うさるの厨二病な読書日記

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木村汎「プーチンとロシア人」の読み始めの感想。「政治学は究極において人間学である」

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プーチンとロシア人

プーチンとロシア人

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4月2日の読売新聞で、同じ著者の「プーチン人間的考察」が紹介されていたのをきっかけに読んでみようと思った。

著者である木村汎は2019年に亡くなっている。この本が書かれたのは2017年だ。

 

「はじめに」と第一章を読み終わったところだが、面白い。

 

「はじめに」は「プーチンを知る必要性」という副タイトルがつけられ、この本の主旨と書きたいと思った理由が述べられている。

 

「はじめに」で、この本の主旨が語られる。

ロシアは経済的には世界の中でそれほど発展しているわけでもないのに関わらず、現在の世界の動きの主導権を握り続けている。

それは「プーチンという(準)独裁者が自分の国を、実力以上の発言権、影響力を持っているように見せかけることに成功しているからだ」と著者は言う。

プーチンは果たしてどのようなやり方ないしはトリックを用いて、国際社会でロシアが実力以上の発言権ないし影響力をもっているかのように見せかけることに成功しているのだろうか。

(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱潮書房光人新社 P5)

 

今のロシアは、プーチノクラシー(プーチン式統治)を抜きにしては語れない。プーチン式統治を知るためには、プーチンという人物がどういう人物かを知らなければならない。

そしてプーチンは、ロシアという国の現状が生み出した、歴史上に押し出した人物である。

だからプーチンを知るためには、ロシアという国の置かれた状況、そしてそこから育まれた国民性を知らなければならない。

こう話が展開される。

 

プーチンを理解し、さらに彼が今後とるであろう政策や措置を予想するためには、ロシア人一般を知ることが肝要になる。

ロシア人の国民的性格を知ることによってはじめて、プーチン独自のように思われる彼の思考回路や、一見、突飛のように思われる行動形式の謎を解く重要なヒントが得られる、と。

(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱潮書房光人新社 P27/太字は引用者)

 

このどこか曖昧で、概念としていくらでも人によって変形させられそうな「国民的性格(国民性)」という言葉をどうとらえているか、なぜそれが重要なのかも「はじめに」でページを割いて説明されている。

 

同じ場所で生まれ育ったからとが言って、全員が同じ性格、価値観、思考方法を取るということはもちろんあり得ない。だが個々人のグラデーションがあるのは前提として、その土地で育った人間が集まった場合、他の土地で育った人間が集まって作られた組織とは傾向の違いが見られる。

その土地で生きるからこその物の見方、価値観、思考の方向性、環境や宗教、歴史から与えられる影響の総体としての「国民性」という概念をどう定義するのか。

話の前提であるタイトルの「ロシア人(国民性)」を曖昧にしないで共有しようとする姿勢の誠実さを見ても、研究者の本として信頼できるなと思った。

 

プーチンは「骨の髄までチェキスト」である。

「はじめに」では、プーチンの人物像の大枠が語られている。

自分が読んだ印象だと、プーチンは骨の髄までチェキスト(工作要員)だ。

「骨の髄までチェキスト」とはどういうことか?

 

プーチンは職業を問われた時に、「私は、人間関係の専門家なんだよ」(P17 )と答えている。これを以て、本書の「はじめに」では、「チェキスト=人間関係の専門家(プロ)」(P19)と定義する。

「良きチェキストになるには、『他人とのあいだで相互関係をつくること。すなわち、個人的な関係を形成する能力を養成して、人間に影響を及ぼすこと』」(P18)だそうだ。

プーチンはこの「人間関係に影響を及ぼす能力」を駆使して、無名のチェキストからエリツィンから後継者に指名されるまで上りつめた。

 

プーチンと三十年近く連れ添った前夫人のリュドミーラは、プーチンについてこう語っている。

「ボロージャ(プーチンの名前、ウラジーミルの愛称)は、自分についての情報を進んであたえようとするタイプの人間ではまったくありません。(略)

汝の妻と物事を共有してはならない。これがKGBの鉄則でした。事実、プーチンの東独勤務が決まったときも、行く先がベルリンではなくドレスデンであることをボロージャは私に決して語ろうとはしてくれませんでした。

