うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【小説感想】アイデンティティの確立が出来ないアルバニアの苦難を描く イスマイル・カダレ「誰がドルンチナを連れ戻したか」

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「ヨーロッパで最も重要な作家の一人」「ノーベル賞を十回受賞してもおかしくない作家」と海外では高い評価を受けている、アルバニアの作家イスマイル・カダレの「誰がドルンチナを連れ戻したか」を読んだ。

 

あらすじ

三年前に遥か遠くの国に嫁ぎ、それ以来音沙汰がなかったヴラナイ家の一人娘・ドルンチナが、母親が一人で住む家に突然戻ってきた。

「一体、誰に連れてきてもらったのか」という母親の問いに、ドルンチナは「兄のコンスタンチンに連れてきてもらった」と答える。

娘の答えに母親は、恐怖の余り気絶する。

息子でありドルンチナの兄であるコンスタンチンは、死んで既に埋葬されていたからだ。

ドルンチナが遥か遠くに嫁ぐことに強く賛成していたコンスタンチンは、ドルンチナの結婚を嘆く母親に「母親が希望したときは、必ずドルンチナを連れ帰る」という「誓い(ベーサ)」を立てていた。

母親はコンスタンチンが死んだとき、「誓い(ベーサ)」を破って死んだことに恨みを述べていた。

程なくして母親とドルンチナはほぼ同時に死亡した。

「遺体の復活」は、正教会とカトリックの勢力争いの合間で翻弄されてきたアルバニアにとっては重要な問題であり、「甦ったコンスタンチンが、ドルンチナを連れ戻した」という噂が広がるにつれて、教会のあいだで大きな問題になっていく。

警備隊長のストレスは、「誰がドルンチナを連れ戻したか」という問題を解決するよう、主教から求められ調査を開始する。

 

*以下ネタバレありの感想。

 

感想

「誰がドルンチナを連れ戻したか」という問題を解き明かすミステリーとして読むと、肩透かしをくらわされる。

ストーリー内で、ストレスが連れ戻したのでは、ということも含めて様々な可能性が示唆されるが、それは重要ではない。

最後の種明かしで、この話は誰が連れ戻したかが重要なのではなく、「ドルンチナを連れ戻す」というコンスタンチンの「誓い(ベーサ)」が重要なのだということが明かされる。

「誓い(ベーサ)」が機能したことが重要であり、機能したことを以て「誓い(ベーサ)」という内部規範がアルバニア人の心の中に生まれる、という話で終わる。

「誰がドルンチナを連れ戻したのか」という問いに対しての答えは、「誓い(ベーサ)」だ、ということになる。

 

これは今の日本で多数派側の民族として暮らしていると、恐らくそうとうわかりにくい問題だと思う。

複雑なバルカン半島の情勢の中で、民族ごとに歴史を固定化できない、宗教も二転三転し、政治的にも不安定という状況で生まれて、「民族的アイデンティティとは何か」ということを常に問われ、維持しようという意思を持ち続けければ簡単に消えてしまいそうな民族に生まれなければ、頭で何となくこういうことかなとわかっても実感ができない。

アルバニアはコソボの問題を聞きかじるだけでも、「そういう問題を常に抱えてきた民族であり国なのだろう」ということが想像がつく。

 

以前、「グレートジャーニー」の感想記事で書いた

マジャンギャルの人の伝統にある、「自分の家族が傷つけられたら、必ず復讐しなければならない。そのためには本人ではなく、その対象の兄弟でもいい」という風習は、確かアルバニアにも残っていて、その風習の圧力による苦しみを主題にした本を昔読んだことがある。

 「復讐を強いられる話」は、恐らくイスマイル・カダレの「砕かれた四月」だ。

自分の一族が害されたら、決められた期間の内に必ず相手の一族に復讐しなければならない、という「掟(カヌン)」が存在し、その風習に苦しめられる男の話だった。

強いられて復讐を行って、今度は自分が復讐の標的になる。

そんな関係を何十年、何十人と人が殺し合いながら続けているという地獄のような話だった。

 

本書で少し触れられているけれど、この「掟(カヌン)」による殺人は他の殺人とは違い、扱いが軽いらしい。社会の中で公然と受け入れられている。

自分の価値観だと「なぜそんな不合理な風習を、誰も止めようとしないのだろう」と思うが、この「掟(カヌン)」も生まれ、人々の中に根付いた必然性が恐らくある。

歴史にも宗教にも言語などの文化的差異にも頼れなかった、「アルバニア」という国とは、民族とは何なのか、を証明するものの一端として機能し続けてしまったのだろう。

そういう危機に瀕したことがない多数派の人間には、それがどういう意味を持ち、なぜ続いてきたのかということを理解するのは難しい。

どんなものであれ、その地に生きる人々が言語化せずとも、明示されなくとも「共有できる何か」を意識的に維持し続けなければならない、そうでなければ消滅してしまう、という感覚は少なくとも自分は一度も持ったことがない。

日本でもアイヌの人などは、そういう危機感をずっと味わってきたのだろうと思うけれど。

その逆の発想で行われるのが同化政策なので、「文化や歴史を消滅させれば、特定の民族を消失させることがてきる」というのは歴史的にごく普通に行われてきた発想だ。

 

本書の内容に話を戻すと、進歩的な思想を持っていたコンスタンチンは、旧時代的な「掟(カヌン)」の代わりとして、「誓い(ベーサ)」を人々の内部規範として機能させることで、「アルバニア」という国に血肉を与えようとしていた。

だから「ドルンチナを連れ戻したのは、アルバニアの人々の内部に共通する『誓い(ベーサ)』なのだ」という答えがとても重要なのだ。

それは「民族の神話」として脈々と受け継がれ、人々の心の中に集合的無意識として根付いていく。

こういう問題には不案内なので、つい気軽な気持ちで「そんな不合理な掟なんてなくせばいいのに」「人々の中に共有すべき内部規範を確立するとかそんなに重要なのか」と思ってしまうが、本編や訳者あとがきを読むと、そういう状態で生まれるとどれだけアイデンティティを脅かされ、そのことに切迫した危機感を持つのかということをひしひしと伝わってくる。

 

話の始まり方から中盤までがミステリー的筋の運びなのに、最後で突然形而上のことに話が飛躍してしまうところは読み物としてはちょっとなと思うけれど、それを差し引いても考えさせられ、面白い話だった。

 

たぶんこの本だと思うけれど、最初読んだときは「掟」の余りの不条理さに目が点になった。

砕かれた四月

砕かれた四月