本書は、立花隆が東京大学教養学部で実際に講義した内容を、書籍用に大幅に加筆修正したものだ。
先日の著者の死をきっかけに、十ン年ぶりに再読してみた。
この本で言わんとしていることは、
「若いうちは頭が柔軟だから、知識を入れるためのフレームワークを作った方が良い」
「では、そのフレームワークをどう作ればいいのか、というと、全体性、インテグレーション(統合)を大事にしなければならない。今の時代は、専門領域は細分化し深くなっているが、その分、フレームワーク自体は狭められてしまっている」
「文系は理系の基本的な知識がなく、理系は文系の基本的な知識がない。それは大変憂慮すべき事態だ」
自分が理解した限りでは、こういうことが本書の主眼だ。
いま学問の世界全体は、細分化、細密化がどんどん進んでいくことによって、全体としては、統合が失われ、解体しつつあると言ってもいいのです。
学問は深さだけ見ていくと各領域でとんでもなく深いレベルに達しつつあり、その方向からだけ評価すれば、学問は歴史上未曾有の成功をおさめつつあると言ってもいいわけですが、その一方で、全体性とかインテグレーション(統合)という角度から見ようとすると、解体寸前の危機的状況にあるわけです。
いま学問は、学問とはそもそも何であるのか、何であるべきなのかということがわからなくなっている、アイデンティティ喪失状態にあるといっていいわけです。
(引用元:「脳を鍛えるー東大講義『人間の現在』ー」立花隆/新潮社 P318/太字は引用者)
こういう危機意識が、この講義を行ったモチベーションになっているのではないか。
専門領域のみの知識を深めるのではなく、専門外の分野もある程度知り、この世界全体の知の枠組みがどうなっているかを知る。
これからどの領域を学ぶにせよ、そういう土台を作った方が良い、と繰り返し語られている。
全十二回の講義のうち、前半は主に文系、後半は理系に属する話題を取り上げている。
以下は各回ごとの印象に残った部分と感想を書いた。
第二回 「荘子」を十年かけて読む赤塚先生の授業
著者が大学時代の思い出深い授業として、赤塚忠先生の中国哲学の授業をあげている。
この授業では「荘子」の精読を行うのだが、漢字ひとつひとつの由来まで精査するために一日1ページ分くらいしか進まない。
当然、一年で終わるどころか、「荘子」全三十三篇を終えるのに十年はかかる計算になる。
本書では人の評価がかなりはっきり書かれているので、例えば第四回では小林秀雄が、「そんなに書いて大丈夫かいな」と思うくらいクソみそに言われている。
この赤塚先生は読んでいるとはっきりと尊敬の念が伝わってきて(珍しく)、読んでいて心地がいい。
ぼくは大学の存在意義のひとつは、ああいう先生にとことん好きなことをさせておく知的鷹揚さにあると思うんですね。(略)
人間の文化活動の一番すごい部分というのは、たいてい社会的有用性がゼロのところで行われているんです。
有用性はゼロだけど、ごく少数でも本当にその価値を認める人がこれはすごいというようなものを、どれだけその社会が支えてやれるか、そういうことがその社会の本当の文化水準を示すと思うんですね。
(引用元:「脳を鍛えるー東大講義『人間の現在』ー」立花隆/新潮社 P90/太字は引用者)
これは共感した。
理系の分野でも、すぐには結果が出ない、結果が出るかどうかもわからない基礎研究はおろそかになりがちでその結果、長い期間をかけて弊害が出ているという話はよく聞く。
学問や研究は本来、長期スパンで考えるべきものだ、というのはよく分かる。
そこに予算をどれくらいかけられるか、それだけの価値が認められるかが、社会の余裕や成熟度を示している。
長い目で見ると、そのほうが競争力もつくように思う。
現状を見ていると、「じっくり時間がかかる分野を守る」余裕がどんどん失われていきそうで怖くなることがある。
第四回 ポール・ヴァレリー「テスト氏との一夜」
二十歳でいったん筆を折って、四十過ぎでまた書き始めたポール・ヴァレリーの話が中心。
著者であるヴァレリーが「悟性神話上の怪物」と呼ぶ、テスト氏とひと晩過ごすだけでストーリーがあるようでない「テスト氏との一夜」を巡って、テスト氏とは何者なのか、ヴァレリーの目的はどこにあったのか、という話が展開される。
この回はとりわけ面白くて、「テスト氏との一夜」が気になったので買ってみた。
第五回 『純粋観客』エラスムス
「自分が何に向くのか、どういう立ち位置を取ることが多いのか、若いうちに見極めておくといい」
という、よくある自己啓発のような話なのだけれど、その例えとしてエラスムスが出てくる。
エラスムスはカトリック派とルター派のどちらからも距離を置いていたから、両派から批判された。
立花隆は、エラスムスは恐らく「純粋観客」とも言うべき気質の人で、自分が「その場」に巻き込まれることを好まず、外側から冷静に観察する人だったのではないかということを述べている。
こういう人が「優柔不断」「どっちの味方なんだ」と、党派性第一の人から苛烈な攻撃を浴びるのはいつの時代も変わらないんだなあと思った。
「純粋観客は、知のキメラたらざるを得ない」(P257)