(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱潮書房光人新社 P10/太字は引用者)

 

工作員とはそういうものだ、と言われればそうだ。

だが、夫の職業の特色を知らないわけではない奥さんがこういう風に言うということは、元々の性格から「自分についての情報を進んであたえようとするタイプの人間ではなく」工作員としての論理が徹底していたのだろう、と想像がつく。

工作員だからこういうタイプになったのではなく、こういうタイプだから工作員としての仕事が向いていた、もしくは元々の性格が職業的倫理(?)が加わることでさらに拍車がかったように見える。

 

プーチンは自分の情報はなるべく隠しつつ、人との関係性に影響を及ぼす。そうすることで、物事を動かすことに長けている。

「スフィンクス」に例えられるほど情報が隠されているため、プーチンに会う人々は自分に都合のいい像、もしくはプーチンが自分が「こう見せたい」と思う像を信じてしまう。

前者は国民に対して「その人にとっての理想の指導者像」を幻視させることが出来るし、後者は他国や自国の重鎮を動かすことに使っていた。

 

駐東独ソ連領事館でプーチンとオフィスを共有していたウラジーミル・ウソリツェフは、著書「同僚」で次のように記している。(略)

「プーチンは礼儀正しい素振りをしめしながらも、その背後で恐ろしいまでのエネルギーを蓄積させ、沸騰させている人間なのである。にもかかわらず、それを見事に隠しおおせる能力の持ち主でもあった。つまり、上司に極端なまでに忠実な印象をあたえるという能力である」

(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱潮書房光人新社 P29)

 

ウソリツェフは、「プーチンがその能力を駆使したために、海千山千の世故に長けていたはずの初代大統領(エリツィン)ですらころりと参ってしまった」(P20)と語っている。

 

興味深いことに、「プーチンは、自分が見せたいイメージ通りの自分を相手に見せることによって、人を操る」ということは、2015年出版フィオナ・ヒルとクリフォード・G・ガディの「プーチンの世界 『皇帝になった工作員』」(新潮社)でも、

プーチン氏は偽情報や矛盾する情報を流し続け、彼を理解不能で予測できない男、危険な男というイメージを与え人々を恐れさせ、操ろうとする。

と書かれている。

プーチンを研究している人にとっては通説なのかもしれない。

 

プーチンが個人的手法として確立したこの方法が、現在のロシアによって行われている「プーチンという(準)独裁者が自分の国を、実力以上の発言権、影響力を持っているように見せかける、という手法を取っている」プーチノクラシー(プーチン式統治)につながる。

 

自分が個人的に取っていた方法を、国家運営に採用している。

著者の木村汎が別の著書で指摘している通り、「プーチノクラシー(プーチン式統治)は最高権力者の意向次第で動くシステム」なら、プーチンの個人的な政治手法がそのままロシアという国家の政治手法になることは必然だなと思う。

 

なぜプーチンは「自分の情報はなるべく隠しつつ、人との関係性に影響を及ぼすことによって物事を動かすことで、ロシアの国民たちに自分たちの都合のいい指導者像を幻視させる」という手法を取っているのか。

というより、そういう手法を取るプーチンという人間を生み出し、そういう人間が「準独裁者」となるようなロシアという国、その国民性はどんなものなのか。

という話が第一章から始まる。

 

過酷な環境が「千年の奴隷」的心象風景を作ったのではないか。

第一章「背景」は、主に地理的環境(気候や風土、面積)と歴史(タタール、ビザンティン帝国、ギリシア正教)が国民性に与えた影響について書かれている。

 

個人的にロシアの作家は他国の作家よりも、「ロシアの国民性」に強いこだわりや関心を持っている人が多いと感じる。

ゴーリキーが有名だが、こんなことを語っているらしい。

 

ヨーロッパ諸国で人々は幼年時代から、自然の力を征服し、それを人間の理性に順応させるように利用していくという「意志と感覚」を身につける。そこから「人間の価値、労働の尊重、さらに自分自身の重要性について目覚める精神を心に養っていく」

しかし、ゴーリキーは断言する。

「このような考え、感覚、価値観が、ロシアの小農の魂のなかに生まれてくることはありえない」

(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱潮書房光人新社 P48/太字は引用者)

