第26回「悲しむ前に」で頼朝が死んだ。
一時の「神回」続きから、ここ数回はそれなりの面白さに落ち着いていた。(それでも十分面白いのだが)
しかし頼朝の死で、周囲の人間関係の不穏さが増して、自分が期待する面白さが戻ってきそうな予感がする。
特集 インタビュー 源頼朝役・大泉洋さんインタビュー ~源氏の嫡流ゆえの孤独~ | NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
上記のインタビューで頼朝を演じた大泉洋が、脚本についてこう語っている。
三谷さんは喜劇の脚本家だと思われているだろうし、実際そうなわけですけど、僕としては実はものすごく怖い話を書かれる人だと思うんですよね。(略)
そんな三谷さんの描く怖い部分というのは今回の「鎌倉殿の13人」でよく出ていたんじゃないかなと。
前回出演させていただいた「真田丸」(2016年)よりは確実に怖かったですね。戦国時代よりさらに前の時代の話だからかもしれないけど、中盤からは特に「怖い脚本だな」と思って見ていました。
(上記インタビューより引用/太字は引用者)
この部分に何度も頷いた。
自分も「鎌倉殿の13人」は恐ろしい話だ、と思う。それは「この時代は過酷で人々が残酷にならざるえないから」ではない。
「鎌倉殿の13人」の恐ろしさは、冷徹で残酷なだけの人物が一人もいない点にある。
どの登場人物もしたたかで狡猾な部分はあるが、図抜けて残酷な悪党は一人もいない。むしろどの人物も、憎めない部分、愛すべき部分がある。そのことが恐ろしいのだ。
この恐ろしさは木曽義高の死のエピソードに最もよく表れていた。
むしろ全員が全員、義高を必死に助けようとする。
そして、頼朝も最終的には義高を助命することを認める。
それなのに義高は死んでしまった。
それが凄く恐ろしかった。
「鎌倉殿の13人」の主人公は、(今のところ)頼朝や坂東武者たちが作り上げた、「鎌倉という磁場」ではないかと思っている。
第26回の「鎌倉という暴れ馬が、主を振り落とし暴走し始める」というナレを見ると、脚本もある程度、そういう意識で書かれているように見える。
頼朝は徒手空拳の身から、平氏を滅ぼし源氏を再興するために挙兵した。
坂東武者たちは、平氏や朝廷の支配下から逃れ、坂東を自分たちの手に取り戻すために立ち上がった。
頼朝の生き残るための必死さに坂東武者たちが見た素朴な夢が重なった時、突然変異のように「鎌倉」という誰も制御できない恐ろしく暗い磁場が生まれてしまった。
第17回で指摘された通り、「鎌倉は恐ろしい場所」だ。
鎌倉は、「狂っている」と言われた義時たちによって形成されている。同時に、義時たちをその中に閉じ込めて狂わせ歪ませるものでもある。
時政は、かつては政子を侮辱されたと頼朝に対して怒りをあらわにし、鎌倉を飛び出すほど家族思いだった。今回も危篤になった頼朝を心の底から心配し、政子が不憫だと思いやっている。
そんな時政が「頼朝が死ぬ」と思ったとたん、義時と政子に対して「北条のことを何も考えていない。お前らがそんな風だとは思わなかった」と言って権力闘争に走ったのは、りくの言葉にのせられただけではない。
坂東武者である時政は、元々家族(北条家)を思う気持ちが人一倍強い。だからこそ、頼朝の死後、北条家はどうなってしまうのだろうという不安を強く感じてしまう。その不安が、「自分に比べて、義時は政子は北条家のことを考えていない」という不満につながり、怒りや焦りにまで育ってしまう。
時政の中に元々あった「家族を思う気持ち」もりくの上昇志向も、鎌倉という磁場の中で重なったことによって、どんどん変質していっている。
実衣も同じだ。平時ならば「仲が良いこととは別にある、姉に対するちょっとした対抗心」で済むものが、「鎌倉」という磁場にいることで大きく歪んでいく。
鎌倉という場所そのものが悪意を持った生物でもあるかのように、その場にいる人を少しずつ歪ませていく。
では、人々を狂わせる「鎌倉という生物」は、突然変異で生まれたのか。
そうではなく、「鎌倉」はいいところも悪いところもあるこういった愛すべき人物たちの集合体なのだ。
彼らは「鎌倉」というものに狂わされていると同時に、「鎌倉」として人を狂わせる存在でもある。
