うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【小説感想】村上春樹「騎士団長殺し」の上巻に出てきた、凄く印象的な会話を読んで考えたこと。

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村上春樹の「騎士団長殺し」の第一部「顕れるイデア編」を読み終わった。

 

最初のほうは「つまらなくはないけれど」と思っていたが、第一部の途中からじわじわ面白くなってきた。

今まで村上春樹が書いてきたことの集大成と感じる。

「1Q84」を読んで、「長編はもういいかな」と思ったけれど、読んでみて良かった。

 

第一部の後半に凄く印象的な会話があったので、それについて感じたこと、考えたことを書きたい。

 

「そして私のあなたへの質問というのはこういうことです。あなたはその一時間のあいだに、私をあの穴の中に置き去りにしたいという気持ちをちらりとでも抱きませんでしたか? 私を暗い穴の底に、あのままずっと放っておこうという誘惑に駆られませんでしたか?」(略)

「置き去りにする?」(略)

「もし、あなたが戻って来なければ、私はいつまでもあの穴の底にいなくてはならなかった。そうですね?」(略)

「私が知りたいのは、その一時間のあいだに、『そうだ、あの男を穴から出してやるのはよそう。ずっとあのままにしておいてやろう』という考えが、ちらりとでもあなたの頭をよぎりはしなかったかということです」(略)

「そんなことはまったく頭に浮かびませんでした」(略)

「もし仮に私があなたの立場であったなら……(略)私はきっとそのことを考えていたはずです。(略)これはまたとない絶好の機会だと(略)穴の中で私はずっとそのことを考えていました。(略)実際にはあなたが地上にいて、私は穴の中にいたのに、私はずっと自分が地上にいて、あなたが穴の底にいることばかりを想像していました。(略)もちろん実際にそんなことをするわけはありません。(略)死というものを、頭の中で仮説としてもてあそんでいるだけです。(略)というか、あなたがそのような誘惑をまったく感じなかったということの方が、私にとってはむしろ不可解なくらいです」(略)

「免色さんはあのとき暗い穴の底に一人きりでいて、怖くはなかったのですか?(略)」

「いいえ、怖くはありませんでした。というか、心の底ではあなたが実際にそうすることを期待していたのかもしれません」

(引用元:「騎士団長殺し 第一部 顕れるイデア編(下)」村上春樹 新潮社 P193-P196/太字・赤字は引用者)

 

免色が地下墓に「一時間ばかり、自分を閉じ込めてくれないか」と主人公に頼んだときの心境を話している会話だ。

この会話が凄く印象的だった。

 

ここで免色が話していることは、よくある「人を殺してみたかった」という話ではなく、「仮説」の話をしたいのだと思う。

「『仮説』を用いて自己のバリエーション(あり得た可能性)を広げていくこと」が本題だ。(と自分は感じた)

 

「氷点下で生きるということ」の登場人物の一人エリック・サリタンが「(アラスカを)静かに散歩していると、自分の思考を遮るものは何もない。まるで教会だ」と言っていたが、これも同じだ。

思考をするときは、「自分という領域(スペース)」を一定必要とする。基本的には「自分以外」のものがなければないほど考えやすい。

 

これにはもうひとつ条件があって、必ず「外側(自分以外の認識)という仮説」が必要になる。

 

自分も書くことで、免色やエリック・サリタンと同じことをしている。

自分がブログを書いているいまこの瞬間は、(当たり前だが)「この文章を読んでくれている人」は実在しない。

しかし、自分はいま書いている時点で、「この文章を読んでくれる人」を仮説として設定して書いている。

 

なぜ、「仮説」を設定するかと言うと、物事を考えるには(それを外側に出すには)「私ではないあなた(外側・穴の外)」が必要だからだ。

免色風に言うと、「閉じこもる私」と「私を閉じ込める主人公(他人)」がいることで、初めて「閉じこもる私」が存在する。

ラカンは「主体は、他者の認識に囲まれることで生じる穴ぼこである」(うろ覚え)と言っていたけれど、主体のバリエーションを増やすためには「他者(自分以外)の認識という仮説」が必要だ。

「自己」は他者の相対としてしか存在しない。

 

話をまとめると、思考するときは、

①自分以外のものがなるべくない領域

②自己を相対化する「他者の認識」という仮説

という、一見矛盾しているように見える二つの要素が必要になる。

 

「他者の認識」という仮説(外側)がないと「自分の領域」を相対化出来ない。

免色が「一番怖いのは、死ぬことではありません。何より怖いのは、永遠にここで生きていなくてはならないのではないかと考え始めることです」(P197)というように「外側がなくなる」=「自己を相対化できなくなる」と「自分という領域」から抜け出ることが出来なくなる。

