※この記事には、村上春樹の作品のネタバレを含まれています。未読の人はご注意下さい。
前回書いた「騎士団長殺し」の記事で、
自分の感じた限りだと、村上春樹の小説はこの「自己の領域を広げる『仮説』の可能性」について書いていることが多い。
「騎士団長殺し」で言えば、フォレスターの男につけ回されている女性を実際に殺したのか殺していないのかよりも、「殺したという仮説」のほうが重要だし、その仮説から生じる「自分がフォレスターの男である仮説」、さらにそこから生じる「自分が妻・柚をつけ回し殺す仮説」が重要なのだ。
免色にとって「秋川まりえが私の子供なのかどうか、それは重要なファクターではなく」(P214)よりも「自分の娘である可能性」ほうが重要なのもこのためだ。(と思う)
仮説に仮説を重ねることで、自己の領域を広げていって最終的には「自己を克服すること」(P197)を目指す。*1
自分の場合、村上春樹の作品が凄く好きなものとほとんど興味が持てないものに分かれるのは、「仮説の設定の仕方」による。
「その仮説だと、自分が広がらない」と思うものもあれば、現実では行くことができない自分の領域に行けるような感覚を、何度読んでも呼び起こしてくれる作品もある。
と書いた。
「自己の領域を広げる『仮説』の可能性」を基準とした、村上春樹作品の分類と評価を考えてみた。*1
作品名の横に「〇」があるのは好きなもの、「◎」は定期的に読み返すくらい好きなものだ。
①「邪悪さの可能性」「弱さの可能性」をどう扱っているか。
「自分(主人公)の外側」に出している作品。
・風の歌を聴け(鼠/弱さ)
・羊をめぐる冒険(羊男/邪悪)
・ダンス・ダンス・ダンス(五反田/弱さ)
・ノルウェイの森(永沢/邪悪&弱さ)〇
・ねじ巻き鳥クロニクル(綿谷ノボル/邪悪)
・海辺のカフカ(父親/邪悪)
・多崎つくる(シロを殺した犯人/邪悪)◎
・アフターダーク(高橋/邪悪)◎
・1Q84(教祖/邪悪)
・騎士団長殺し(免色/邪悪・弱さ)〇(暫定)
主人公自身を「邪悪な(可能性を持つ)存在」として描いているのが
・国境の南、太陽の西〇
・スプートニクの恋人〇
・ドライブ・マイ・カー〇
特に上の二作は、他の作品の主人公が嫌ったり批判したりする側の(邪悪さのある)人間を主人公に据えている。
「ドライブ・マイ・カー」は、「邪悪さ」に落ちる過程と、落ちる寸前に踏みとどまる様子を描いている。
「ドライブ・マイ・カー」の主人公・家福が闇墜ちすると、「国境の南、太陽の西」のイズミのようになる。
「ねじ巻き鳥クロニクル」→「1Q84」→「騎士団長殺し」と見ていくと、綿谷ノボルにあたる人物が教祖→免色と微妙に解釈が変わっていくところが面白い。
②「邪悪な可能性」が明らかか隠されているか。
「邪悪」を象徴する者(人物)が明らかな作品。
・羊をめぐる冒険
・ねじ巻き鳥クロニクル
・海辺のカフカ
・1Q84
「邪悪」がどこに存在するか隠されている作品。
・多崎つくる
・アフターダーク
・国境の南、太陽の西
・ドライブ・マイ・カー
自分の村上作品の好き/興味なしの基準は、ここにある。
一見すると「邪悪」がどこに存在するかわからない、もしくは主筋から離れた場所にある作品が好きだ。
「ねじ巻き鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」は(他の要素はともかく)この点においては明確なので、ほとんど興味が持てない。
「主人公が認識できない領域に邪悪さがある」「多崎つくる」や「アフターダーク」、主人公に邪悪さ(の可能性)が内包されている「国境の南、太陽の西」や「ドライブ・マイ・カー」は好きだ。
「アフターダーク」は、高橋がマリ(とエリ)に対する悪意を秘めた人間であり白川はそれを表象している、ということに他の人の感想を読むまで気付かなかった。
その読み方を知ってから好きになり、今では村上春樹の小説の中で二番めに好きだ。(現金)
上巻しか読んでいないが、「騎士団長殺し」は今のところ、「ねじ巻き鳥クロニクル」や「1Q84」の変奏に見える。
「自己の領域を広げる可能性」を追い求めて邪悪に陥る、もしくはそのためなら邪悪であることに躊躇いがない。
綿谷ノボルにとってのクミコ、教祖にとってのふかえり、免色にとっての秋川まりえの意味は全部同じだ。
広義で言うと「アフターダーク」の高橋にとってのエリやマリ、「多崎つくる」のシロを殺した人物にとってのシロと沙羅、「国境の南、太陽の西」の主人公にとっての島本さんの意味も同じに見える。
邪悪さによって蝕まれ破壊された人がどうなるかは、「多崎つくる」のシロや「国境の南、太陽の西」のイズミに起こったこととして描かれている。
生きながら死んでいる抜け殻のようになり、他の人間に災厄をもたらすようになる。
「アフターダーク」のエリは、そういう存在にならないために眠りについたのではないか、と今思いついた。
村上作品は、「自己の内部の邪悪さという領域に惹かれる葛藤」をずっと描いているように見える。邪悪だとしても「自己の領域」だから、それを広げてみたい、という欲望と、しかしそれを広げた時にどれほど周りの人が甚大な被害を被るか、ということを手を変え、品を変え書いている。
どの作品を見ても、「邪悪さという可能性を追求した人物」の周囲の人は、人格が破壊され抜け殻のようになっている。
これだけ繰り返しモチーフとして用いられていることが、葛藤の大きさを表しているのかなとも思う。
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は、特異的な作品で、「邪悪さ、弱さという仮説」ではなく、外的(現実)世界と内的(象徴)世界の自己の在り方について描かれている。
「騎士団長殺し」で免色が言っていたこと
「一番怖いのは、死ぬことではありません。何より怖いのは、永遠にここで生きていなくてはならないのではないかと考え始めることです」(P197)
が、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で言われていた「第三回路である『世界の終わり』に恒久的に入りこむ」ということだ。
「騎士団長殺し」の主人公は、穴の底に入った免色を一時間後に救い出したけれど、「世界の終わり」の博士は主人公を第三回路に閉じ込めてしまった。(わざとではないが)
「ねじまき鳥クロニクル」では、笠原メイが主人公を井戸(イド)に閉じ込めたが、最後には救い出している。
「騎士団長殺し」の主人公が「普通の人間は、他人を暗く湿った穴に永遠に置き去りにしようなんて思い浮かべもしない」と言っていた時に免色が「本当にそう言い切れますか?」と返したように、そんなことはないのだ。
という風にああでもないこうでもないと果てしなく考えることが出来るが、「騎士団長殺し」で騎士団長が
「もし、その絵が何かを語りたがっておるのであれば、絵にそのまま語らせておけばよろしい。隠喩は隠喩のままに、暗号は暗号のままに」(P256)
「その本質は寓意にあり、比喩にあるからだ。寓意や比喩は言葉で説明されるべきものではない。呑み込まれるべきものだ」(P258)
と言ったように、象徴的に描かれているものの本当の意味は(記号的な)言葉では説明できない。
説明出来るのであれば、創作(絵画)で描く必要がない。
記号的な言葉で区切ったら、まったく別の概念・事象になってしまう、とわかっているが、それでもつい考えたくなってしまうのが、村上作品の大きな魅力だ。
「アフターダーク」もとても好きな作品。
別格。
*1:作品によってはうろ覚えな部分あり。