主人公の義時は「鎌倉」が何なのかも、だからこそこれから鎌倉がもっと恐ろしい場所になることも気付いている。
第17回で「私は鎌倉でしか生きられない」と言ったにも関わらず、今回の頼朝の死をきっかけに逃げ出そうとしたのはそのためだと思う。
政子も「鎌倉」の恐ろしさに気付いているために、義時を卑怯者と言い、引き留めた。
演出上はよくある「重い責任を引き受ける覚悟を決める正念場」に見えるが、自分の中にあるホラー文脈で見ると、「呪いの連環から逃げようとする義時を、絶対に逃がすまいとする政子」に見えたため、ゾクゾクするほど恐ろしかった。
二人はこの先に何が待ち受けているのか薄々気づいている。だが、既にこの呪いから逃げられないところまで来てしまっている。
頼朝の死、頼家の存在が二人を、鎌倉という磁場に鎖でつないでしまったからだ。
「鎌倉という狂った世界」から脱け出す方法は、死ぬか殺されるかしかない。
義経や範頼のように「殺されること」が決まった瞬間に、鎌倉という狂気から解放されて正気に戻り、そこから脱け出すことが出来るのだ。
それまではこの狂気に満ちた暗い磁場の中で、殺し合いを続けるしかない。
皆が初めから欲に満ちた残酷な人間なら、「怖い脚本」ではなかった。そういう人間が、権力を求めて殺し合うのは当たり前だからだ。
しかし、それぞれいい部分を持った素朴な人間たちが、欲のためではなく、ただそれまで自分たちが内部に持っていたものを歪ませて殺し合うというのは、恐ろしいことだ。
恐ろしいことだが、人間は簡単にこういう状態に陥る。
自分が「鎌倉殿の13人」で最も面白いと思っている点は、人や関係性を徐々に歪ませる、「鎌倉という磁場の形成のされ方と恐ろしさ」にある。歴史モノという枠を超えて、そういう人間の特性や関係性の歪み方の描写に異様な説得力がある。
それは磁場の内側にいる人間には、まさに「天命」としか思えないものだ。
「人間関係のちょっとした誤解やすれ違いから来る面白さ」は、三谷幸喜が得意とするところだけど、それを怖さに振り切ると、これほど恐ろしいものが出来上がるのか。
歴史モノだからは先の展開はわかっているのに、何が起こるのか楽しみで仕方がない。
起こる事実自体はわかっているからこそ、あの人の死は、あの事件はどう描かれるのだろう、とあれこれ想像してしまう。
次に退場するのは、順当にいけば梶原景時か。
事あるごとに「天命」と口にし、上野介の運命も賽の目に託したりするところなどを見ると、「天命」に強い信仰を抱いている、そこから逃れることは出来ない、逃れる気もない人物に見える。そしてその強い信仰とはまったく別に、「自分の気持ち」が存在している人物だと思っている。
中村獅童はそこまで好きな役者ではなかったけれど、「鎌倉殿」の景時にはピッタリハマっている。
「人から何を考えているかわからないと思われて損をしてしまうが、本人はそれは仕方ないと割り切っていて、特に何も対処しない。その態度が悟り澄ましている(スカしている)と思われますます誤解される」雰囲気が、よく出ていた。
みんなとやっていることは大して変わらないのにパフォーマンス下手で、一人だけ「陰湿」とか「いけ好かない」とか言われる。そういう役目を引き受けているからそう思われるのは仕方がない、と誰よりも本人が思っている感じが好きだった。
そうか、もう退場か、と思うと見せ場が楽しみであると同時に寂しくもある。全成も好きなんだけどなあ。
「いい人だと思う人がいい人だと思う人を、よく分からない理由で殺していく」というのは、普段であれば「そんなことはありえない」と思う恐ろしい状況だ。
だがそれが「ありえないことではない。こういった恐ろしい磁場が形成された時、誰もが残酷な人間になるという結果が生じてしまうのではないか」と納得出来てしまうことへの恐怖が、「鎌倉殿の13人」の面白さを支えている。
「逃げ上手の若君」1巻の巻末解説に、安達盛長の解説が出て来た。
安達家は、「鎌倉殿の13人」の時代の後、北条得宗家に代々嫁を出す家になり、「逃げ上手の若君」の主人公・時行の母親で、鎌倉幕府最後の執権・高時の正室も安達家の女性だった。そう聞くと、頼朝の骨壺を持つように義時が盛長に勧めるシーンも、見ていてしみじみした気持ちになる。
このご縁が、鎌倉幕府滅亡まで続いたんだな。