどこにあるのか」という話になってしまった。この話の感想としてはかなり筋違いなのでちょっと恥ずかしいけれど、あれはあれで自分が感じたことなので残しておこうと思う。
闇が深い山や森のような場所に磁場は形成されやすいし、そういう磁場に足を踏み入れることで自分が磁場となってしまう、というのは恐ろしい。
裕矢も自分が「磁場」になってしまったために、黒の臨界点とも言うべき「松尾の蛇殺し」のあとは、勲の白い髪が「汚点」に見えてしまっている。
達彦の話と合わせると「山鳩」を殺したのは、松尾ではないと思う。でも「松尾=山鳩」と考えると、黒に染まり邪悪な黒鳥になった松尾が「山鳩(元の松尾)を殺した」ということは十分成り立つ。
白(神)から黒(魔)がちょっとしたことでシームレスに変動して、取り囲む世界を変質させるけれど、その変質のしかたがその中にいるとわからない、ということを体感させてくれる。
たぶん人によっては、この話はこんなに色々と考えたり説明するまでもなく、読んだ瞬間に「わかる」し吐くほど恐ろしい話なのでは、と思った。
そういう視点で読んだらもっと面白いのかもしれないとも思うけれど、今でも十分怖いのでいいかな……という気もする。
続き。この考えでも不明確な松尾についてもう少し考えてみた。