うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【小説感想】他人に自分の悪を引き受けさせ、狂わせる人間の恐ろしさ 奥泉光「滝」

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罠と悪意にからめとられ、極限状態に追いつめられていく少年たちの心理を緻密に描き出した傑作と名高い「滝」(裏表紙紹介)

滝

 

 

あらすじ

とある宗教団の若者組の少年五人は修行の一環として、山岳の七つの神社を二泊三日かけて巡る清浄行に出た。

主人公の裕矢は、教団の幹部の息子でカリスマ性を持つ憧れの存在・勲がリーダーを勤める班に所属できたことに喜びを感じていた。

少年グループは神社に到着するたびに神籤を引くが、黒の神籤を引いた場合は遠回りをして辛い滝行をして魔を払ってから次の神社を目指さなければならない。

裕矢の兄・達彦は、若者組の少年たちを陰からひそかに見守る役目を負っていた。勲に愛憎半ばする複雑な感情を持っている達彦は、勲の人間らしい感情を見たいという思いから神籤を操作して黒を連続して引かせる細工をする。

滝行はとてもつらく、何回も連続して黒を引くリーダーに対して、メンバーたちが不平不満を抱くことを達彦は経験上知っていた。

少年たちは辛い滝行と山岳行で極限状態に追いやられ、強い絆で結ばれていたはずが徐々に険悪な雰囲気になっていく。

メンバーの一人、太郎が高熱で倒れたため、勲はますます苦しい立場に追いやられる。

達彦は、グループを救うために勤が神籤の場所をあらかじめ知ることを受け入れるかを知りたくて、勲宛に「白の神籤」の場所を知らせる手紙を書き、その結果を見守った。

 

 

*読み返したらまったくしっくりこないので、読み直してもう一度考えてみた。

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感想

思い浮かんだのが「蠅の王」

 

少年たちが極限状態の中で疑心暗鬼に陥り、徐々に悪に変貌していく、という筋は似ている。

似ているけれど、この話は「蠅の王」にもない独特の不気味さがある。

 

「蠅の王」はどの人間の中にもある「悪」が発現したという話だ。

「滝」は、「どの人間にもある悪」を自分自身で受け入れることを拒否する人間が、周りにどんな影響を及ぼすか、ということを書いている。

 

「蠅の王」ではピギーやサイモンのように、「自分の悪性(獣性)を持っているが、それを発現していない人間」がいて、その対比として「自分の悪性(獣性)を発露しているジャック一党」がいる。

発露しているかしていないかの違いがあるにせよ、「その人の悪はその人自身が持っている」。

 

「滝」の面白く怖いところは、「悪」をそれぞれの人の中に絶対的に存在しているものではなく、関係性の中で相対的に、結果的に出現するものとして書いているところだ。

勲が引き受けないことで他者に押し付けようとしていた自らの悪性を、それを理不尽に引き受けさせられている松尾、達彦が何とか勲に返そうとしている話、と自分は読んだ。

松尾と達彦は意識的にはわかっていないにせよ、潜在的にはこの構図に気づいている。勲の悪性にも気づいている。

達彦はそれをうまく表現できない。

たとえば達彦は勲が愛されれば愛されるほど自分が嫌われ、勲の評価が高まれば高まるほど逆に自分の評価が下がっていくような気がした。

 (引用元:「滝」奥泉光 P185 創元社)

 

言葉にすると「嫉妬では?」「勘違いでは?」とつい思ってしまうので、本人は言いづらい(というより達彦のように、本人もそう考えがち)だが、こういう現象はけっこう見かける。

人の性質は絶対的なものではなく、集団の中の役割や立ち位置や各人の関係によって相対的に決まる面がある。

カジュアルな説明であれば「キャラ被り禁止」、よく知られている現象ではスケープゴートがそれに近い。

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誰かが自分の持っている悪性を引き受けないと、その悪性は消えるわけではなくその場(集団)の中に残るのだ。そうすると他の誰かがそれを引き受けなければならない。

関係性は相対的に決まる面があるので、「悪を引き受ける誰か」がいることでその集団内の他の人間が相対的に「悪ではなくなる」。

「責められる悪ではいたくない」というのは誰でもそうなので、特定の集団の中ではこういう力学は働きやすい。

言葉にするとややこしく聞こえるが、日常生活でもよく見る現象だ。

 

弱さも同じで、少年五人組のそれぞれの弱さは、清浄行においては太郎に「可視化した弱さ」として集約されている。「太郎が弱いから、相対的に自分は強い」こういう関係性が可視化される。

これは「太郎という人間が絶対的に弱い」わけではなく、集団内の力学として「集団の弱さが太郎に集約されている状態」にすぎない。

 

太郎は「蛇を殺してしまった」という、自分の「悪」を告白する。

松尾はそれは誰の心の中にも当たり前にある「弱さ」だ、太郎一人が特別に弱い(悪である)わけではない、ということで、個々人にそれぞれに悪(弱さ)を再分配し、悪の不均衡を正そうとする。

「ぼくは蛇を殺した、蛇を殺したんだ!」

沈黙のなかに太郎の嗚咽が響いた。(略)

「それはきっと蝮だよ(略)」松尾は勢いこんで言った。

「だから太郎が殺したって仕方がない。そうしなかったら危険だったんだ。だからしょうがなかったんだ」

 (引用元:「滝」奥泉光 P185 創元社/太字は引用者

 