 

これだけを読むと、自国のこととはいえそこまで言うか、という感覚になるが、これと同様のことを他の作家も言っている。

ロシアには古来、個人の自由は社会全体の安定があってようやく保たれるという考えがある。(略)

ロシア人の心性には、永遠の「神の王国」は歴史の終わりに現れるという黙示録的な願望があり、それが政治の現状に対する無関心を助長している。(略)

この国民性をロシアの作家グロスマンは「千年の奴隷」と呼んだ。

(引用元:2022年2月26日読売新聞朝刊14面「視点」亀山郁夫/太字は引用者)

 

「千年の奴隷」とは、ゴーリキーよりもさらに手厳しく聞こえる言葉だ。

 

ソルジェニーツィンは、ロシア人の一典型として描いているバプティスト派の信者にこういう風に言わせている。

自由が何です? 自由の身になればあんたのひとかけらの信仰まで、たちまち、いばらのつるで枯らされてしまいますよ! 

いや、あんたは監獄にいることを、かえって喜ぶべきなんですよ! ここにいれば魂について考える時があるじゃありませんか

(引用元:「イワン・デニーソヴィッチの一日」ソルジェニーツィン/木村浩訳 新潮社 P249/太字は引用者)

 

ロシアの国民性として「外的自由よりも内心の自由を尊重する」……というより、自分の印象で言うと「内心の自由は、外的な自由を制限することによって初めて成り立つものだ」という発想があるように思う。

「奴隷にだって内心の自由がある」ではなく、「内心の自由を得るために、身体は奴隷として縛られている必要がある」。

こういう心象風景(「千年の奴隷的風景」)があるのではないか。

 

なぜこういう(多くの作家が指摘する)原風景がロシアの国民性にはあるのか。

第一章ではロシアの厳しい気候が関係しているのではないか、という視点で語っている。

科学が発達していない時代では、気候は人間よりも高次の存在に例えられてきた。ユダヤ教の原罪思想も、過酷な環境から生み出された考え方(ストーリー)だ。

一年の半分以上を厳寒の中に閉じ込められている→身体的自由を縛られ、その過酷な環境は自分の手には及ばない範囲のことである。

こういう心象風景が、権威主義的なものを受け入れやすい土壌を作ったのではないか、という推測がなされている。

 

後は国土に天然の国境が存在せずに、常に他国からの侵略の危機にさらされ続けてきた、(「タタールの軛」のように、実際二百年、支配された歴史もある)不凍港がないためにクリミアや千島列島への執着が並みではない、という点からの考え方への影響も書かれている。

 

まとめ:面白いが、あくまで一方法論という前提が大事。

第一章を読んだだけで、とても面白い。

 

ただ自分の感覚で言うと「筋が通りすぎている」気がする。

話として明解でわかりやすく面白い……ところが、現実の物事を言及した本としてはむしろ危うい感じがする。

 

ただそのことについては、著者である木村汎自身が一番懸念しているようで、この方法は自分独自のやり方で、こういう視点でロシアという国を語ることは主流のやり方ではないということを断っている。

 

右のようにのべた人間中心のアプローチは方法論のひとつに過ぎない。

「ひとつ」の方法論とのべるわけは、私が、それ以外のやり方、たとえばプーチン・ロシアを準権威主義体制やロシア式国家資本主義が支配している国とみなす見方やアプローチに、反対しているわけではないからである。

しかしながら我が国では、私が本書で採ろうとしているような人間学的アプローチは、これまできわめて稀であった。

(引用元:「プーチンとロシア人」木村汎 ㈱潮書房光人新社 P25/太字は引用者)

 

こういった国民性や人間性から国家の方向性を読み解く方法論のほうが稀であり、ほとんどないからやってみた、と断りを入れている。

ロシア研究の全体としてどの位置にある考え方なのか、他の研究ではどんなものがあり、何が主流なのかということを書いているところに誠実さを感じる。

 

著者が断りを入れている通り、ロシアという国を知るためのひとつの方法論、ということを踏まえて読み進めていこうと思う。

 

 

*読み終わった。

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