どんな思想にも冷静に客観的に視れば間違いや欠点はあるだろうから、そうなるだろう。
それが「優柔不断」と言われるなら、自分なんかは「人は優柔不断であるべき」くらいに思う。
第六回 これから読むべき本を記した読書ノート
これからどういう人の著作を読むべきか、作家の名前をリストアップしたものです。全部で300人あまりリストアップされています。
このリストは、東京堂出版から出ていた「世界文芸辞典」の西洋編を初めから終わりまで読んで、これはと思う作家を片端から引っ張り出したものです。
(引用元:「脳を鍛えるー東大講義『人間の現在』ー」立花隆/新潮社 P268)
初読のとき真似した。
すぐに止めてしまったけれど、作家の名前や著作のリストを作るだけで楽しかった。
三百人の作家の本を、「この作家はもういいや」と思うまで読み続けるってン十年かかっても終わらなそうだ。
第十回 文系の人は、相対性理論のここさえわかっていればOK、ニュートンの宗教的心情
第七回からは理系の話がメインになる。
初歩の話をすごく易しくして話していることと、理論や法則そのものの話の他に、その発見の歴史的意義や発見に至るまでの経緯などの話も多いので、意外と楽しく読める。
大事なのは、アインシュタイン以前と以後で、世界の見方がすっかり変わったということです。
文系の人にとって大事なのは、そこのところで、そこさえわかれば細かいところはわからなくていいと思います。
アインシュタイン以前と以後でいちばん違うところは、前に述べたように、絶対静止空間がないということです。
ニュートンは絶対静止空間があると考えていました。
(引用元:「脳を鍛えるー東大講義『人間の現在』ー」立花隆/新潮社 P400/太字は引用者)
滅茶苦茶ざっくりと表しているのだろうけれど、これだけすっきりと「これだけわかっていればいい」と言われると、分からないなりに「へえ」と思える。
自分が一番面白いと思ったのは、「ではなぜ、ニュートンは絶対静止空間がある、と考えていたのか」というこの後の部分だ。
ニュートンが「人間に感知できる空間や時間が相対的なもので、人間が感知できない絶対的な空間や時間もある。そしてそれが本質的なものだ」と考えていた。
それはニュートンがこの時代を生きる人間として、当たり前のように「神を信じていたからだ」
ニュートンと聞くと、近代科学の礎を築いた人だから、さぞや科学的な精神の持ち主なんだろうと思うかもしれませんが、ニュートンの精神の根底には、こういう宗教的心情があったんです。
(引用元:「脳を鍛えるー東大講義『人間の現在』ー」立花隆/新潮社 P405/太字は引用者)
人の物の見方や認識の仕方、立花隆が言うところの「知の枠組み」を作るものは、その人の根底にある哲学だ。
どんな学問も根底には、「対象をどう見るか」という哲学がある。
自分は「何を勉強するにしても、まずその時代の哲学から勉強したほうが良い」と習った。
哲学が何の役に立つのかと言えば、「世界の認識の仕方の枠組みを作る」もしくは「自分の世界の認識の仕方そのものがどういうものかを確認できる」のが大きい、と思っている。
西洋哲学が「絶対的な正しいものがあるはずだ」という前提で「万物の根源が何であるか」を問い続けたのは、宗教の影響が大きいとはよく聞くけれど、ニュートンもそうだったとは知らなかった。
第十一回 女性だから苦労した、天才数学者アマリー・エミー・ネーター
この保存則と不変性と対称性というものが互いに対応関係にあるということを、最初にそれを提唱したドイツの数学者アマリー・エミー・ネーターの名前をとってネーターの定理というんですが、この定理によって、現代物理学は大展開を遂げます。
(引用元:「脳を鍛えるー東大講義『人間の現在』ー」立花隆/新潮社 P445/太字は引用者)
彼女はその間に、アインシュタインが一般相対性理論を作るとき、数学の面から助けるというようなことをもしています。
(引用元:「脳を鍛えるー東大講義『人間の現在』ー」立花隆/新潮社 P452/太字は引用者)
これを読んだとき、「天才物理学者と天才数学者の組み合わせと言えば『容疑者Xの献身』」と思い、興奮してしまった。石神さん。
ネーターは女性だから、というだけで最初は大学に入学にすることも認められず、大学院に進んだ後も、大学で教えることを教授会から反対され続けた。仕方がないから理解がある教授が、自分の代講という形で教壇に立たせたらしい。
ただ女性というだけで、才能があってもこんなに不当な扱いを受けるのか、と思うと読んでいて腹立だしい。
二十世紀初頭は、ドイツもこの状態だったのかと思うと、女性が社会で活躍できるようになったのはどの国も本当につい最近なんだなとしみじみ思った。
ネーターの定理も絡む「パリティ保存の法則」が破られる過程は、内容の詳細はよくわからないけれど、その経緯は知識がなくとも楽しく読めた。
久し振りに読んだけれど、自分が知識がない分野でも面白かった。脚注の蘊蓄も勉強になる。
この本の一番いいところは、学ぶことの楽しさを教えてくれるところだ。
「勉強する」モチベーションをあげるには、最適の本だ。