うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

アンチミステリにして思想小説にして青春小説。多元的宇宙を持つ 奥泉光「ノヴァーリスの引用」

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前回の感想は衝撃の余り取り乱してしまったので、「どうせまたいつか読むだろう」と書いた通り、気持ちを落ち着けて再読してみた。

 

*以下ネタバレが含まれます。

 

 

前回はラストの衝撃が強すぎて他が全て頭から吹き飛んだが、再読してみるとラストに至るまでの展開もミステリアスで、先が見えない曲がりくねった暗い道を進むような、背筋がぞくぞくするような面白さがある。

たかだか150ページ足らずの中編に、よくこんな色々な要素を詰め込んだなと思うくらい多元的な要素が入っているうえに、そのひとつひとつが面白い。

 

アンチミステリとしての「ノヴァーリスの引用」

30代半ばになった大学時代の研究会の仲間だった四人の男たちが、大学時代の仲間の死の真相について酔った勢いで考え始める。

死んだ仲間……石塚は、当時、研究室で飲んでいた四人の目の前で転落死した。

ミステリー好きの松田が「あれは他殺だったのではないか」と言い出し、自分が考えたトリックと事件当夜の推理を話し出す。

 

奇書のひとつである「虚無への供物」など、未解決事件について登場人物が自分の推理を次々と述べるのはミステリーのひとつの型になっている。

これまた奇書のひとつである「黒死館殺人事件」のオマージュなのか、「ノヴァーリスの引用」はやたら衒学的で、ありとあらゆるジャンルの蘊蓄が出てくる。(この点は好き嫌いが分かれそうだ)

松田は「ノックスの十戎」や「ヴァン・ダインの二十則」へのこだわりを語り、「ディテクティヴ小説」はいかにあるべきか、などという話と絡めながら、「当日の夜、事件を目撃していた四人の中に犯人がいるのではないか」と言い推理を披露する。

 

ところが四人が話し始めると、様々な点で記憶の食い違いがある上に、新発見の事実まで出てくる。

四人全員が目撃した暗いホールで電話する人影、四人がいた研究室の隣りの部屋に誰かがいた気配、聞き覚えのある声による間違い電話、今まで何とも思っていなかったことのひとつひとつが意味を持つように思えてくる。

 

真相(?)は、ループものが隆盛の今の時代の読者だと、すんなり受け入れられそうな気がする。

関係というならだね、人間が肉体を持っているということこそが関係の出発点だよ。身体がなければ人間は関係できない。というか身体性そのものが関係なのであって、関係は宙に浮いているわけじゃない。

たとえば君がリュートを弾く。僕がそれを聴く。

そういう身体的な営みから関係ははじまるんじゃないのかな。君の表現する音楽は、そういう意味で、僕にとって詰まらないものではありえない。

 (引用元:「ノヴァーリスの引用」奥泉光 創元社 P79)

 

石塚が「とても幸福な思想ですね」と表現したこの考えが、この話の中で独特のルールとして機能している。

「石塚がリュートを弾き、主人公たちがそれを聴けば、関係性がそこに生まれる」

石塚が求めた「人間は本当に理解し合うことなど絶対に出来ない。でも、人間には理解し合う以上のことが出来る」という「理解し合う以上のこと」がこれだった。

しかしそれは最悪な形で訪れてしまった。

 

思想小説としての「ノヴァーリスの引用」

学生時代、主人公たちは自分たちよりも知識量や議論の仕方で劣っている石塚を、どこか見下していた。

しかし三十代半ばになって、若かったころ自分たちは「テキストに即して語りながら、私たちは多くの時間を己自身を語るのに費やしていたのであり、むしろテキストはそうした性急さに対する緩衝材の役割を果たして」いて、自分たちの内部にも石塚と同じやり場のないエネルギーからの鬱屈や苛立ちがあったことが分かるようになり、石塚の考えを見直し振り返ってみる。

 