これはとても恐ろしいことだ。

 

免色は、自分という主体をさらにクリアにするために秋川まりえに近づく。

その時、主人公に仲介者を頼むのは「あなたはあのとき、私を暗く湿った穴の中に永遠に置き去りにしようと、考えもしなかった」(P281)からだと話す。

主人公には、過去に妹のコミが風穴に入ったときも一人で外で待ち続け、コミを連れ帰った実績がある。これも免色は「ほとんど直観として」(P280)感じ取っている。

 

「主人公が真っ当で優しい人だ」というような情緒的な話ではなく、「主人公は『外側・仮説』として機能する人間だ」という実際的な話ではないかと思う。

「私のことを判断しようとはなさらない」(P281)で自己を相対化してくれる仮説(外側)で居続けてくれる人は、免色が言う通りそんなにいない。

コミが「あの風穴の中で既に命を奪われてしまっていた」(P161)にも関わらず主人公が「生きているものと勘違いしたまま電車に乗せ、東京に連れて帰ってきた」(P161)のも、「判断しようとしなかった」からだ。

「判断しない」から、肖像画も「見たままの本質的なもの」を描けるのだ。

 

個人的には人の在り方として、むしろ不自然じゃないかと思うが(下巻を読んでいないのでわからないが、これが離婚の原因じゃないかと推測している)免色はそういう主人公を必要としていた。

 

人は「自分の中の仮説を設定する」と同時に、他人の中で「仮説として機能している」。

自分が「この文章を読んでくれる人」を仮説として設定すると同時に、「実際に読んでくれている人(が仮にいるとしたら)」が文章を読んでいるこの瞬間に、この文章を「書いている人」は「仮説」として設定される。

もちろん文章が書かれていて、読んでいる人は書いた覚えがないのだから、「書いている自分ではない誰か」がいるはずだ。

だがその存在を証明は出来ないので、あくまで推測(仮説)になる。

「この文章を書いた人間」は現実(客観)的には一人だが(一応)、読んでくれた人の中にそれぞれ別の仮説が生まれて個々に主観的に作用する。

 

主人公が妹のコミを「生きているものと勘違いしたまま電車に乗せ、東京に連れて帰ってきた」(P161)ときも、本当の(?)コミは風穴の中で永遠に生き続けている。

主人公は自分自身の穴の中で、コミを「生きているものと勘違いし」たのだ。

 

「実際にはあなたが地上にいて、私は穴の中にいたのに、私はずっと自分が地上にいて、あなたが穴の底にいることばかりを想像していました」と免色が言うように、「穴の外に人がいるから、穴の中から抜け出ることが出来る」のではなく、「人がいる(仮説がある)ということを以て、そこが穴の外になる」ことが重要なのだ。

「穴の外という仮説」があるから、初めて自分に作用が生じて自分という領域が広がっていく。

感覚(主観)としては「広がる」ので、自分が穴の底にいるよりも、「外にいる人が穴の底にいて、自分が穴の外にいる」という感覚が生じる。

「穴の外・底」は、主観的にはあくまで相対的なものに過ぎない。

 

騎士団長が主人公に言う「客観が主観を凌駕するとは限らない」(P256)は、こういうことだと思う。「アリスって本当にいる」(P160)のだ。

 

自分の感じた限りだと、村上春樹の小説はこの「自己の領域を広げる『仮説』の可能性」について書いていることが多い。

 

「騎士団長殺し」で言えば、フォレスターの男につけ回されている女性を実際に殺したのか殺していないのかよりも、「殺したという仮説」のほうが重要だし、その仮説から生じる「自分がフォレスターの男である仮説」、さらにそこから生じる「自分が妻・柚をつけ回し殺す仮説」が重要なのだ。

免色にとって「秋川まりえが私の子供なのかどうか、それは重要なファクターではなく」(P214)よりも「自分の娘である可能性」ほうが重要なのもこのためだ。(と思う)

仮説に仮説を重ねることで、自己の領域を広げていって最終的には「自己を克服すること」(P197)を目指す。*1

 

自分の場合、村上春樹の作品が凄く好きなものとほとんど興味が持てないものに分かれるのは、「仮説の設定の仕方」による。

「その仮説だと、自分が広がらない」と思うものもあれば、現実では行くことができない自分の領域に行けるような感覚を、何度読んでも呼び起こしてくれる作品もある。

 

「騎士団長殺し」は今のところとても面白いので、下巻も楽しんで読みたい。

 

 

派生話題。

www.saiusaruzzz.com

 

 

*1:「ドライブ・マイ・カー」もこの話をしているんじゃないかと思うんだけどな。まあいいんだけど。