うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【鬼滅の刃キャラ語り】産屋敷耀哉の怖さは、不死川に言った「ごめんね」にある。

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前回の記事で語った通り、自分にとっては無惨よりも耀哉のほうが怖い。

「無惨よりも」というより、今まで読んできた創作の中でもトップクラスに入るほど、自分にとってお館様は怖いキャラである。

 

耀哉の怖さが一番出ていると思うのは、戦えないことを不死川に責められた19巻のシーンだ。 

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(引用元:「鬼滅の刃」19巻 吾峠呼世晴 集英社)

 

もし耀哉が「済まない」や「申し訳ない」と返したなら、まったく怖くない。

「柱を始めとする鬼殺隊の隊士が、なぜ耀哉に心酔するのか」を表現するシーンだとしか思わなかっただろう。

つまり怖いのは、「話の内容」ではない。

「ごめんね」という言葉自体なのだ。

 

全ての相手に「私と君」で向き合う耀哉の異質さ

「済まない」「申し訳ない」と「ごめんね」の違いが何かと言えば、「ごめんね」は「公的(社会的)要素」が一切混じらない、「私的(個人的)要素」のみで出来た言語だということだ。

これを仮に「私的言語」と呼ぶ。

 

自分が読んだ限りでは、耀哉はどの相手に対しても「私的言語」で話す。

誰に対しても「私と君」の関係のみで向き合う。

 

鬼殺隊士にも、妻子に対しても、無惨に対してもそうだ。

自分の家族、部下(耀哉は子供と同じと言っているが、一応)、自分の命を賭けても殺したい鬼、この全てへの対応が同じなのだ。

これは異常なことだ。

 

人は普通、自分の家族、恋人、友達、先輩、後輩、職場の人間、初対面の相手と相手の属性や自分との関係性によって対応を変える。同じ家族でも親、パートナー、兄弟、子供では変わるだろう。

一般的には自分と関係が遠ければ遠いほど、「公的(社会的)な要素」が強くなる。初対面であれば多少は気を遣うように、「公的(社会的)要素」が一切ないということは「社会」という概念が理解できない幼児ならばともかく、大人ではあり得ない。

 

耀哉の内部には「私」しか存在しない

「公的(社会的)要素」は「私」を抑圧するものであると同時に、「私」を守るものでもある。

「社交辞令」は、「同じ社会に生きる相手であれば、大多数が共有できる社会通念」に基づいて個人的な関係に基づく摩擦を回避する。「社会的要素」を楯にして、その中に自己を隠すためのものだ。

 

記事の冒頭にあげたシーンが「怖い」と思うのは、不死川の糾弾に対して耀哉が「社会的防護でもある公」を一切抜きにした「私」でのみで答えているからだ。

 

上記のシーンの不死川の糾弾はすさまじい。

「白々しいんだよォ、鼻につく演技だぜ。隊員のことなんざァ、使い捨ての駒としか思ってねぇくせに」

相手をわざと挑発する怒りや侮辱がこもっていることはもちろんだが、それ以上にこのセリフは耀哉の立場であれば感じざるえない罪悪感を突いている。

不死川のセリフは露悪的なので、まだ「怒り」という逃げ場があるが、これを冷静に指摘されたら普通であれば「私」では受け止めきれない。

多少なりとも「公」の立場を防護に使う。

例えば「鬼隊隊の総帥なのに、こんな風で申し訳ない

耀哉が話している内容と同じだが、太字の部分は「公的要素」が混じっている。つまり「私」ではなく「私の外側の公」で受け止めている部分だ。

 

日常的な言葉を、公私で完全に分けている人間はいない。

親しい相手であっても、会話の中で咄嗟に「の言うことを聞け」のような公的(社会的)要素は出てくる。

ところが耀哉はどんな相手でも(無惨であっても)どんな状況下でも(罪悪感を突かれても)「私」しかない。

 

「公私の区別がない」というと、普通は「私(自己)本位にしか物事を考えられない」という意味を含む。

しかし、耀哉はそういう人物ではない。

ストーリーの展開を見ても、自己本位とは反対に自己のことは一切考えていないキャラに見える。

 

つまりこの「私」は、一般的考えられるような「自己」ではない。

 またこの「私」が「公的(社会的)要素」を包括しているわけでもない。

耀哉の「私」には、「公的要素」も「自己」も含まれていない。

それは、妻子が自分に殉じたことに葛藤が描写されていないことでも分かる。「夫・親」として「妻子」への義理や情が描かれておらず、「自己の信念に他人を道連れにする」疑問や葛藤も描かれていない。

「描かれていない」ということは、そのキャラクターを描く上で必要ないと判断された、ということだ。

 

「公的(社会的)要素」が一切含まれておらず、「自己」も一切含まれていない「私」。

耀哉の「私」は、一体何なのか?