石塚はマルクスの影響を受けていたため、主人公たちがいる研究会に参加した。その後、ドイツのロマン派の詩人であるノヴァーリスの影響を受けた。

石塚が死の間際に記した論文に記された考えは、「人間らしく生きるために死に強烈に引き寄せられている」と考えられるものだった。

総じて石塚の「論」の出発点が、初期マルクスの疎外論であることは、当時の発言と考え併せ、間違いないところであった。

つまりは「類的存在」たる人間の「自己疎外」状況が問題意識としてたてられ、疎外の克服と類的本質の回復が企てられる。(略)

石塚はこれを魂内部の出来事として捉える点に、彼の独自性があるということになろうか。(略)

こうした断片にノヴァーリスの思想の反映を視るのは難しくない。

ノヴァーリスの観念論は宇宙を自己の内部に位置づける。

宇宙は私の中にある。外界は内界の暗い影にすぎず、自分を知ることこそが世界を知ることである。

 (引用元:「ノヴァーリスの引用」奥泉光 創元社 P65)

 

仲間の一人の進藤は、石塚はこうした「霊肉二元論」に基づき、ノヴァーリスのように亡き恋人を想い、肉体から脱出して高次の次元に行くために自殺したのではないかと主張する。

しかしそれは恐らく、学生時代からの恋人と離婚し、その理由を語ろうとはしない進藤が、昔と変わらず「石塚に即して語りながら、己自身を語っていたのではないか」ということが推測できるようになっている。

 

 青春小説としての「ノヴァーリスの引用」

 「ノヴァーリスの引用」は、青春小説である。自分にとってはこれが一番重要な要素だ。

青臭くて泥臭くて、自分というものが分からなくて、見るものすべてがキラキラしていて、それを語り時に攻撃することでしか自己表現できず、しかもそのエネルギーがどこから来るのかと思うくらい、発散しても発散しても尽きなかった「あの頃」のことを語った小説だ。

「ノヴァーリスの引用」はとても自意識過剰で気障な小説なので、自分もそれに乗っからせてもらうと、「生きていくということは魂を少しずつ殺すことだ」*1ということが語られた話なのだ。

石塚は、主人公たち四人が生きていく中で殺した自分自身なのだ。

 

他の人の感想も少し読んだけれど、駄目な人にはまったく駄目な話なのも分かる。

自意識過剰でやたら衒学的で、何も知らないくせに傲慢だった「あの頃の俺たち」を語るおっさんたちの懐古趣味的な話。 

まあそうなのだ。

だがその是非を超えて、自分には「刺さる」話だ。

世の中には理屈を超えた、自分と親和性がもの凄く高い作品が存在する、という感覚が初めてわかった。

これが高じると危ない方向に行ってしまうのだろう。

 

痛い、辛い、恥ずかしい、懐かしい、泣ける。とても好きでとても嫌い。そしてとても美しく見える。

自分にとっては、そういう話なのだ。

 

「ノヴァーリスの引用」がまったく合わない。そんな人には「滝」がある。

この本のもうひとつ、というより最大の凄い点は、好みがかなり分かれる(と推測が出来る)「ノヴァーリスの引用」の後ろに「滝」が控えているところだ。

「滝」は恐らく多くの人が「傑作」と認める話だと思う。

「ノヴァーリスの引用」のやたら衒学趣味的な、頭でっかちな勿体ぶった言い回しが多い文体とはまるで違う、写実的で簡素な文体で清浄と退廃の世界を交互に行き来できる。

作品に合わせてこんなに表現を変えられるのか、と思うとその巧みさに嫉妬しかない。

「滝」は人間関係を変質させる「場」という見えない悪意について描かれた話である。

同性同士の関係の描写がかなりエロいので、そういうのが好きな人には堪らない小説だと思う。男同士の同性愛的要素にまったく興味がない自分ですら、ちょっとクラっときた。

推しは松尾です。(小声)

 

*1:どこかで読んだか見たかした言葉だと思うけれど、元が思い出せない