ところが勤は、松尾の「それぞれの悪は本人に引き受けさせる。そしてその悪は誰にでもある当たり前のもの」という、「悪の不均衡によるグループ内の歪みの是正」を、「魔」という概念に「悪」を背負わせることで拒絶する。

「そうかもしれない」勲が松尾を宥めるような口調でいった。

「しかしこれは魔の仕業だ」

  (引用元:「滝」奥泉光 P185 創元社/太字は引用者)

 

自分の悪を引き受けたくないがために、太郎の弱さを受け入れないところが逆説的に、勲が「自分の中の悪を自分で引き受け、抑え込んでいる清廉な人物」ではなく、他人に自分の悪を押し付ける邪悪な人間であることを示している。

勲は自分の中の悪を認めたくないがために、疲労困憊しているグループのメンバーに滝行を強いる。

自らの悪が発現する可能性がない中でなら、太郎に滝を当てないなどの一見優しさを示すこともある。

しかし根本的には、自分がいかに自分の悪を引き受けないかということしか考えていない。

太郎が高熱にうなされながら滝行を行うことで弱さ(悪)を拒否したために、今度は「悪」のお鉢が松尾に回ってくる。

勲の悪を見抜いている松尾は、滝行を拒否する、蛇を殺すことで「『勲の悪』として対峙する」という方法で何とか勲に自分自身の悪と向き合わせようとする。

松尾は自分の一身に理不尽に集約された「悪」を、他の誰かに回すのではなく、悪の根源である勤に返そうとした。失踪して蛇を殺したのは、そのためである。

しかし勲が自らの悪(=蛇を殺した松尾)と対峙することから逃げ出したため、松尾は「悪として」黒須に暴行される。

 

松尾、達彦は「勲によって悪性を引き受けさせられている仲間」だ。

松尾の前では達彦は己の醜さを恐れなかった。(略)

達彦は何とは言えぬ、仲間の匂いを嗅ぎわける獣のような仕方で、自分と同類のものの匂いを松尾に嗅いでいた。松尾も同じ匂いを嗅いでいるに違いない。

 (引用元:「滝」奥泉光 P185 創元社)

だから松尾と達彦は勲の悪性を勤自身に返そうとして(発現させようとして)、あの手この手を使っている。

 

裕矢も漠然と勤が引き受けなければならない「勲自身の悪」の存在に気づいている。裕矢が山の中で何度も感じる、後ろから見られているような視線は、達彦、河合のものではなく、勲(悪)のものだ。

そのことが六番の神社に行ったときにわかる。

勲の顔。勲の微笑。みるみる溶け崩れたその奥から得体の知れぬ奇怪な顔が現れる。別れ際の勲の顔。微笑の背後に隠された冷酷な観察者の眼。微笑する仮面を被った見知らぬ人物。顔のない人間。背中に冷たい視線を感じて裕矢は振り返った。(略)

しかも隠れる場所のありえない平面のどこかに誰かがいて裕矢を見張っている。

 (引用元:「滝」奥泉光 P252 創元社)

 

勲が逃げ回る自分自身の悪(=「魔」)は、勤が引き受けないがために色々な人に取りつき、魔を呼び覚ましてしまう。

河合と黒須は、勲が引き受けない浮遊している魔に惑わされ、自分の悪を発現してしまう。

 

最初のうちは達彦の策に嫌悪を示していた河合が、最後には達彦を上回るような悪意を見せたことが、「引き受け手がない浮遊した悪」がどれだけ人を狂わすかということを表していると思うと身震いがする。

状況が違ければ、河合は達彦が言った通り、細かい物事にはこだわらない闊達な好感の持てる青年のままだった。そういう人が「何かやられたから」とか「切羽詰まって」ではなく、いくつかの状況が重なり合った中で他人に悪意をもって何かを行うように変貌してしまうということが恐ろしい。

 

「滝」は関係性という磁場の中で形成される「浮遊する悪」の恐ろしさ、それがどういうメカニズムになっていてどういう結果を生むか、そして何よりそのわかりにくさをわかりにくいまま描いたところがすごいと思う。

サラっと読むだけだと色々なところがちぐはぐだったり、心境の移り替わりや場の空気の豹変が唐突に感じられ、「大筋ではわかるんだけれど、細かいところは何となくすっきりしない」ような曖昧で後味の悪い感想になる。

「別にどうということはないけれど、何となく変だな」と思う感じが、引き受けるべき人が引き受けることを拒絶した浮遊した悪や弱さが集団内にあるときの気持ち悪さやどことなく変な感じ、何かおかしいと思う感じをよく表している。

サッと読むと何となく「達彦の勲への感情や作為が問題」「松尾が邪悪だった」と見えてしまうところ(本人も含めて関係した人もそう思いがちなところ)が、この種の問題の一番の問題だよなあと読むとモヤモヤしてしまう。

 

そのすっきりしない気持ち悪さが後味として心をざらつかせるところが、この話が傑作と言われている所以なんだろうな。

ノヴァーリスの引用/滝 (創元推理文庫)

ノヴァーリスの引用/滝 (創元推理文庫)

  • 作者:奥泉 光
  • 発売日: 2015/04/26
  • メディア: 文庫