 

耀哉と判事は同じことを話している。

耀哉が本編の中で最も自分をさらけ出しているのは、自決寸前の無惨との会話である。

この会話で、耀哉は「『私』が何者か」を語っている。

 「永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり、不滅なのだよ」

「その事実は今、君が……*1下らないと言った、人の想いが不滅であることを証明している」(16巻)

 

この耀哉のセリフで思い出したのは、「ブラッド・メリディアン」の判事のこのセリフだ。

 「私の記録簿に載ろうと載るまいとすべての人間はほかの人間のなかに宿るしその宿られた人間も他の人間のなかに宿るという具合に存在と証言の無限の複雑な連鎖ができてそれが世界の果てまで続くんだ」

自分から見ると、耀哉が無惨に語ったことと判事が語っていることは、全く同じだ。

 

二人は「歴史とは何か」について話している。

歴史とは「起こった事実」ではなく「残された記録」でもなく、「時代を超えた人々の繋がり」であり、その「繋がり」は多分に恣意的なものだと言っている。

判事はすべての物事を記録することで、先住民を虐殺した「歴史」は人々の中で歪められて残るだろうことを示唆し、耀哉は「歴史は恣意的であるがゆえに、無惨が追い詰められ死ぬことは確定している」と語る。

 

「ブラッド・メリディアン」で語られていることは、「(歴史的な)真実や事実」は「それ自体として存在する」のではなく、ある種の機能ではないかということだ。

以前、「解釈違いは何故怖いのか」という記事でこう書いた。

歴史とは「事実ではなく人の想い(認識)である」

「人間の想い」=「認識したもの」が事実として残り、「認識されないもの」は存在しなくなる。 

歴史とは「事実そのもの」ではなく、人々の恣意的な認識によって造られるものではないか、ということが「ブラッド・メリディアン」で語られていることのひとつだ。

 

耀哉は「『人の想いが恣意的に作り出す歴史』という機能」そのもの

耀哉とは、「人々の繋がりが本体であるがゆえに、恣意的に結果を導き出す歴史」そのものなのだ。

体現した人物なのではない。人物なら必ず「自己」がある。

「自己ではない私」しかない耀哉は、人物ではない。

判事と同じように、「歴史という機能そのもの」なのだ。

耀哉が「公的要素」を持たないのもそのためだ。

「公的要素」=社会は、その時代の状況から生まれるものだからだ。

耀哉は「歴史の機能そのもの」なので、時代を超越している。社会の縛りを受けないものなのだ。

 

耀哉が語る「無惨は必ず追い詰められる」は、意思ですらない。それは「歴史が恣意的に導きだす、確定された未来であり事実」なのだ。(実際に導き出された)

あの無惨が、耀哉を「常軌を逸している」と言うのも分かる。

 

 耀哉が「私」によって、他の人間のどんな想いも受け止められるのも当たり前だ。何故ならその「想い」こそ、耀哉の「私」だからだ。

匡近が死んだことで感じている、不死川の怒りや悲しみや喪失感も耀哉の「私」の一部だ。

「人の想い(認識)」の集合体が、この先の未来を事実として確定させる。

判事は「であるから、このすさまじい虐殺は事実を骨抜きしたものが歴史として残るだろう」と語り、耀哉は「であるから、無惨は必ず死ぬ」と語る。

 

話していることが物語内の「悪いこと」と「良いこと」であるが、二人の内部に眠る物は全く同じだ。

判事のほうがまだしもマシだ、と思えるのは、判事は「人々の認識という恣意的なもので決定する歴史の恐ろしさ」を表すように、見るからに異様な人物であり皆から恐れられるからだ。

耀哉は皆から心酔されている。

 

耀哉の場合は、「標的」にされた無惨ですら余りピンと来ていないように見えるが、判事の場合は、射程内に入ったウェブスターが「標的にされる怖さ」をよく認識している。

ウェブスターがそういう書き物や絵をどうするのかと訊いたとき、判事は笑みを浮かべて、

「自分はいろんなものを、人類の記憶から消そうと思ってやっているんだ」

と言った。(略)

「でも俺の絵は描かないでくれ」

とウェブスターは言う。

「俺はあんたの記録簿には載りたくない」

「私の記録簿に載らなくても、誰かの記録簿に載る」

と判事は言った。(略)

「とにかく俺の面は描かないでくれ。知らない連中に見られたくないんだ」

判事はにやりと笑った。

「私の記録簿に載ろうと載るまいとすべての人間はほかの人間の中に宿るし、その宿られた人間もほかの人間のなかに宿るという具合に、存在と証明の無限の複雑な連鎖ができて、それが世界の果てまで続くんだ」

「俺は自分で自分の証人になるよ」

 (引用元:「ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤」 コーマック・マッカシー/黒原敏行訳 早川書房 P211-212 太字、括弧、読点は引用者) 

 

耀哉は現世で生きることに執着しないのは、「現世に執着することの意味のなさ」を知っているからだ。

だからあまねや子供たちが自分に殉ずることに何も葛藤がない。

 

現代編こそが「鬼滅の刃」の本質を表している。

最初に読んだときは最終回の現代編は、「救済」や「ファンサ」と捉えていたが、現代編こそが「鬼滅の刃」という話の精神性をよく表していると考え直した。

人の想いは永遠に続く。

だから同じ姿形、同じ想い、同じ(もしくは改善された)関係性を持って生まれ変わり、また思いが続いていく。

前回も書いたけれど、「『自分』が現世で終わらず永遠に続く」という発想は、自分には呪いとしか思えない。

 

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(引用元:「鬼滅の刃」23巻 吾峠呼世晴 集英社)

輝利哉だけが「現世の自分」として生き続けていることが耀哉の存在のアンチテーゼとまで考えられていたら凄いけれど、これはさすがに「誰も三十年と生きられない、産屋敷家の呪いが解けた証明」なだけかな、と思う。

 

……思うが「もしかしたらそこまでつながっているのでは」と思わされてしまうところが、この話の凄いところだ。

 

 こんな恐ろしいキャラが、一体どこから生まれてきたのか。

 

*1:この「下らない」という前の間とか、こういう細かいところがいい。